"The creation of the magnetic field of a bar of iron by spontaneous symmetry breaking is thus a case of emergence which is unpredictable in principle. Similarly, the ratio of the relative strength of the four forces and the masses of the force carrying particles may not be set by nature but emerge through a random process. No matter how much one knew about the symmetric phase, it would be impossible to predict these values" (p. 23)
→ 強磁性体をCurie温度以上に熱すると強磁性が失われるが,それを徐々に冷却していくと再び強磁性が回復する.磁性体は同時に,特定の(当初とは異なる)磁気モーメントの向きを得るが,この向きを決定する法則はなく,ランダムに決まる.これは自発的対称性の破れの一例.強磁性を回復する前は,磁気モーメントの向きに関してすべての空間方向が対称的だが,強磁性の回復によってこの対称性が自発的に(ランダムに)破れる.初期宇宙において,一つの統一的な力から四つの基本的な力が分れていったのも,同様の過程によると考えられている.いずれの場合においても,対称性が破れる前の状態において,破れた後の状態に関わるパラメータ(強磁性体の場合は磁気モーメントの向き,四つの力の分岐の場合は力の相対的な強さや媒介粒子の質量)は原理的に予測できない.したがってこれは創発(正確には下で触れる通時的創発)の例である.
"Picture then the state of the universe when approximately 1 s old. Is there anything missing from our cosmological picture? Considered from the standpoint of the recognized scientific disciplines, almost everything. There is no chemistry (organic or even inorganic), no biology, no psychology and no sociology. Is this surprising? From a purely physical point of view, not at all. Conditions of the universe at this time are, by Earthly standards, very extreme. The temperature was something like one billion degrees and it was quite impossible for atoms to form. The formation of stable atomic nuclei was just becoming possible as the temperature dropped below 1 billion. There was then a small window of opportunity where density and temperature permitted the synthesis of hydrogen and helium nuclei (as described above). Thus it is a natural fact that the only science which applies to the universe at the age of 1 s is physics. As we move back in time closer to the big bang itself, we encounter more exotic, eventually frankly speculative, physics, but it’s physics all the way back. However, as we pursue time away from the big bang towards the present, we obviously enter the domain of application of all the other sciences. Thus, for example, chemical and biological entities and processes (such as molecules, bonding, living organisms and natural selection) must be in some sense emergent phenomena. A little more precisely, any phenomenon which appears in a system which heretofore did not exhibit it can be labeled diachronically emergent. The cosmological tale as we now conceive it must be a tale of diachronic emergence" (p. 23)
→ ビッグバンから1秒後の宇宙には当然,生物学や社会学の研究対象となるようなものはなく,すべて物理学の研究対象となるものである.つまり初期宇宙に適用可能な科学は物理学だけである.そこから時間が経つにつれて,化学や生物学といった他の科学が研究するような対象が徐々に生まれてくる.これも通時的創発である.通時的創発と対比される創発の形態として,共時的創発(synchronic emergence)も考えられる.上で触れたような宇宙の発展は,通時的創発だけでなく共時的創発も示している.というのも,初期宇宙に存在していた対象は,生物学的な性質(例えば自然選択によって進化するといった性質)を持っていなかったと考えられるが,120億年後には,そのような性質を持った対象が存在することが知られているから.
"The weird behavior of some quantum systems called entanglement, in which two systems that have interacted maintain a mysterious kind of connection across any distance so that interaction with one will instantaneously affect the state of the other, might appear to contradict the adjacency requirement of cellular automata. But, again, it is far from clear that this is a real problem for digital physics and for the same reason. The spatial distance separating the ‘parts’ of an entangled system which makes entanglement seem ‘weird’ need not be reflected in the underlying workings of our hypothetical universal CA. In fact, could it be that the phenomenon of quantum entanglement is trying to tell us that what we call spatial separation is not necessarily a ‘real’ separation at the fundamental level of interaction?" (p. 70)
"When we burn books, it looks as though we are destroying information, but of course the information about the letters remains encoded in the correlations between the particles of smoke that remains; it’s just hard to read a book from its smoke. The smoke otherwise looks universal much like the thermal radiation of a black hole. But we know that if we look at the situation in detail, using the full many-body Schrödinger equation, the state of the electrons evolves unitarily" (Luboš Motl, "Hawking and Unitarity").
"Although both the weather and the Solar System are chaotic dynamic systems, the timescale on which chaos reveals itself in the latter case is so long that we can preserve the illusion that the Solar System is easily predictable. The same would be true of the weather if we wished to use our models to make predictions for the next five minutes (though of course it will take longer than five minutes to get any ‘predictions’ out of our weather models). Predictability is a relative notion: relative to the timescales natural to human observers, relative the natural timescales of chaos of the systems in which we are interested and relative to the time it takes for our models to generate their predictions" (p. 104)
自然の階層構造
自然が階層構造を成していることは自明であるという前提でSeagerは議論を進めている:"If anything about the structure of nature seems obvious and irrefutable it is that nature possesses a hierarchical structure within which ‘higher level’ entities have properties lacked by ‘lower level’ entities" (p. 65). しかしこれは決して自明ではない.実際,自然が階層構造を成していることを否定する論者もいる (James Ladyman & Don Ross, Every Thing Must Go).ここでは「自然が階層構造を成している」という描像がどの程度の妥当性を持つか考えてみる.
私たちが「階層」と呼んでいるのは現象のパターンであり,自然をどのように階層に切り分けるかは,どのパターンに注目するかという観測者の視点から切り離せないように思われる.ただ,四つの基本的な力の到達距離と強さの違いが,観測者の視点に依存しない自然な階層を作っているのは事実である.例えば強い力の到達距離は10 -15 [m] くらいなので,それよりも大きいスケールではその影響を無視できる.また重力に比べて電磁気力の方が圧倒的に強いが,大きい物体では電磁気力は打ち消し合う傾向にあるので,天体のスケールまで行くと重力の影響だけを考えることになる.このように,原子核のスケール,電磁気力支配のスケール,そして重力支配のスケールという三つの自然な階層を区別できる(ただし電磁気力支配から重力支配への移行は滑らかである).
しかし私たちはスケールだけで自然を階層に切り分けているわけではない.例えば生物個体や生物集団に固有のスケールは存在しない.私たちが生物個体の階層を階層として同定するのは,生物に特有の振る舞いのパターン(自己増殖,エネルギー変換,恒常性維持など)に注目することによってである.また生物個体の階層が決まれば,生物集団の階層がそれに相対的に決まる.一般に,自然の中のどのパターンに注目するかという観測者の視点から独立に自然の階層構造が厳然と決まっているわけではないと思われる.この点を念頭に置く限り,「下位」レベルからの「上位」レベルの創発を考えることに特に問題はないだろう.
Conservative and radical emergence
Seagerは(通時的・共時的創発の区別とは別に),下位レベルの法則によって上位レベルの性質をすべて「原理的に」記述できるかどうかによって,創発を"conservative emergence" (CE)と"radical emergence" (RE)の二種類に分けている.記述できるのがCEで,記述できないのがREである.問題は,この世界にREが存在するかどうかだが,SeagerはREの存在を否定し,CEだけが存在するという立場を取っている.そして究極的には,世界のすべての現象は「原理的には」基礎物理学の法則によって記述できるという(「原理的には」って便利の良い言葉だなと思う.原理的に記述できるかどうかって一体どうやって判定するんだ?)
しかし私はSeagerの立場に懐疑的で,「原理的にも」(それがどういう意味であれ)基礎物理学によって記述できないような現象があるのではないかと考えている(そもそもSeager自身が取り上げている上記の対称性の自発的破れはREの例ではないのか?).Seagerを含む分析系の哲学者には,上位レベルの現象のモデルは,下位レベルのモデルの単なる「圧縮」だと考えている人が多い印象がある.つまり彼らは,上位レベルのモデルが,予測にとって実際的には有用だったり不可欠だったりするとしても,下位レベルのモデルから情報の一部を削ぎ落としただけのものだと考えている.因果構造の情報論的な分析から,実はそうではないと論じる面白い研究がある:Erik P. Hoel (2017) "When the Map is Better Than the Territory”(テクニカルでない解説としては,同著者の"Agent Above, Atom Below: How Agents Causally Emerge from Their Underlying Microphysics"を参照).それぞれのレベルにおける現象のモデルの因果構造を情報伝送路に見立てると,誤り訂正符号が情報伝送を効率化するのと同じ原理で,上位レベルのモデルは下位レベルのモデルを効率化するらしい.その結果,上位レベルのモデルが下位レベルのモデルよりも大きな情報量を持ち得る.これはとりもなおさず,下位レベルのモデルでは見えないような因果構造が,上位レベルのモデルに現われているということである.これはもちろん,下位レベルの法則によって記述できないような性質が上位レベルにあるということなので,REに相当する.ここで思い出すのが,「考え深い読者よ,政治的党派心のバイアスのかかったオッカム的な先入観——思考においても,存在においても,発展過程においても,不確定なものは,完全な確定性という原初的状態からの退化に由来する,という先入観を取り払いなさい」というPeirceの言葉である.上位レベルのパターンが下位レベルのパターンの単なる「圧縮」だというのは,Peirceの言うところのオッカム的な先入観なのではないだろうか.
下方因果
自己組織化や創発の議論でよく話題になるのが,いわゆる「下方因果」(downward causation / top-down causation)である.しかし,Seagerの本に触発されて下方因果についての研究をいくつか読んでみたところ,用語の使い方が曖昧で,議論が酷く混乱している印象を受ける.Menno Hulswitが指摘するように("How Causal is Downward Causation?"),原因と結果それぞれの存在様式(一般的な法則なのか,個別的な出来事なのか,何らかの実体なのか)にほとんど注意が払われていないことが,混乱を生み出す要因の一つになっているように思われる.また「下方因果」というときの因果性が,作用因なのか,それとも形相因・目的因的なものなのか,判然としないことが多い.
下方因果の捉え方として有望だと思われるものが二つある.一つは,下方因果の「原因」に相当するのは,下位レベルの法則に付加される「境界条件」だというMichael Polanyiの理論である(例えばKnowing and Being: Essays by Michael Polanyi, pp. 233–34).例えばある言語で発話される文章をいくつかの階層に分けるとすると,最下位には音韻があり,次に語彙があり,その次に文法規則があり,その次に文章作成のスタイルがある,といった具合である.音韻は,与えられた言語で許される音の組み合わせを規定するが,でたらめに音を並べただけでは単語にならないので,さらにその言語の語彙を指定する必要がある.語彙は音韻の規則を破ることなく,許される音の組み合わせを制限する.同様に,でたらめに単語を繋ぎ合わせただけでは文にならないので,単語の組み合わせ方に制限を加える文法規則がさらに必要である.このように上位レベルの規則は,下位レベルの規則を破ることなくそれに対して制限を加える「境界条件」になっているというのがPolanyiの理論である.生命の階層と,物理的・化学的な法則によって支配される非生命的物質の階層の間にも同様の関係があると彼は言う.この理論では,下方因果の「原因」に相当するのは,下位レベルの法則に付加される一般的な法則だということになる.しかし,こうした境界条件がどのように生じるのかはあまり明らかでない.
もう一つの捉え方は,下方因果は形相因・目的因的なもので,「原因」に相当するのは一般的な法則だというもの.Peirceの立場がこれに該当すると思われる.例えばスポーツ観戦で熱狂する群衆を考えると,群衆の一人一人のメンバーの振る舞いは,群衆全体の雰囲気の影響を受けるが,この影響は,「一般的な法則ないし習慣が個々の出来事を,共通のパターンに従うように方向付ける」という意味で目的論的な影響である.このような影響が可能であるためには,(単なる無知の表れではないという意味で)客観的な偶然が必要である.というのも,もし各要素の振る舞いがすべて決定論的に決まっているとすれば,目的論的な法則がそれを「方向付ける」余地はなくなってしまうから.目的論的な法則は,そこからの逸脱の可能性があって初めて成立する.
And those who were seen dancing were thought to be insane by those who could not hear the music.
2018年8月27日月曜日
2014年8月20日水曜日
【メモ】 Lawrence Sklar (1982) "Saving the Noumena"
以下、頁番号はすべてThe Philosophy of Science (Oxford Readings in Philosophy)のもの。
二つの理論があって、経験的帰結だけではどちらの理論が正しいかを決定できないとき、実証主義者はこう考える:同じ経験的帰結をもたらす二つの理論は等価である。(これを実証主義の等価原理と呼ぶ)
この考えは一見説得的だが、Sklarによると、理論的対象(原理的に観測不可能な対象)に対する反実在論的な態度を伴う。例えば電子に対して存在論的にコミットする理論と、単に道具主義的に扱う理論とが、「現象を救う」限りにおいて等価になってしまう。実在論者としては、これを回避したいが、そのためには実証主義の等価原理よりも強い何らかの理論の等価性の条件を案出しなければならない。
【構造的同型性】
Sklarが提案するのは、二つの理論の間に構造的な同型性があること。
Two theories might have all the same observational predictions but be so radically different in their structure at the theoretical level that one ought to take them as attributing (realistically) quite different explanatory structures to the world. (p.67)
Together, these two features of the theory, commonality of observational consequences and the existence of the appropriate structural mapping at the theoretical level, are taken to be enough to establish theoretical equivalence. (p.66)
しかし、この条件には難点があるとSklarは言う。デカルト流の、欺く悪霊の想定や、水槽の脳のような想定が、通常の実在論的な記述と等価になってしまうという点である。これだと実証主義に接近し過ぎだとSklarは指摘する。
For if the brain-in-a-vat account of the world is really equivalent to the ordinary material object world account, so long as the brain-in-a-vat account is suitably formally structured, then have we really gotten very far from merely saving the phenomena as sufficient for theoretical equivalence? (p.70)
→ これに対しては、次のように答えることができる。もし存在論的なコミットメントに関して異なる二つの理論が構造的に同型であるならば、その二つの理論は等価である。構造を離れた何らかの存在者を想定する必要はない、と。「欺く悪霊」の理論は、我々の通常の世界記述を、ミスリーディングな言い回しで言い換えたものに過ぎないのではないか。
【理論の決定】
経験的なレベルにおける等価性よりも強い等価性の条件を主張すると、理論選択の合理化の問題が再浮上する。
Taking equivalence to demand more than commonality of observational consequences, the realist is faced with the threat of skepticism which arises when he tolerates inequivalent theories having all their observational consequences in common. (p.73)
例えば理論の単純性や、過去の理論との連続性といった基準が考えられるが、実在論者は、その基準が合理的である理由を説明する必要がある。
→ 思うに、この点が問題になるのは、観察可能/観察不可能という区分を、Sklarが真に受け過ぎているから。彼は、観察可能性と検証可能性とを混同している。前者は後者を含意しない。というのも、観察不可能だが間接的に検証可能な事例は数多く存在するから。例えば、電場。電場は直接観察不可能だが、真空中の荷電粒子が加速されるのを観察できれば、荷電粒子に力を及ぼす空間の性質が存在すると結論できる。これを我々は電場と呼んでいるわけだ。要は、検証可能性は観察可能性よりも広い概念だということ。そして、Sklarの想定する実在論者に反して、この広い意味の検証によっても区別できない二つの理論があれば、その二つの理論は等価であると主張しても良いのではないか。今の私に擁護できるテーゼではないが、次のように主張したい:同じ経験的帰結を含意する二つの理論は、構造的にも同型である。つまり、構造が異なれば、その違いは必ず(間接的にであれ)検出可能だということ。
【説明】
理論の決定問題は、データから理論へ向かう「上向き」の問題であった。次は理論からデータへ「下向き」へ向かう説明の問題を考える。ある理論のCraigian還元、つまりその理論の観察可能な帰結をすべて述べる文への還元を考える。実在論者は、Craigian還元が、元の理論と等価、あるいは元の理論よりも単純で優れた定式化であるという結論を回避したい。そのために、実在論者は、Craigian還元には説明力がないと主張する。
Theoretical postulation, we are told, does not merely summarize observational generality nor accommodate it in a compact syntactical form. Theoretical postulation is taken to explain the observational generality. Hence the mere statement of that generality is, in a fundamental sense, totally devoid of any real explanatory power. (p.76)
しかし、「説明力」とは何であろうか。少なくとも、(経験的等価性に加えて)構造の同型性を理論の等価性の十分な条件と見なすような実在論者にとっては、このような観察可能な事実を超えた「説明力」の概念は収まりが悪い。
I want to argue that there is a fundamental tension between the realist's desire to posit a notion of explanation over and above that adopted by the positivist, and his desire to maintain a theory of the meaning of theoretical terms which allows for the notion of theoretical equivalence we have been discussing. (p.77)
理論的な対象や性質を措定することによって、現象に一体何が加わるのか?という問いに対する答えの一つの候補は、「統一」である。例えば、慣性運動が特権的な運動状態として観察されることから、時空構造そのものを、運動する物体から独立の実体として措定するケースを考える。物理的系と、その背後にあるこの時空構造との関係によって、慣性運動と非慣性運動の力学的・光学的な差異が説明される。実在論者によれば、かくして多様な現象が、一つの形式の元に統一される。
これに対する実証主義者の反論:
The appearance of additional explanatory value in the substantivalist spacetime account, over the purely relationist theory, is due to the fact that while the reference to spacetime itself is really introduced only in the holistic-place-in-the-theory manner of the realist we have been emphasizing, the naive picture of spacetime as a kind of "ghostly" substance, sort of like a thin "rigid" extended material thing, gives us the impression that we are getting an explanation like that which the other kind of realist would offer. (p.78)
これは全くその通りと思われる。結局、
[T]his notion of theoretical meaning [as holistic place in the theory] and of theoretical equivalence [as observational equivalence + structural isomorphism] ... suffers also from the difficulty of making it hard for us to see just what it is that is explanatory in a theory, or in any of its equivalents, which is not already there in the allegedly nonequivalent and non-explanatory Craigian reduction of the theory so beloved of positivists. (p.79)
Craigian還元でもなく、理論外からの意味の輸入に依存するような説明でもない、二つの極端の間を行く何らかの「統一」の概念が必要と考えられる。
二つの理論があって、経験的帰結だけではどちらの理論が正しいかを決定できないとき、実証主義者はこう考える:同じ経験的帰結をもたらす二つの理論は等価である。(これを実証主義の等価原理と呼ぶ)
この考えは一見説得的だが、Sklarによると、理論的対象(原理的に観測不可能な対象)に対する反実在論的な態度を伴う。例えば電子に対して存在論的にコミットする理論と、単に道具主義的に扱う理論とが、「現象を救う」限りにおいて等価になってしまう。実在論者としては、これを回避したいが、そのためには実証主義の等価原理よりも強い何らかの理論の等価性の条件を案出しなければならない。
【構造的同型性】
Sklarが提案するのは、二つの理論の間に構造的な同型性があること。
Two theories might have all the same observational predictions but be so radically different in their structure at the theoretical level that one ought to take them as attributing (realistically) quite different explanatory structures to the world. (p.67)
Together, these two features of the theory, commonality of observational consequences and the existence of the appropriate structural mapping at the theoretical level, are taken to be enough to establish theoretical equivalence. (p.66)
しかし、この条件には難点があるとSklarは言う。デカルト流の、欺く悪霊の想定や、水槽の脳のような想定が、通常の実在論的な記述と等価になってしまうという点である。これだと実証主義に接近し過ぎだとSklarは指摘する。
For if the brain-in-a-vat account of the world is really equivalent to the ordinary material object world account, so long as the brain-in-a-vat account is suitably formally structured, then have we really gotten very far from merely saving the phenomena as sufficient for theoretical equivalence? (p.70)
→ これに対しては、次のように答えることができる。もし存在論的なコミットメントに関して異なる二つの理論が構造的に同型であるならば、その二つの理論は等価である。構造を離れた何らかの存在者を想定する必要はない、と。「欺く悪霊」の理論は、我々の通常の世界記述を、ミスリーディングな言い回しで言い換えたものに過ぎないのではないか。
【理論の決定】
経験的なレベルにおける等価性よりも強い等価性の条件を主張すると、理論選択の合理化の問題が再浮上する。
Taking equivalence to demand more than commonality of observational consequences, the realist is faced with the threat of skepticism which arises when he tolerates inequivalent theories having all their observational consequences in common. (p.73)
例えば理論の単純性や、過去の理論との連続性といった基準が考えられるが、実在論者は、その基準が合理的である理由を説明する必要がある。
→ 思うに、この点が問題になるのは、観察可能/観察不可能という区分を、Sklarが真に受け過ぎているから。彼は、観察可能性と検証可能性とを混同している。前者は後者を含意しない。というのも、観察不可能だが間接的に検証可能な事例は数多く存在するから。例えば、電場。電場は直接観察不可能だが、真空中の荷電粒子が加速されるのを観察できれば、荷電粒子に力を及ぼす空間の性質が存在すると結論できる。これを我々は電場と呼んでいるわけだ。要は、検証可能性は観察可能性よりも広い概念だということ。そして、Sklarの想定する実在論者に反して、この広い意味の検証によっても区別できない二つの理論があれば、その二つの理論は等価であると主張しても良いのではないか。今の私に擁護できるテーゼではないが、次のように主張したい:同じ経験的帰結を含意する二つの理論は、構造的にも同型である。つまり、構造が異なれば、その違いは必ず(間接的にであれ)検出可能だということ。
【説明】
理論の決定問題は、データから理論へ向かう「上向き」の問題であった。次は理論からデータへ「下向き」へ向かう説明の問題を考える。ある理論のCraigian還元、つまりその理論の観察可能な帰結をすべて述べる文への還元を考える。実在論者は、Craigian還元が、元の理論と等価、あるいは元の理論よりも単純で優れた定式化であるという結論を回避したい。そのために、実在論者は、Craigian還元には説明力がないと主張する。
Theoretical postulation, we are told, does not merely summarize observational generality nor accommodate it in a compact syntactical form. Theoretical postulation is taken to explain the observational generality. Hence the mere statement of that generality is, in a fundamental sense, totally devoid of any real explanatory power. (p.76)
しかし、「説明力」とは何であろうか。少なくとも、(経験的等価性に加えて)構造の同型性を理論の等価性の十分な条件と見なすような実在論者にとっては、このような観察可能な事実を超えた「説明力」の概念は収まりが悪い。
I want to argue that there is a fundamental tension between the realist's desire to posit a notion of explanation over and above that adopted by the positivist, and his desire to maintain a theory of the meaning of theoretical terms which allows for the notion of theoretical equivalence we have been discussing. (p.77)
理論的な対象や性質を措定することによって、現象に一体何が加わるのか?という問いに対する答えの一つの候補は、「統一」である。例えば、慣性運動が特権的な運動状態として観察されることから、時空構造そのものを、運動する物体から独立の実体として措定するケースを考える。物理的系と、その背後にあるこの時空構造との関係によって、慣性運動と非慣性運動の力学的・光学的な差異が説明される。実在論者によれば、かくして多様な現象が、一つの形式の元に統一される。
これに対する実証主義者の反論:
The appearance of additional explanatory value in the substantivalist spacetime account, over the purely relationist theory, is due to the fact that while the reference to spacetime itself is really introduced only in the holistic-place-in-the-theory manner of the realist we have been emphasizing, the naive picture of spacetime as a kind of "ghostly" substance, sort of like a thin "rigid" extended material thing, gives us the impression that we are getting an explanation like that which the other kind of realist would offer. (p.78)
これは全くその通りと思われる。結局、
[T]his notion of theoretical meaning [as holistic place in the theory] and of theoretical equivalence [as observational equivalence + structural isomorphism] ... suffers also from the difficulty of making it hard for us to see just what it is that is explanatory in a theory, or in any of its equivalents, which is not already there in the allegedly nonequivalent and non-explanatory Craigian reduction of the theory so beloved of positivists. (p.79)
Craigian還元でもなく、理論外からの意味の輸入に依存するような説明でもない、二つの極端の間を行く何らかの「統一」の概念が必要と考えられる。
2014年7月14日月曜日
感覚の秩序と物理的世界の秩序
感覚の秩序:
事物は、それらが生体に対して及ぼす効果に応じて分類され、感覚の秩序へ組み込まれる。ある事物がこの秩序内に占める位置は、生体に対してその事物が及ぼす効果を表現している。
物理的世界の秩序:
事物は、それらが互いに及ぼす効果に応じて分類され、物理的世界の秩序へ組み込まれる。事物がこの秩序内に占める位置は、それが他の諸事物と取り結ぶ相互的な関係を表現している。
科学の過程は、前者の感覚秩序による事物の分類を、徐々に、後者の物理的秩序による事物の分類に置き換えて行く過程と見なすことができる。これはすなわち、事物が生体に対して及ぼす効果を度外視していく過程に他ならない。
例えば、水と塩酸は、見た目は同じであるから、(少なくとも視覚刺激に限定すれば)感覚秩序においては同じ事物として分類される。しかし、水は鉄と反応しないが、塩酸は鉄を溶かす、という風に、他の事物との相互関係に基づいて、我々は水と塩酸を別の事物として分類できる。これはごく素朴な例であるが、感覚秩序を徐々に物理的秩序に置き換えて行く過程のエッセンスを捉えていると思われる。
ここで重要なのは、物理的世界の秩序はあくまで関係の秩序である、という点。物理的な事物は、物理的構造の中のノードとしてしか意味を持たず、その構造と無関係であるような如何なる性質も持たない。「塩酸」という概念の意味は、それが他の概念と取り結ぶ関係によって尽くされており、それを超えた「塩酸そのもの性」のようなものはない。
物理的構造の実在性
『実体概念と関数概念』においてCassirerは、変換に対する頑強性を以て構造の客観性(実在性)を定義した。しかし、これだけでは、少なくとも物理的構造の場合、客観性の基準として十分でないように思われる。というのも、同じデータを説明できる構造が、一意的に決まるとは限らないからである。変換に対する頑強性という客観性の捉え方の不十分さは、経験との結び付きが欠けていることに起因している。経験を考慮するには、ある構造の予測能力が、変換によってどの程度影響を蒙るかを考察する必要がある。
事物は、それらが生体に対して及ぼす効果に応じて分類され、感覚の秩序へ組み込まれる。ある事物がこの秩序内に占める位置は、生体に対してその事物が及ぼす効果を表現している。
物理的世界の秩序:
事物は、それらが互いに及ぼす効果に応じて分類され、物理的世界の秩序へ組み込まれる。事物がこの秩序内に占める位置は、それが他の諸事物と取り結ぶ相互的な関係を表現している。
科学の過程は、前者の感覚秩序による事物の分類を、徐々に、後者の物理的秩序による事物の分類に置き換えて行く過程と見なすことができる。これはすなわち、事物が生体に対して及ぼす効果を度外視していく過程に他ならない。
例えば、水と塩酸は、見た目は同じであるから、(少なくとも視覚刺激に限定すれば)感覚秩序においては同じ事物として分類される。しかし、水は鉄と反応しないが、塩酸は鉄を溶かす、という風に、他の事物との相互関係に基づいて、我々は水と塩酸を別の事物として分類できる。これはごく素朴な例であるが、感覚秩序を徐々に物理的秩序に置き換えて行く過程のエッセンスを捉えていると思われる。
ここで重要なのは、物理的世界の秩序はあくまで関係の秩序である、という点。物理的な事物は、物理的構造の中のノードとしてしか意味を持たず、その構造と無関係であるような如何なる性質も持たない。「塩酸」という概念の意味は、それが他の概念と取り結ぶ関係によって尽くされており、それを超えた「塩酸そのもの性」のようなものはない。
物理的構造の実在性
『実体概念と関数概念』においてCassirerは、変換に対する頑強性を以て構造の客観性(実在性)を定義した。しかし、これだけでは、少なくとも物理的構造の場合、客観性の基準として十分でないように思われる。というのも、同じデータを説明できる構造が、一意的に決まるとは限らないからである。変換に対する頑強性という客観性の捉え方の不十分さは、経験との結び付きが欠けていることに起因している。経験を考慮するには、ある構造の予測能力が、変換によってどの程度影響を蒙るかを考察する必要がある。
2014年7月3日木曜日
異なる次元を持つ物理量同士の乗除がよくて、加減がいけない理由
異なる次元を持つ物理量同士の掛け算や割り算はよくて、足し算や引き算がいけないのは、物理学を習った人なら誰もが知っているだろう。例えば長さ÷時間=速度だが、長さ+時間というのは意味を成さない。しかし、このルールは大概、直観的に正しいものとして提示されるだけで、その論拠が示されることは殆どない(少なくとも初等的な教育では)。長さ+時間が「意味を成さない」とは一体どういうことだろうか?
まず準備として、「単位」(unit)と「次元」(dimension)という二つの概念を区別しておきたい。例として、m、km、parsecなどはそれぞれ別の単位であり、これらはすべて同じ「長さ」という次元を持つ。次元が同じで単位が異なる二つの物理量は、スケールを変換する関係式を利用して単位を揃えることができる(例えば1km = 1000mという関係を利用すれば、1km+100mの単位を揃えて1100mと書くことができる)。
さて、「林檎と蜜柑の足し算」というシンプルな例から始める。「林檎」と「蜜柑」をそれぞれ別の次元の単位と見なし、それぞれの個数の合計を考える。異なる次元を持つ物理量同士の足し算はできないと思われるかもしれないが、何のことはない。「果物」という、「林檎+蜜柑」の次元を持つ新しい単位を導入して、数値同士を足した結果に付与すればいい。例えば1林檎+1蜜柑=2果物、という風に。この新しい単位は全く問題なく使えるし、現に我々は日常生活の中で使っている。この例を見れば、異なる次元を持つ物理量同士の加減を排除する理由はないように見える。確かに、アプリオリに排除する理由は全くないが、上の議論をあらゆる物理量に一般化できない理由がある。
上の林檎と蜜柑の例と全く同じように、
a [m] + b [s] = c [x] …… ① (a、b、cは何らかの数値、mはメートル、sは秒)
と置いて、新しい単位xを導入する。このxがどのような単位であるかは分からないが、長さ+時間の次元を持つもの、という風に約束しておく。さて、c[x]で表される上の量を、b[s]のスケールをμsに変えて表すとすればどうなるか。このときb[s] = 106・b[μs]である。同様にa[m]もcmに変換する。すなわちa[m] = 100a[cm]である。スケール変換後の量c[x]をc'[x']と置く(x'はxと同じ次元を持つがxとは別の単位である)。すなわち
100a [cm] + 106・b [μs] = c' [x'] …… ②
これら二つの式を用いて、個々のケースにおいて、c[x]とc'[x']をそれぞれ求めることができる。例えばa = b = 1の場合、c = 2、c' = 102+106と求まる。[1] しかし、a、bが分からない状態で、cを直接c'に変換することはできない。時間と長さのスケールの変換の仕方によっては、写像f:c→c'を具体的に求めることができる場合もあるが(例えばa、bが一律に10倍であればcも10倍)、一般的には不可能である。a[m]、b[s]の値が分からないとc'[x']の値は求まらないわけだから、c'[x']は①式で定めたスケールに依存していることが見て取れる。
では乗除の場合はどうであろうか。
a [m] ・ b [s] = c [y] …… ③
という掛け算を考える(割り算の場合も同様)。 yは長さ・時間の次元を持つ単位である。上の足し算の場合と同じように、a[m]とb[s]のそれぞれのスケールをcm、μsに変換し、変換後の量c[y]をc'[y']と置く。すると
c' [y'] = 100a[cm] ・ 106・b [μs] = 108a・b [cm・μs] = 108c [cm・μs] …… ④
③④式より、c[y] (= c'[y']) = 108c[y'] という単位間の変換式が得られ、a、bの値が分からなくても、直接cをc'に、あるいはc'をcに変換できることが分かる(ここではc'=108c)。つまりc'[y']の値(およびc[y]の値)はスケールの取り方に依存していない。
以上まとめると、異なる次元を持つ物理量同士の加減の場合、新しい単位を導入して加減の結果を表すことは可能だが、この新しい単位における値は、最初のスケールの取り方に依存してしまい、そのスケールにおけるそれぞれの要素の値が分かっていないと、別のスケールにおける結果の値を求めることができない。対して乗除の場合、新しく導入された単位はスケールの取り方に依存せず、ある変換式によって異なるスケール間を簡単に往復できる。スケールの取り方に依存しない、というのは恣意性を排除する上で重要である。物理学の法則が、メートルや秒といった特定の単位の取り方に依存していてはまずい。F = maという関係は、どのような単位で測定しようが成り立たなければならない。物理学では、これを対象や法則のスケール不変性(scale invariance)という。そしてスケール不変性が成り立つためには、異なるスケール間を行き来できる変換式が存在しなければならないのだ。
なお、最初の林檎と蜜柑のケースでは、「果物」という新しい単位が、特定のスケールに依存しているが、これはさほど問題にならない。なぜなら、日常観察される離散的な個物の場合、1、2、3、という風に数える単位系が自然であり、あまり恣意性がないからである。
[1] 我々は異なる次元同士の加減に慣れていないので、この求め方は一見変に見えるかもしれないが、等式の両辺の次元が等しいことを念頭に置いて、a+b [m+s] = c [x]、という風に数値と単位を分けて考えれば良い。ただ単位を、通常の代数法則を満たし、数値と同等の身分を持つ記号として扱うならば、もちろんax+by = (a+b)(x+y)といったような関係は成り立たない。これを以て、異なる次元を持つ物理量同士の加減を禁止する論拠と見なすことも可能だろうが、ここでは約束として、単位を数値と同等の記号としては扱わない。というのも、単位を数値と同等の記号と見なすことを正当化するのは、以下において説明するスケール不変性の議論の結果であるように思われるからである。少なくとも、単位が数値と同等の記号と見なされるべきであることは、決して自明ではない。
まず準備として、「単位」(unit)と「次元」(dimension)という二つの概念を区別しておきたい。例として、m、km、parsecなどはそれぞれ別の単位であり、これらはすべて同じ「長さ」という次元を持つ。次元が同じで単位が異なる二つの物理量は、スケールを変換する関係式を利用して単位を揃えることができる(例えば1km = 1000mという関係を利用すれば、1km+100mの単位を揃えて1100mと書くことができる)。
さて、「林檎と蜜柑の足し算」というシンプルな例から始める。「林檎」と「蜜柑」をそれぞれ別の次元の単位と見なし、それぞれの個数の合計を考える。異なる次元を持つ物理量同士の足し算はできないと思われるかもしれないが、何のことはない。「果物」という、「林檎+蜜柑」の次元を持つ新しい単位を導入して、数値同士を足した結果に付与すればいい。例えば1林檎+1蜜柑=2果物、という風に。この新しい単位は全く問題なく使えるし、現に我々は日常生活の中で使っている。この例を見れば、異なる次元を持つ物理量同士の加減を排除する理由はないように見える。確かに、アプリオリに排除する理由は全くないが、上の議論をあらゆる物理量に一般化できない理由がある。
上の林檎と蜜柑の例と全く同じように、
a [m] + b [s] = c [x] …… ① (a、b、cは何らかの数値、mはメートル、sは秒)
と置いて、新しい単位xを導入する。このxがどのような単位であるかは分からないが、長さ+時間の次元を持つもの、という風に約束しておく。さて、c[x]で表される上の量を、b[s]のスケールをμsに変えて表すとすればどうなるか。このときb[s] = 106・b[μs]である。同様にa[m]もcmに変換する。すなわちa[m] = 100a[cm]である。スケール変換後の量c[x]をc'[x']と置く(x'はxと同じ次元を持つがxとは別の単位である)。すなわち
100a [cm] + 106・b [μs] = c' [x'] …… ②
これら二つの式を用いて、個々のケースにおいて、c[x]とc'[x']をそれぞれ求めることができる。例えばa = b = 1の場合、c = 2、c' = 102+106と求まる。[1] しかし、a、bが分からない状態で、cを直接c'に変換することはできない。時間と長さのスケールの変換の仕方によっては、写像f:c→c'を具体的に求めることができる場合もあるが(例えばa、bが一律に10倍であればcも10倍)、一般的には不可能である。a[m]、b[s]の値が分からないとc'[x']の値は求まらないわけだから、c'[x']は①式で定めたスケールに依存していることが見て取れる。
では乗除の場合はどうであろうか。
a [m] ・ b [s] = c [y] …… ③
という掛け算を考える(割り算の場合も同様)。 yは長さ・時間の次元を持つ単位である。上の足し算の場合と同じように、a[m]とb[s]のそれぞれのスケールをcm、μsに変換し、変換後の量c[y]をc'[y']と置く。すると
c' [y'] = 100a[cm] ・ 106・b [μs] = 108a・b [cm・μs] = 108c [cm・μs] …… ④
③④式より、c[y] (= c'[y']) = 108c[y'] という単位間の変換式が得られ、a、bの値が分からなくても、直接cをc'に、あるいはc'をcに変換できることが分かる(ここではc'=108c)。つまりc'[y']の値(およびc[y]の値)はスケールの取り方に依存していない。
以上まとめると、異なる次元を持つ物理量同士の加減の場合、新しい単位を導入して加減の結果を表すことは可能だが、この新しい単位における値は、最初のスケールの取り方に依存してしまい、そのスケールにおけるそれぞれの要素の値が分かっていないと、別のスケールにおける結果の値を求めることができない。対して乗除の場合、新しく導入された単位はスケールの取り方に依存せず、ある変換式によって異なるスケール間を簡単に往復できる。スケールの取り方に依存しない、というのは恣意性を排除する上で重要である。物理学の法則が、メートルや秒といった特定の単位の取り方に依存していてはまずい。F = maという関係は、どのような単位で測定しようが成り立たなければならない。物理学では、これを対象や法則のスケール不変性(scale invariance)という。そしてスケール不変性が成り立つためには、異なるスケール間を行き来できる変換式が存在しなければならないのだ。
なお、最初の林檎と蜜柑のケースでは、「果物」という新しい単位が、特定のスケールに依存しているが、これはさほど問題にならない。なぜなら、日常観察される離散的な個物の場合、1、2、3、という風に数える単位系が自然であり、あまり恣意性がないからである。
[1] 我々は異なる次元同士の加減に慣れていないので、この求め方は一見変に見えるかもしれないが、等式の両辺の次元が等しいことを念頭に置いて、a+b [m+s] = c [x]、という風に数値と単位を分けて考えれば良い。ただ単位を、通常の代数法則を満たし、数値と同等の身分を持つ記号として扱うならば、もちろんax+by = (a+b)(x+y)といったような関係は成り立たない。これを以て、異なる次元を持つ物理量同士の加減を禁止する論拠と見なすことも可能だろうが、ここでは約束として、単位を数値と同等の記号としては扱わない。というのも、単位を数値と同等の記号と見なすことを正当化するのは、以下において説明するスケール不変性の議論の結果であるように思われるからである。少なくとも、単位が数値と同等の記号と見なされるべきであることは、決して自明ではない。
2014年4月14日月曜日
On Uchii Soshichi’s “Monadology, Information, and Physics Part 1: Metaphysics and Dynamics”
Dr. Uchii Soshichi's paper "Monadology, Information, and Physics" (released recently in preprint: http://philsci-archive.pitt.edu/10599/) explicates his informational interpretation of Leibniz's Monadology. This interpretation attempts to reconstruct Leibniz's dynamics, and the metaphysics upon which it is founded, using the terminology of contemporary information theory. The gist of Dr. Uchii's paper is that such reconstruction is a fruitful approach towards attaining a general understanding of Leibniz's system. Part 1 deals with Leibniz's dynamics and metaphysics, and Part 2 with space and time, though it is uncertain how many parts there will be in all. Here I will only take up Part 1.
The paper's abstract and preliminary overview may at first seem erratic, in that Dr. Uchii does not so much argue for his interpretation as simply assert it in the form of analogy, but the reader who follows the ensuing discussions will gradually find Dr. Uchii's reading to be convincing. While it need hardly be said that Leibniz did not know concepts such as "transition function" and "recursion," Dr. Uchii's paper gives compelling evidence that Leibniz indeed had in mind, albeit in perhaps a vague and incomplete form, something that corresponds neatly to these concepts. In what follows, I would like to address some points of concern, and then conclude with a few remarks on the fruitfulness of reading contemporary concepts into the thought of great minds of the past.
Deriving Vis Viva from Solicitatio
My first concern deals with a technicality I was unable to understand. In Section 5, where Dr. Uchii discusses Leibniz's distinction between vis viva (living force) and vis mortua (dead force), he takes up the concept of solicitatio, or "infinitely small urge (to motion)." Apparently, solicitatio is an infinitesimal increment of velocity, the accruement of which gives rise to macroscopic acceleration. Now, Dr. Uchii expresses the solicitatio of a falling body by dx, speed by x, and from these, attempts to derive the vis viva (macroscopic acceleration) of the body. For the sake of brevity I shall quote the entire paragraph in question, replacing x and dx with v and dv respectively (pp.16-17):
Does Infinite Recursion Give Rise to a Universal Monad?
An important concept in Dr. Uchii's informational interpretation of Leibniz's system is recursion, by which is understood the iteration of a certain program. Of particular significance is the notion of nested recursion, i.e. the application of a program to itself, in such a way as to give rise to a nested hierarchy of programs, "going down from the single dominant program (corresponding to entelechy) to subprograms, which again controls respective subprograms, and ad infinitum" (p.1). According to Dr. Uchii, although Leibniz never used words such as "recursion" or "recursive function," he was well aware of the recursive structure of both the organization of monads and the phenomenal world (p.33). And the function that is iterated in this recursive structure is that which dictates the elastic collision of bodies (pp.43-48).
Now my concern is this: if recursion—the nested hierarchy of programs—is infinite, then how can there be a single dominant program, above which there is no further program controlling it? Just as the microorganisms in the human body may be considered subprograms under the human entelechy, the human entelechy should be a subprogram within the macrocosm of society, which in turn is embraced by the ecosystem, the solar system, and so on ad infinitum. Do each of these comprehensive programs each correspond to an entelechy? If so, then wouldn’t there be an all-embracing entelechy, a kind of world-soul under which all other monads in the universe are subprograms? This seems to be the logical consequence of the view articulated by Dr. Uchii, but is this the view of Leibniz?
On the Fruitfulness of Reading Contemporary Concepts Into the Thought of Past Thinkers
Reading Dr. Uchi's paper, one may be compelled to ask: what is the point of reading contemporary concepts into the thought of a past thinker? Of course, it helps us to gain a multi-faceted understanding of the thinker in question, but should this be considered an end in itself, or are there further reasons why we should interpret past thinkers in light of new ideas? While Dr. Uchii focuses on understanding Leibniz's system as an end in itself, I can think of one reason why contemporary readers should be interested, apart from a sort of antiquarianism: we can gain insights relevant to today's science. It is simply amazing how far geniuses like Leibniz are able to probe into the depths of reality, and there is no reason to think that we have fully plundered the repertory of fruitful ideas that these giants have spun out of their immeasurable minds. Relationist and information-based interpretations of quantum theory, relationist dynamics, digital physics, background-independent approaches to quantum gravity: these are all areas where the pioneering work of Leibniz will serve as a guide light. Seeing how his system can be translated into the language of today's science should aid us in reconsidering our deep-seated intuitions of fundamental concepts, such as space and time.
Perhaps I am getting ahead of myself, as this is only Part 1 of Dr. Uchii's paper. His follow-up is eagerly awaited.
P.S. [04/14] My first concern was found to be based on a misreading on my part. Dr. Uchii's claim is not that energy=distance (of course), but that kinetic energy is to be derived by integrating force by path length (which, in the case of a falling body, depends on the square of time). Also, contrary to what I wrote, for Leibniz solicitatio actually is a kind of force.
Deriving Vis Viva from Solicitatio
My first concern deals with a technicality I was unable to understand. In Section 5, where Dr. Uchii discusses Leibniz's distinction between vis viva (living force) and vis mortua (dead force), he takes up the concept of solicitatio, or "infinitely small urge (to motion)." Apparently, solicitatio is an infinitesimal increment of velocity, the accruement of which gives rise to macroscopic acceleration. Now, Dr. Uchii expresses the solicitatio of a falling body by dx, speed by x, and from these, attempts to derive the vis viva (macroscopic acceleration) of the body. For the sake of brevity I shall quote the entire paragraph in question, replacing x and dx with v and dv respectively (pp.16-17):
Accumulation of solicitatio increases the amount of speed, as we have already seen in Figure 2. And the body continues to fall with increasing speed. Thus, the solicitatio needs time to increase the speed, and the body needs time also, for falling with the increased speed (thus, square of time!). So let solicitatio be expressed by infinitesimal dv, speed by v (which increases with time); then, in order to obtain the living force of the body, we have to consider some quantity that depends on the square of time, and that quantity is nothing but the distance the body has fallen; in short, the square of speed, the crucial quantity, is obtained, technically by an integration of product of solicitatio and (infinitesimal) distance. Since Leibniz often ignores constant factor, he uses "v2" for expressing living force, in the letter to de Volder. Of course this corresponds to the kinetic energy of classical mechanics (in the standard notation, mv2/2).In classical mechanics, kinetic energy is derived by integrating the product of applied force F and infinitesimal distance dx (or dot product in the case of two or more dimensions), i.e. by the operation ∫ F • dx. Using p to denote momentum, this can be rewritten thus: ∫ dp/dt • vdt = ∫ v • dp = m ∫ v • dv. We can therefore see that vis viva is none other than the accruement of the product of velocity v and solicitatio dv (though Leibniz writes v2 instead of v2/2). Multiply this by mass m (derivative passive force) and we get kinetic energy mv2/2. Now what I don't understand is why Dr. Uchii writes that "the square of speed, the crucial quantity, is obtained, technically by an integration of product of solicitatio and (infinitesimal) distance." This sounds as though solicitatio were force F rather than infinitesimal increment of velocity dv. And why does he say that the quantity to be derived is "the distance the body has fallen?" Clearly, distance is not energy. What is going on here?
Does Infinite Recursion Give Rise to a Universal Monad?
An important concept in Dr. Uchii's informational interpretation of Leibniz's system is recursion, by which is understood the iteration of a certain program. Of particular significance is the notion of nested recursion, i.e. the application of a program to itself, in such a way as to give rise to a nested hierarchy of programs, "going down from the single dominant program (corresponding to entelechy) to subprograms, which again controls respective subprograms, and ad infinitum" (p.1). According to Dr. Uchii, although Leibniz never used words such as "recursion" or "recursive function," he was well aware of the recursive structure of both the organization of monads and the phenomenal world (p.33). And the function that is iterated in this recursive structure is that which dictates the elastic collision of bodies (pp.43-48).
Now my concern is this: if recursion—the nested hierarchy of programs—is infinite, then how can there be a single dominant program, above which there is no further program controlling it? Just as the microorganisms in the human body may be considered subprograms under the human entelechy, the human entelechy should be a subprogram within the macrocosm of society, which in turn is embraced by the ecosystem, the solar system, and so on ad infinitum. Do each of these comprehensive programs each correspond to an entelechy? If so, then wouldn’t there be an all-embracing entelechy, a kind of world-soul under which all other monads in the universe are subprograms? This seems to be the logical consequence of the view articulated by Dr. Uchii, but is this the view of Leibniz?
On the Fruitfulness of Reading Contemporary Concepts Into the Thought of Past Thinkers
Reading Dr. Uchi's paper, one may be compelled to ask: what is the point of reading contemporary concepts into the thought of a past thinker? Of course, it helps us to gain a multi-faceted understanding of the thinker in question, but should this be considered an end in itself, or are there further reasons why we should interpret past thinkers in light of new ideas? While Dr. Uchii focuses on understanding Leibniz's system as an end in itself, I can think of one reason why contemporary readers should be interested, apart from a sort of antiquarianism: we can gain insights relevant to today's science. It is simply amazing how far geniuses like Leibniz are able to probe into the depths of reality, and there is no reason to think that we have fully plundered the repertory of fruitful ideas that these giants have spun out of their immeasurable minds. Relationist and information-based interpretations of quantum theory, relationist dynamics, digital physics, background-independent approaches to quantum gravity: these are all areas where the pioneering work of Leibniz will serve as a guide light. Seeing how his system can be translated into the language of today's science should aid us in reconsidering our deep-seated intuitions of fundamental concepts, such as space and time.
Perhaps I am getting ahead of myself, as this is only Part 1 of Dr. Uchii's paper. His follow-up is eagerly awaited.
P.S. [04/14] My first concern was found to be based on a misreading on my part. Dr. Uchii's claim is not that energy=distance (of course), but that kinetic energy is to be derived by integrating force by path length (which, in the case of a falling body, depends on the square of time). Also, contrary to what I wrote, for Leibniz solicitatio actually is a kind of force.
2014年4月6日日曜日
エルンスト・カッシーラー『実体概念と関数概念』第一章
以下の文章は、エルンスト・カッシーラー『実体概念と関数概念』の読書会のために私が用意したレジュメです。範囲は第一章のみ、頁番号は全て山本義隆訳(みすず書房,1979年)のもの。
思想史的背景
本書の内容に入る前に、本書が執筆された思想史的背景を簡単に概観したい。エルンスト・カッシーラーは新カント派のマールブルク学派の伝統で育ったドイツの哲学者である。1870年代から1920年代にかけてドイツで栄えた新カント派には、大きく分けてマールブルク学派とバーデン学派(西南ドイツ学派)があった。この二つの学派は、当時興隆しつつあったリヒャルト・アヴェナリウスやエルンスト・マッハ流の実証主義に対抗するという目的意識において共通していた。しかし、人文諸学と自然科学の認識論・方法論上の違いを強調するバーデン学派に対し、マールブルク学派の論者たちは、あくまで科学的認識の統一的把握を重視した。すなわち、バーデン学派の論者たちが、自然科学の領域においては実証主義的な理解を概ね認めつつ、そうした理解が人文諸学の領域へ侵食するのを防ぐことに関心を持っていたのに対し、マールブルク学派の論者たちは、自然科学の領域における実証主義の誤りを示すことが、とりもなおさず、人文諸学における実証主義の誤りを示すことにもなる、という前提に立っていた。前者が歴史学や心理学に、そして後者が数学や厳密科学の基礎論に力点を置くのはこのためである。
マールブルク学派の創始者で、のちにカッシーラーの先生になるのがヘルマン・コーエンである。コーエンの哲学の特徴は、その独特のカント理解と、その発生論的な認識論にある。1870年代当時、リーマン幾何学の発見や、マックスウェル電磁気学の成立による力学的世界観の崩壊が、ユークリッド幾何学をアプリオリな直観形式として捉え、力学的世界観をその哲学体系の前提としていたカントの哲学に対する根本的な疑念を投げかけていた。コーエンの関心は、カント自身の方法を徹底することによって、カントの枠組みを当時の数学や自然科学の新たな成果と整合する形で刷新することにあった。彼は、人間の知におけるアプリオリな構造を、カントのように固定的なものとしてではなく、歴史的過程を通して発展するものとして捉えることによってこの刷新を行った。また、カントの「物自体」の概念を、現象の背後にあって我々の感覚経験をもたらす不可知の原因として考える代わりに、科学的認識を可能にするアプリオリな構造が、そこへ向かって収束しつつも、決して到達はしない理想的極限として再解釈した。コーエンのこの独自の認識論は、『実体概念と関数概念』におけるカッシーラーの議論に多大な影響を与えたと言える。というのも本書は、コーエンの認識批判のプロジェクトを、実際の科学的思考の発展史をたどることによって遂行するという趣旨の研究だからである。しかし、コーエンの影響を強調するあまり、カッシーラー独自の貢献を過小評価してはなるまい。とりわけ、経験論(したがって実証主義)が依拠する感覚経験からの「抽象」理論を批判するという論点において、カッシーラーの着眼の独創性が際立っていると言えよう。
第一節 アリストテレスの抽象理論
カッシーラーは、抽象理論の起源をアリストテレスの概念論に求めている。アリストテレスの概念論によれば、我々は、感覚に与えられる諸々の事物に共通の特徴を選び出すことによって概念を形成する。これが「抽象」(ἀφαίρεσις)と呼ばれるプロセスである。共通の特徴を持つ事物の集合は「種」(εἶδος)の概念を成し、これらの種もさらに、共通する特徴を持つ種の集合である「類」(γένος)の概念を成す。こうした類もさらに高次の類に対する種となることによって、類と種のヒエラルキー的構造が形成される。
ここで問題となるのは、いかにして意味のある抽象を、恣意的で無意味な抽象から区別するかである。例えば、桜桃と牛肉を「赤く、汁気が多く、食べられる」といった共通の特徴に基づいて概念化したとしても、我々の事物の理解に貢献することは何もないだろう(p.7)。アリストテレスにおいては、論理学を形而上学で補完することによってこの問題が回避されている(あるいはそもそも問題として意識されていないのかもしれない)。すなわち、抽象のプロセスによって我々が形成する概念は、存在論の次元における「実体」ないし「本質」(οὐσία)をそのまま捉えることができる、という想定によってこの問題が回避されているのである。上に挙げた桜桃と牛肉の例に関して言えば、事物の本質を捉え損なっているというわけである。このことから、実体概念がアリストテレスの論理学において中心的な役割を担っていることが見て取れる。そして注目すべきは、「AはBより大きい」や「AはBに後続する」といったような関係概念が、実体概念に対して従属的な地位しか与えられていないという事実である。すなわち、まず初めに実体が与えられていて、関係概念は後から、偶然的な限定として付加されるに過ぎない。カッシーラーの指摘するところによれば、アリストテレスに由来するこうした思考様式は、後世の論理学の発展において、一つの基層として伏在し続けている(pp.9-10)。(ところで初読の際、私が気になったのは、カッシーラーが性質概念と関係概念を区別していない点である。「量」や「質」といった性質概念は、二つ以上の項に関わる関係概念とは本来区別されるべきであるが、彼は前者をも関係概念として一括的に扱っている。しかしこの疑問は、後述するように、カッシーラーによる「関数概念」の導入によって氷解する)。
第二節 抽象理論の問題点
かくして、中世の普遍論争では、普遍者の実在性の如何が取り沙汰されるわけであるが、唯名論の陣営も実在論の陣営も、ともに次の暗黙的前提を共有し、疑うことはなかった。すなわち、普遍者とは、類似した諸事物から成る系列において、それらの事物が持つ共通の要素に他ならない、という前提である(p.10)。近世に入るとジョージ・バークリらの心理主義的批判が登場するが、事情はやはり同じである。彼らは抽象の理論を外的な事物の次元から、人間心理の次元に移し替えただけで、理論自体はそのまま保持されているからである(p.10)。 さて、カッシーラーは抽象理論に対して次の疑念を投げかける:「ここで展開された概念の理論は、具体的な〈科学〉において行われている手続きを充分かつ忠実に描き出しているであろうか?」(p.13)。彼の答えは「否」であり、その根拠はアリストテレスの抽象理論についても心理主義的な抽象理論についても本質的には同じである。アリストテレスの概念論に関して言えば、彼の理論が有効なのは精々、生物の分類などの分類学までであって、その領域を超えて数学的な概念を扱おうとすると、たちまち困難に直面する。というのも、単に事物のいくつかの特徴の模写を目指す経験的概念とは異なって、数学的概念は、諸事物の結合の原理を、思考によって構成することを通してしか生まれないからである。この論点は重要と思われるので、少々長いが引用しよう(pp.13-14):
ここに、カッシーラーがとりわけ抽象理論を取り上げ、それに依拠する実証主義を批判する理由を見て取ることができる。すなわち、実証主義的科学は思考の他律を招くからである。人間精神はただ機械的にデータを集め、その規則性を「思惟経済」の原則に従って記述するのではなく、概念を経験に適用することによって元々そこになかった新しいものを生み出していく、というわけである。こうしたモチーフにおいて、カッシーラーが紛れもなくカント主義の伝統の後継者であることが伺える。
カッシーラーは、数学的概念に関するJ・S・ミルの経験主義的な理論を検討することによってこの論点を敷衍する。曰く、一方でミルは、数学的概念の経験的起源を主張するために、概念と感覚的印象との類縁性を強調するが、他方で、こうした類縁性は数学的命題の必然的性格と両立しえない(p.15)。数学的命題が必然的であるのは、それが具体的な事実ではなく、仮言的形式間の関係に関わるからに他ならない(p.15)。勿論、ここで「仮言的形式」と言われているのが概念に相当する。
続いてカッシーラーは抽象の心理主義的理論を検討するが、論旨は本質的に同じである。この理論によれば、類似した知覚を同一視することによって概念が形成されるが、そもそも類似した知覚の系列を構成するためには、一つの知覚から次の知覚へと移行するための何らかの原理が必要である(p.17)。つまり、我々は予め「類似性」の原理を把握していなければ、類似した知覚の系列を構成できないはずであるから、概念の形成を説明するために知覚間の類似に訴える抽象理論は循環論に陥っている、というわけである。系列の整序原理(概念はその表現に過ぎない)は系列の要素とは論理的な階層性が異なるため、後者だけから前者は出て来ない。
第三節 関数概念
第三節でカッシーラーは「関数」の概念を導入する。抽象理論で特徴的なのは、具体的なものから抽象概念を得るとき、具体的なものにおける非本来的な要素を捨てていく、というプロセスである(pp.20-21)。個々の事物間の差異を考慮の埒外に置くという否定的な作用を通してこそ、我々は一般的概念に到達できるというわけである。しかし、こうした描像は数学的概念の場合には当て嵌まらない、とカッシーラーは指摘する(p.21)。なぜなら、抽象理論の描像に従えば、一般的概念から個々のケースを再現することは不可能なはずであるが、数学的概念の場合、普遍的な式から個々のケースを演繹できるからである。カッシーラーの挙げる例で言えば、二次曲線の一般形に具体的な定数を代入することによって、円の方程式や楕円の方程式が得られる(p.22)。また、こうした一般化を行うことによって、個々のケースに対する我々の理解も豊かになる。リーマン幾何学などのより高次の幾何学を通してこそ、我々は、通常のユークリッド空間の公理的構造をより明晰に把握することができる(p.23)。
かくして我々は、実体概念の思考様式に依拠する抽象理論とは異なる観点から、一般的概念を捉えることができる。カッシーラーはこの観点を、「数学的な関数概念の論理学」と呼んでいる(p.24)。この観点では、例えばaα1β1, aα2β2, aα3β3, … という系列が与えられたとき、我々は一足飛びにその共通の成分であるaに到達するのではなく、まずそれぞれのα, βをx, yといった変数で置き換える。かくして、系列全体が、f(x,y)=axyという一般形によって統一的に表現される(p.26)。これが、この論理によって得られた概念が「関数概念」と呼ばれる所以である。そして、関数概念は近代的な自然理解において枢要な役割を果たすことから、この論理の適用範囲は数学の分野に限定されず、自然科学全体に及ぶ(p.24)。
なお、さきほど私は、カッシーラーは性質概念と関係概念を区別していないのではないかと述べたが、関数概念の導入によってこの区別にこだわる必要性がなくなることが分かるだろう。なぜなら、「Aは赤い」や「Aは2個ある」といった性質概念は1変数の関数概念であり、「AはBより大きい」や「AはBに後続する」、あるいは「AはBをCに渡す」といった関係概念は2変数以上の関数概念だからである。性質概念と関係概念はそれぞれ、関数概念のもとに統一されるということで、後者の方が上位概念であることが分かる。
思想史的背景
本書の内容に入る前に、本書が執筆された思想史的背景を簡単に概観したい。エルンスト・カッシーラーは新カント派のマールブルク学派の伝統で育ったドイツの哲学者である。1870年代から1920年代にかけてドイツで栄えた新カント派には、大きく分けてマールブルク学派とバーデン学派(西南ドイツ学派)があった。この二つの学派は、当時興隆しつつあったリヒャルト・アヴェナリウスやエルンスト・マッハ流の実証主義に対抗するという目的意識において共通していた。しかし、人文諸学と自然科学の認識論・方法論上の違いを強調するバーデン学派に対し、マールブルク学派の論者たちは、あくまで科学的認識の統一的把握を重視した。すなわち、バーデン学派の論者たちが、自然科学の領域においては実証主義的な理解を概ね認めつつ、そうした理解が人文諸学の領域へ侵食するのを防ぐことに関心を持っていたのに対し、マールブルク学派の論者たちは、自然科学の領域における実証主義の誤りを示すことが、とりもなおさず、人文諸学における実証主義の誤りを示すことにもなる、という前提に立っていた。前者が歴史学や心理学に、そして後者が数学や厳密科学の基礎論に力点を置くのはこのためである。
マールブルク学派の創始者で、のちにカッシーラーの先生になるのがヘルマン・コーエンである。コーエンの哲学の特徴は、その独特のカント理解と、その発生論的な認識論にある。1870年代当時、リーマン幾何学の発見や、マックスウェル電磁気学の成立による力学的世界観の崩壊が、ユークリッド幾何学をアプリオリな直観形式として捉え、力学的世界観をその哲学体系の前提としていたカントの哲学に対する根本的な疑念を投げかけていた。コーエンの関心は、カント自身の方法を徹底することによって、カントの枠組みを当時の数学や自然科学の新たな成果と整合する形で刷新することにあった。彼は、人間の知におけるアプリオリな構造を、カントのように固定的なものとしてではなく、歴史的過程を通して発展するものとして捉えることによってこの刷新を行った。また、カントの「物自体」の概念を、現象の背後にあって我々の感覚経験をもたらす不可知の原因として考える代わりに、科学的認識を可能にするアプリオリな構造が、そこへ向かって収束しつつも、決して到達はしない理想的極限として再解釈した。コーエンのこの独自の認識論は、『実体概念と関数概念』におけるカッシーラーの議論に多大な影響を与えたと言える。というのも本書は、コーエンの認識批判のプロジェクトを、実際の科学的思考の発展史をたどることによって遂行するという趣旨の研究だからである。しかし、コーエンの影響を強調するあまり、カッシーラー独自の貢献を過小評価してはなるまい。とりわけ、経験論(したがって実証主義)が依拠する感覚経験からの「抽象」理論を批判するという論点において、カッシーラーの着眼の独創性が際立っていると言えよう。
第一節 アリストテレスの抽象理論
カッシーラーは、抽象理論の起源をアリストテレスの概念論に求めている。アリストテレスの概念論によれば、我々は、感覚に与えられる諸々の事物に共通の特徴を選び出すことによって概念を形成する。これが「抽象」(ἀφαίρεσις)と呼ばれるプロセスである。共通の特徴を持つ事物の集合は「種」(εἶδος)の概念を成し、これらの種もさらに、共通する特徴を持つ種の集合である「類」(γένος)の概念を成す。こうした類もさらに高次の類に対する種となることによって、類と種のヒエラルキー的構造が形成される。
ここで問題となるのは、いかにして意味のある抽象を、恣意的で無意味な抽象から区別するかである。例えば、桜桃と牛肉を「赤く、汁気が多く、食べられる」といった共通の特徴に基づいて概念化したとしても、我々の事物の理解に貢献することは何もないだろう(p.7)。アリストテレスにおいては、論理学を形而上学で補完することによってこの問題が回避されている(あるいはそもそも問題として意識されていないのかもしれない)。すなわち、抽象のプロセスによって我々が形成する概念は、存在論の次元における「実体」ないし「本質」(οὐσία)をそのまま捉えることができる、という想定によってこの問題が回避されているのである。上に挙げた桜桃と牛肉の例に関して言えば、事物の本質を捉え損なっているというわけである。このことから、実体概念がアリストテレスの論理学において中心的な役割を担っていることが見て取れる。そして注目すべきは、「AはBより大きい」や「AはBに後続する」といったような関係概念が、実体概念に対して従属的な地位しか与えられていないという事実である。すなわち、まず初めに実体が与えられていて、関係概念は後から、偶然的な限定として付加されるに過ぎない。カッシーラーの指摘するところによれば、アリストテレスに由来するこうした思考様式は、後世の論理学の発展において、一つの基層として伏在し続けている(pp.9-10)。(ところで初読の際、私が気になったのは、カッシーラーが性質概念と関係概念を区別していない点である。「量」や「質」といった性質概念は、二つ以上の項に関わる関係概念とは本来区別されるべきであるが、彼は前者をも関係概念として一括的に扱っている。しかしこの疑問は、後述するように、カッシーラーによる「関数概念」の導入によって氷解する)。
第二節 抽象理論の問題点
かくして、中世の普遍論争では、普遍者の実在性の如何が取り沙汰されるわけであるが、唯名論の陣営も実在論の陣営も、ともに次の暗黙的前提を共有し、疑うことはなかった。すなわち、普遍者とは、類似した諸事物から成る系列において、それらの事物が持つ共通の要素に他ならない、という前提である(p.10)。近世に入るとジョージ・バークリらの心理主義的批判が登場するが、事情はやはり同じである。彼らは抽象の理論を外的な事物の次元から、人間心理の次元に移し替えただけで、理論自体はそのまま保持されているからである(p.10)。 さて、カッシーラーは抽象理論に対して次の疑念を投げかける:「ここで展開された概念の理論は、具体的な〈科学〉において行われている手続きを充分かつ忠実に描き出しているであろうか?」(p.13)。彼の答えは「否」であり、その根拠はアリストテレスの抽象理論についても心理主義的な抽象理論についても本質的には同じである。アリストテレスの概念論に関して言えば、彼の理論が有効なのは精々、生物の分類などの分類学までであって、その領域を超えて数学的な概念を扱おうとすると、たちまち困難に直面する。というのも、単に事物のいくつかの特徴の模写を目指す経験的概念とは異なって、数学的概念は、諸事物の結合の原理を、思考によって構成することを通してしか生まれないからである。この論点は重要と思われるので、少々長いが引用しよう(pp.13-14):
生成的定義を通じて、〈構成的〉連関を頭の中で確立することによって生み出される数学的概念は、事物の所与の現実におけるなんらかの実際的特徴を単に模写すると主張するにすぎない経験的概念とは区別される。後者の場合、事物の多様はそれ自身独立に存在し、ただ簡単な言語上のないし概念的な表現にまとめあげられるとされるのであるが、逆に前者の場合、単純な措定の作用からつぎつぎの綜合を通じて思惟形象(Denkgebilde)の体系的統合が作り上げられることによってはじめて考察の対象をなす多様が生み出されるということが肝要である。したがってそこでは、思惟に固有の作用である一定の関係連関の自由な産出が、単なる「抽象」と対立している。
ここに、カッシーラーがとりわけ抽象理論を取り上げ、それに依拠する実証主義を批判する理由を見て取ることができる。すなわち、実証主義的科学は思考の他律を招くからである。人間精神はただ機械的にデータを集め、その規則性を「思惟経済」の原則に従って記述するのではなく、概念を経験に適用することによって元々そこになかった新しいものを生み出していく、というわけである。こうしたモチーフにおいて、カッシーラーが紛れもなくカント主義の伝統の後継者であることが伺える。
カッシーラーは、数学的概念に関するJ・S・ミルの経験主義的な理論を検討することによってこの論点を敷衍する。曰く、一方でミルは、数学的概念の経験的起源を主張するために、概念と感覚的印象との類縁性を強調するが、他方で、こうした類縁性は数学的命題の必然的性格と両立しえない(p.15)。数学的命題が必然的であるのは、それが具体的な事実ではなく、仮言的形式間の関係に関わるからに他ならない(p.15)。勿論、ここで「仮言的形式」と言われているのが概念に相当する。
続いてカッシーラーは抽象の心理主義的理論を検討するが、論旨は本質的に同じである。この理論によれば、類似した知覚を同一視することによって概念が形成されるが、そもそも類似した知覚の系列を構成するためには、一つの知覚から次の知覚へと移行するための何らかの原理が必要である(p.17)。つまり、我々は予め「類似性」の原理を把握していなければ、類似した知覚の系列を構成できないはずであるから、概念の形成を説明するために知覚間の類似に訴える抽象理論は循環論に陥っている、というわけである。系列の整序原理(概念はその表現に過ぎない)は系列の要素とは論理的な階層性が異なるため、後者だけから前者は出て来ない。
第三節 関数概念
第三節でカッシーラーは「関数」の概念を導入する。抽象理論で特徴的なのは、具体的なものから抽象概念を得るとき、具体的なものにおける非本来的な要素を捨てていく、というプロセスである(pp.20-21)。個々の事物間の差異を考慮の埒外に置くという否定的な作用を通してこそ、我々は一般的概念に到達できるというわけである。しかし、こうした描像は数学的概念の場合には当て嵌まらない、とカッシーラーは指摘する(p.21)。なぜなら、抽象理論の描像に従えば、一般的概念から個々のケースを再現することは不可能なはずであるが、数学的概念の場合、普遍的な式から個々のケースを演繹できるからである。カッシーラーの挙げる例で言えば、二次曲線の一般形に具体的な定数を代入することによって、円の方程式や楕円の方程式が得られる(p.22)。また、こうした一般化を行うことによって、個々のケースに対する我々の理解も豊かになる。リーマン幾何学などのより高次の幾何学を通してこそ、我々は、通常のユークリッド空間の公理的構造をより明晰に把握することができる(p.23)。
かくして我々は、実体概念の思考様式に依拠する抽象理論とは異なる観点から、一般的概念を捉えることができる。カッシーラーはこの観点を、「数学的な関数概念の論理学」と呼んでいる(p.24)。この観点では、例えばaα1β1, aα2β2, aα3β3, … という系列が与えられたとき、我々は一足飛びにその共通の成分であるaに到達するのではなく、まずそれぞれのα, βをx, yといった変数で置き換える。かくして、系列全体が、f(x,y)=axyという一般形によって統一的に表現される(p.26)。これが、この論理によって得られた概念が「関数概念」と呼ばれる所以である。そして、関数概念は近代的な自然理解において枢要な役割を果たすことから、この論理の適用範囲は数学の分野に限定されず、自然科学全体に及ぶ(p.24)。
なお、さきほど私は、カッシーラーは性質概念と関係概念を区別していないのではないかと述べたが、関数概念の導入によってこの区別にこだわる必要性がなくなることが分かるだろう。なぜなら、「Aは赤い」や「Aは2個ある」といった性質概念は1変数の関数概念であり、「AはBより大きい」や「AはBに後続する」、あるいは「AはBをCに渡す」といった関係概念は2変数以上の関数概念だからである。性質概念と関係概念はそれぞれ、関数概念のもとに統一されるということで、後者の方が上位概念であることが分かる。
参考文献
- Skidelsky, Edward. 2012. Ernst Cassirer: The Last Philosopher of Culture. Princeton: Princeton University Press.
- Friedman, Michael. 2011. "Ernst Cassirer." The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Spring 2011 Edition), ed. Edward N. Zalta. URL = http://plato.stanford.edu/archives/spr2011/entries/cassirer/
2014年2月15日土曜日
確率は客観的か?Peirceの主観確率批判を手掛かりに
確率は客観的に存在するのか、それとも人間の頭の中にだけあるのか。この問題は確率の哲学的解釈における長年の論争のテーマである。ここでは、"The Probability of Induction" (1878)においてなされた、C. S. Peirceによる主観確率の批判を手掛かりにこの問題を考えてみたい。Peirceの批判が成功しているかどうかに関しては、私には判断を下すことはできないが、もし成功しているとしても(つまりもし確率の客観的解釈が正しいとしても)決定論はなお保持できるのか、それとも、Peirceとともに偶然主義tychismを支持するしかないのか、という問題についても併せて考えてみたい。
【Peirceによる主観確率批判】
Peirceの立場は頻度主義frequentismである。頻度主義によれば、ある事象の確率とはその事象の相対度数の極限値である。これは、ある事象の確率とはその事象に対する人間の信念の度合いであるとする主観確率の立場(Peirceの用語ではconceptualist view)と対立する。Peirceによれば、確率の主観的解釈は「全く道理に合わない」。なぜだろうか。
まず、確率は客観的か主観的かという問題を考える前に、確率とは「何の」確率か、という(関連する)問題を取り上げたい。確率が帰せられるのは事象についての信念なのか、事象そのものなのか、それとも命題か。この問題に対するPeirceの答えは明快である。すなわち、彼によれば確率が帰せられるのは「もし~ならば…」という形の推論である。「もし賽子を振るならば、1の目が出る」という推論の確率は6分の1である、というようにである。この見方に従えば、条件節がなければ確率概念はそもそも意味をなさない。我々はしばしば事象そのものの確率について語るが、Peirceによれば、これは条件節が自明であるために省略されているだけである。換言すれば、すべての確率は条件付き確率である。これはAndrei Kolmogorovが『確率論の基礎概念』で行った確率の公理化と一致するものであり、極めて現代的な見方と言える。
さて、Peirceによる主観主義批判はBayesの定理の使い方を巡るものである。Bayesの定理は次のように書かれる:
P(Z | Y∧X) = P(Y | Z∧X) • P(Z | X) / P(Y | X)
あるいは右辺の分母を展開して
P(Z | Y∧X) = P(Y | Z∧X) • P(Z | X) / [P(Y | Z∧X) • P(Z | X) + P(Y | ¬Z∧X) • P(¬Z | X)]
Peirceの批判はBayesの定理そのものに対する批判ではない。この定理は、確率論の公理から演繹的に導かれるものである。Peirceの批判はあくまで、この定理の帰納推論への適用、すなわち確率の逆算法Method of Inverse Probabilitiesと呼ばれる方法に向けられている。彼によれば、確率の逆算法は帰納を演繹に帰着させようとするが、そんなことは不可能である。
まず、確率の逆算法を説明する前に、確率の通常の算法を見てみよう。黒玉50個と、白玉50個の入った壺を考える。この中から10個の玉をランダムに、かつ引いた玉を壺に戻しながら引いていくとする。このとき、例えば黒玉5個と白玉5個を引く確率を、演繹的に求めることができる。Uを壺の構成を与える命題(黒玉50個、白玉50個)、Xを引き方に関する背景情報(ランダムに、かつ戻しながら)、Sを引いたサンプルを与える命題(黒玉5個、白玉5個)とすると、求める確率はP(S | U∧X)と書ける。これはBernoulli試行であるから、
P(S | U∧X) = 10C5 • (1/2)^5 • (1/2)^5 = 63/256
と求めることができる。ここで重要なのは、壺の中身があらかじめ分かっていることである。確率の逆算法は、壺の中身が分からない場合に、壺の中身を推定するための方法である。すなわち、Bayesの定理を適用することによってP(U | S∧X)を求める方法である。これはサンプルから母集団への帰納推論S∧X ⇒ Uの確率であるから、Pierre-Simon Laplace、Augustus De Morgan、Adolphe Queteletらは、この方法によって帰納の問題を解決したと信じていた。実際、Bayesの定理によって、
P(U | S∧X) = P(S | U∧X) • P(U | X) / P(S | X)
と書ける。しかし、左辺を求めるには、右辺のP(U | X)があらかじめ分かっていないといけない。このP(U | X)を「事前確率」prior probabilityと呼ぶ。しかし、事前確率を事前に確定する方法はない——P(U | X)が分かっていればそもそも壺の中身を推定する意味がない——から、確率の逆算法の使用者は「不充足理由律」Principle of Insufficient Reason、あるいは後にJ. M. Keynesによって「無差別の原理」Principle of Indifferenceと呼ばれるようになる原理に訴える。これは、相互に排他的かつすべての可能性を尽くす事象(推論)がn個あり、それぞれの事象(推論)の確率についての情報が全くないとき、それぞれの事象(推論)に1/nの確率を割り振る、という原理である。壺の中身を述べる推論の場合、X ⇒ UとX ⇒ ¬Uの二通りの場合があるから、P(U | X) = P(¬U | X) = 1/2とするわけである。
Peirceが噛み付くのはここである。確率の逆算法の使用者が求めようとしているのは、「事実(この場合は壺の構成)が、帰納推論の結果に適合する確率」である。つまり彼らは、壺の中身についての可能世界を立ち上げ、それぞれの可能世界が我々の帰納推論の結果に適合している確率を求めようとしているのである。Peirceによれば、求めることができるのは——そして帰納推論の場合、求めるべきは——逆に「帰納推論の結果が、事実に適合する確率」である。すなわち、壺の中身を述べる命題Uを事実ないし「仮説」として一旦承認した上での、サンプルがこの仮説に適合する確率P(S | U∧X)である。このP(S | U∧X)が、上で述べた確率の通常の算法におけるP(S | U∧X)と異なるのは、ここではUは既知ではなく仮説として承認されているに過ぎないという点である。この方法が、統計学で「仮説検定」hypothesis testingと呼ばれるようになる方法である。帰納推論に確率を付与することはできないが、その代わりに、ある誤差の範囲内で帰納が成功している確率である「確からしさ」verisimilitudeを付与することができる、とPeirceは言う。他方で、「事実が、帰納推論の結果に適合する確率」を求めることが可能であるのは、我々の世界だけでなくすべての可能世界を見渡し、それぞれに確率を割り振ることができる場合だけである。Peirceは次のように言う:
【批評】
以上、Peirceによる主観確率批判を見てきたが、彼の批判は論点先取りであるように見える。客観的な値の代わりに、「無差別の原理」に基づいて主観的な値を事前確率に割り振ることがいけないのは、Peirceがすでに頻度主義の立場に立っているからであろう。しかし、主観確率がナンセンスであることを示すために彼は次のような例も挙げている。少々長いが全文引用しよう:
【偶然主義】
確率は客観的か主観的か、という問題に関して私は最終的な判断を保留するが、主観確率には収束する傾向が存在するということで、私はPeirceとともに客観的解釈の方にやや傾いている。しかし、確率が客観的に存在するとはどういうことだろうか?決定論が破れるということだろうか?実際、Peirceは「純粋な偶然が存在する」という偶然主義の立場を採っているが、これを避けることはできないのだろうか?
確率の「客観性」は、それが述定する推論が成功する(十分長期的な)相対頻度から来る。すなわち、確率が客観的と言えるのは、推論が実現するかどうかが、我々がコントロールできない事実によって決まるからである。もちろん、どんな確率も収束するというわけではない。先のPeirceの引用における土星人の髪の色の確率は当然収束しないが、賽子の出目の確率は一つの極限値へ収束する。
とはいえ、賽子の出目は、よりミクロのレベルで見れば決定論的な法則に従っていることを我々は知っている(ここでは量子効果は考えない)。ゆえに、賽子の出目の確率が客観的であったとしても、自然の階層性を区別することによって、決定論と両立させることができるように思われる。この見方に従えば、結局、確率は観測者の側における情報不足に帰せられることになり、そういう意味では主観的であるが、一つの極限値へ収束するという意味で、確率はやはり客観的な側面をも持つと言える。では、主観確率と客観確率ではすべての可能性が尽くされていないということだろうか?これを考えるには、「自然の階層性」という概念の中身をもっとはっきりさせる必要がある。
【Peirceによる主観確率批判】
Peirceの立場は頻度主義frequentismである。頻度主義によれば、ある事象の確率とはその事象の相対度数の極限値である。これは、ある事象の確率とはその事象に対する人間の信念の度合いであるとする主観確率の立場(Peirceの用語ではconceptualist view)と対立する。Peirceによれば、確率の主観的解釈は「全く道理に合わない」。なぜだろうか。
まず、確率は客観的か主観的かという問題を考える前に、確率とは「何の」確率か、という(関連する)問題を取り上げたい。確率が帰せられるのは事象についての信念なのか、事象そのものなのか、それとも命題か。この問題に対するPeirceの答えは明快である。すなわち、彼によれば確率が帰せられるのは「もし~ならば…」という形の推論である。「もし賽子を振るならば、1の目が出る」という推論の確率は6分の1である、というようにである。この見方に従えば、条件節がなければ確率概念はそもそも意味をなさない。我々はしばしば事象そのものの確率について語るが、Peirceによれば、これは条件節が自明であるために省略されているだけである。換言すれば、すべての確率は条件付き確率である。これはAndrei Kolmogorovが『確率論の基礎概念』で行った確率の公理化と一致するものであり、極めて現代的な見方と言える。
さて、Peirceによる主観主義批判はBayesの定理の使い方を巡るものである。Bayesの定理は次のように書かれる:
P(Z | Y∧X) = P(Y | Z∧X) • P(Z | X) / P(Y | X)
あるいは右辺の分母を展開して
P(Z | Y∧X) = P(Y | Z∧X) • P(Z | X) / [P(Y | Z∧X) • P(Z | X) + P(Y | ¬Z∧X) • P(¬Z | X)]
Peirceの批判はBayesの定理そのものに対する批判ではない。この定理は、確率論の公理から演繹的に導かれるものである。Peirceの批判はあくまで、この定理の帰納推論への適用、すなわち確率の逆算法Method of Inverse Probabilitiesと呼ばれる方法に向けられている。彼によれば、確率の逆算法は帰納を演繹に帰着させようとするが、そんなことは不可能である。
まず、確率の逆算法を説明する前に、確率の通常の算法を見てみよう。黒玉50個と、白玉50個の入った壺を考える。この中から10個の玉をランダムに、かつ引いた玉を壺に戻しながら引いていくとする。このとき、例えば黒玉5個と白玉5個を引く確率を、演繹的に求めることができる。Uを壺の構成を与える命題(黒玉50個、白玉50個)、Xを引き方に関する背景情報(ランダムに、かつ戻しながら)、Sを引いたサンプルを与える命題(黒玉5個、白玉5個)とすると、求める確率はP(S | U∧X)と書ける。これはBernoulli試行であるから、
P(S | U∧X) = 10C5 • (1/2)^5 • (1/2)^5 = 63/256
と求めることができる。ここで重要なのは、壺の中身があらかじめ分かっていることである。確率の逆算法は、壺の中身が分からない場合に、壺の中身を推定するための方法である。すなわち、Bayesの定理を適用することによってP(U | S∧X)を求める方法である。これはサンプルから母集団への帰納推論S∧X ⇒ Uの確率であるから、Pierre-Simon Laplace、Augustus De Morgan、Adolphe Queteletらは、この方法によって帰納の問題を解決したと信じていた。実際、Bayesの定理によって、
P(U | S∧X) = P(S | U∧X) • P(U | X) / P(S | X)
と書ける。しかし、左辺を求めるには、右辺のP(U | X)があらかじめ分かっていないといけない。このP(U | X)を「事前確率」prior probabilityと呼ぶ。しかし、事前確率を事前に確定する方法はない——P(U | X)が分かっていればそもそも壺の中身を推定する意味がない——から、確率の逆算法の使用者は「不充足理由律」Principle of Insufficient Reason、あるいは後にJ. M. Keynesによって「無差別の原理」Principle of Indifferenceと呼ばれるようになる原理に訴える。これは、相互に排他的かつすべての可能性を尽くす事象(推論)がn個あり、それぞれの事象(推論)の確率についての情報が全くないとき、それぞれの事象(推論)に1/nの確率を割り振る、という原理である。壺の中身を述べる推論の場合、X ⇒ UとX ⇒ ¬Uの二通りの場合があるから、P(U | X) = P(¬U | X) = 1/2とするわけである。
Peirceが噛み付くのはここである。確率の逆算法の使用者が求めようとしているのは、「事実(この場合は壺の構成)が、帰納推論の結果に適合する確率」である。つまり彼らは、壺の中身についての可能世界を立ち上げ、それぞれの可能世界が我々の帰納推論の結果に適合している確率を求めようとしているのである。Peirceによれば、求めることができるのは——そして帰納推論の場合、求めるべきは——逆に「帰納推論の結果が、事実に適合する確率」である。すなわち、壺の中身を述べる命題Uを事実ないし「仮説」として一旦承認した上での、サンプルがこの仮説に適合する確率P(S | U∧X)である。このP(S | U∧X)が、上で述べた確率の通常の算法におけるP(S | U∧X)と異なるのは、ここではUは既知ではなく仮説として承認されているに過ぎないという点である。この方法が、統計学で「仮説検定」hypothesis testingと呼ばれるようになる方法である。帰納推論に確率を付与することはできないが、その代わりに、ある誤差の範囲内で帰納が成功している確率である「確からしさ」verisimilitudeを付与することができる、とPeirceは言う。他方で、「事実が、帰納推論の結果に適合する確率」を求めることが可能であるのは、我々の世界だけでなくすべての可能世界を見渡し、それぞれに確率を割り振ることができる場合だけである。Peirceは次のように言う:
自然のあの配列やこの配列の相対確率について語る権利が我々にあるのは、宇宙が黒苺のように豊富に存在し、それらのある量を袋に入れ、よく混ぜてサンプルを抽出し、ある配列を持つ宇宙と別の配列を持つ宇宙のそれぞれの割合を調べることができる場合[だけ]である。[The relative probability of this or that arrangement of Nature is something which we should have a right to talk about if universes were as plenty as blackberries, if we could put a quantity of them in a bag, shake them well up, draw out a sample, and examine them to see what proportion of them had one arrangement and what proportion another.] (Collected Papers 2.684)しかし、宇宙はもちろん一つだけである。ゆえに「自然のあの配列やこの配列」について語るのはナンセンスである。そして仮に、宇宙が複数あったとしても、それらを含むより大きな宇宙が存在するはずであるから、事情はやはり同じである。要するに、事前確率に正しい値(客観的な値)を割り振るにはすべての可能世界を見渡す必要があるが、そんなことは不可能であるから、確率の逆算法の使用者は正しい値の代わりに主観的な確率を忍び込ませている、というわけである。
【批評】
以上、Peirceによる主観確率批判を見てきたが、彼の批判は論点先取りであるように見える。客観的な値の代わりに、「無差別の原理」に基づいて主観的な値を事前確率に割り振ることがいけないのは、Peirceがすでに頻度主義の立場に立っているからであろう。しかし、主観確率がナンセンスであることを示すために彼は次のような例も挙げている。少々長いが全文引用しよう:
確率の概念的[主観的]見方では、仮説を支持する方向にも反対する方向にも傾くべきではないような完全な無知[の状況]は、1/2という確率によって表される。では、土星人の髪の色について我々が完全に無知であったとしよう。そして、あらゆる可能な色が示されたカラー表があったとしよう。この表では、すべての色が互いに知覚不可能な度合いでグラデーションをなしており、異なる色のクラスによって占められる領域の相対的な面積は全く恣意的である。こうした領域の一つを線で囲い、土星人の髪の色がこの領域内の色である確率を、概念的見方の諸原理に従って考えてみよう。我々は何らかの信念状態にあるはずだから、答えは不定であってはならない。実際、概念主義に立つ論者たちは不定な確率を認めない。確実なことは何も言えないので、答えは0と1の間である。そして、データからいかなる数値も得ることができないので、値はデータの計算ではなく確率の目盛りそのものの性質によって決めるしかない。ゆえに答えは1/2でしかありえない。なぜなら、[我々の]判断は仮説を支持するわけにも反対するわけにもいかないからである。さて、この領域について成り立つことは他のどの領域についても成り立ち、この二つの領域を含む第三の領域についても同様である。そして、二つの小領域の確率はそれぞれ1/2であるから、この第三の領域の確率は少なくても1であるはずである。しかしこれはナンセンスである。[In the conceptualistic view of probability, complete ignorance, where the judgment ought not to swerve either toward or away from the hypothesis, is represented by the probability 1/2. But let us suppose that we are totally ignorant what colored hair the inhabitants of Saturn have. Let us, then, take a color-chart in which all possible colors are shown shading into one another by imperceptible degrees. In such a chart the relative areas occupied by different classes of colors are perfectly arbitrary. Let us inclose such an area with a closed line, and ask what is the chance on conceptualistic principles that the color of the hair of the inhabitants of Saturn falls within that area? The answer cannot be indeterminate because we must be in some state of belief; and, indeed, conceptualistic writers do not admit indeterminate probabilities. As there is no certainty in the matter, the answer lies between zero and unity. As no numerical value is afforded by the data, the number must be determined by the nature of the scale of probability itself, and not by calculation from the data. The answer can, therefore, only be one-half, since the judgment should neither favor nor oppose the hypothesis. What is true of this area is true of any other one; and it will equally be true of a third area which embraces the other two. But the probability for each of the smaller areas being one-half, that for the larger should be at least unity, which is absurd.] (Collected Papers 2.679)確かに、この結論はナンセンスである。このような結論が得られたのは、実際は確率が等しいわけではない(どころか存在すらしていない)事象に、「無差別の原理」によって等しい確率を割り振ってしまったからである。他方で、Bayes推定を繰り返すことによって、誤った確率(主観確率)を正しい確率(客観確率)に近づけることができるのもまた事実である。しかし、これもやはり主観確率が収束するべき客観確率が存在するということだろうか?
【偶然主義】
確率は客観的か主観的か、という問題に関して私は最終的な判断を保留するが、主観確率には収束する傾向が存在するということで、私はPeirceとともに客観的解釈の方にやや傾いている。しかし、確率が客観的に存在するとはどういうことだろうか?決定論が破れるということだろうか?実際、Peirceは「純粋な偶然が存在する」という偶然主義の立場を採っているが、これを避けることはできないのだろうか?
確率の「客観性」は、それが述定する推論が成功する(十分長期的な)相対頻度から来る。すなわち、確率が客観的と言えるのは、推論が実現するかどうかが、我々がコントロールできない事実によって決まるからである。もちろん、どんな確率も収束するというわけではない。先のPeirceの引用における土星人の髪の色の確率は当然収束しないが、賽子の出目の確率は一つの極限値へ収束する。
とはいえ、賽子の出目は、よりミクロのレベルで見れば決定論的な法則に従っていることを我々は知っている(ここでは量子効果は考えない)。ゆえに、賽子の出目の確率が客観的であったとしても、自然の階層性を区別することによって、決定論と両立させることができるように思われる。この見方に従えば、結局、確率は観測者の側における情報不足に帰せられることになり、そういう意味では主観的であるが、一つの極限値へ収束するという意味で、確率はやはり客観的な側面をも持つと言える。では、主観確率と客観確率ではすべての可能性が尽くされていないということだろうか?これを考えるには、「自然の階層性」という概念の中身をもっとはっきりさせる必要がある。
参考文献
- Burch, Robert. 2010. "If Universes Were as Plenty as Blackberries: Peirce on Induction and Verisimilitude." Transactions of the Charles S. Peirce Society 46 (3): pp.423-452.
- Peirce, Charles Sanders. 1878. "The Probability of Induction." in Collected Papers of Charles Sanders Peirce vol. 2, ed. Charles Hartshorne and Paul Weiss. Cambridge, Mass: Harvard University Press.
2014年2月6日木曜日
近藤和敬「問題-認識論と問い-存在論」について
『現代思想』2014年01月号掲載の、近藤さんの「問題-認識論と問い-存在論」について、雑感をまとめてみました。
私の理解では、近藤さんの言う「問題」とは、Peirceの言う「指をさす」に相当する。例として、Kuhnのパラダイム論で考えてみたい。Kuhnによれば、科学革命前後の概念は通約不可能である。つまり、ニュートンにとっての質量概念とアインシュタインにとっての質量概念は全く別物である。しかし、本当の意味でこれらの概念が通約不可能なら、「通約不可能である」と言うこと自体、不可能であるはず。なぜなら、両者を比較するための共通の土俵が必要だから。同じsubject matterに関心を払っているからこそ、理論の側に断絶があっても、対象の側は断絶の前後を通して保存される(Bhaskarはこれを、科学の「他動詞」的次元と呼んでいる)。
しかし、Peirceにとっては、我々が直接触れることができるのは第三性、つまり媒介的な記号だけである。したがって保存されるものに対しては、「指をさす」ことしかできない、と彼は言う(これがindexicalの働き)。Peirceは紛れもなく観念論者だが、indexicalを導入することによって観念の網目を外部に向けて開く、「客観的」観念論者なわけだ。
さて、近藤さんは「問題」の潜勢力が「消尽」されると別の問題に移行する、と述べている(ちなみに、これをPeirceの「疑念」と「信念」の文脈で考えてみるのは面白そう)。しかし、問題が変わってしまったら、同じsubject matterであるための足場がなくなってしまうように思われる。それでは、断絶の前後を通して、もはや同じ事柄について語っているとは言えないのではないか。多分、近藤さんもこれを分かっていて承認しているし、郡司さんがKripkeを引いて「暗闇の中の跳躍」と言ってるのもこういうことだろう。これがDeleuze的な発想なのかもしれない。しかし、自分には、これは現実の科学活動に即していないように思える。現実には、理論間に断絶があっても、「問題」自体は保存されているように見える。あるいは、仮に問題設定の移行があったとしても、移行前の問題を極限事例として導出可能にするような、より包括的な問題が設定されるはずである。言い換えれば、問題の移行は、次の格率に従ってなされているように思われる:移行後の問題に対する解は、移行前の問題に対する解でもなければならない。近藤さんが目指しているのは「内在性」の合理主義のようだが、私は「俯瞰」のモメントをもっと強調したい。
Meillassouxに対する近藤さんの批判には、同意する。すなわちMeillassouxは認識論と存在論の区別に無頓着であるという批判である(ただし、これはMeillassouxの立場が内的整合性を欠くという意味ではない。むしろ、Meillassouxの立場は最も強力な意味で論駁不可能であるように思われる。しかし、不自然ではあると思う。そして、私はMeillassouxほど合理主義者ではないので、論駁不可能性よりは自然さを重視する)。しかし、近藤さんの言う「問題-認識論」と「問い-存在論」の関係は、正直よく理解できなかった。この区別は、視点による区別なのだろうか。
私の理解では、Meillassouxの議論に認識論と存在論の区別を持ち込むならば、偶然性は認識論の側に回収される。近藤さんの記述にも、これと符合しそうな箇所がある:
「一挙に展開し、見渡すことができない」のはあくまで認識者であるから、これは認識論の側の話である。ならば、存在論の側では、必然性が成り立っていてもいいはず。しかし、近藤さんは「問題」を存在論の次元でも考えているようである(彼がDe Landaを評価するのはその点である。p.63参照)。また、「問い-存在論」には「非対称性」が存続し続ける、と彼は言う(p.71)。しかし、私にはこれは認識論の話にしか聞えない。もともと、歴史的にも発生論的にも、認識論と存在論の区別が導入されたのは、偶然性や認知の誤謬を前者の側に回収するためであろう。しかし、どうせ回収するなら、最後まで回収してしまうのが自然ではなかろうか。どうして途中でやめてしまうのだろう。あるいは、私が近藤さんの「問題-認識論」と「問い-存在論」の区別をやはり理解できていないだけかもしれないが。
私の理解では、近藤さんの言う「問題」とは、Peirceの言う「指をさす」に相当する。例として、Kuhnのパラダイム論で考えてみたい。Kuhnによれば、科学革命前後の概念は通約不可能である。つまり、ニュートンにとっての質量概念とアインシュタインにとっての質量概念は全く別物である。しかし、本当の意味でこれらの概念が通約不可能なら、「通約不可能である」と言うこと自体、不可能であるはず。なぜなら、両者を比較するための共通の土俵が必要だから。同じsubject matterに関心を払っているからこそ、理論の側に断絶があっても、対象の側は断絶の前後を通して保存される(Bhaskarはこれを、科学の「他動詞」的次元と呼んでいる)。
しかし、Peirceにとっては、我々が直接触れることができるのは第三性、つまり媒介的な記号だけである。したがって保存されるものに対しては、「指をさす」ことしかできない、と彼は言う(これがindexicalの働き)。Peirceは紛れもなく観念論者だが、indexicalを導入することによって観念の網目を外部に向けて開く、「客観的」観念論者なわけだ。
さて、近藤さんは「問題」の潜勢力が「消尽」されると別の問題に移行する、と述べている(ちなみに、これをPeirceの「疑念」と「信念」の文脈で考えてみるのは面白そう)。しかし、問題が変わってしまったら、同じsubject matterであるための足場がなくなってしまうように思われる。それでは、断絶の前後を通して、もはや同じ事柄について語っているとは言えないのではないか。多分、近藤さんもこれを分かっていて承認しているし、郡司さんがKripkeを引いて「暗闇の中の跳躍」と言ってるのもこういうことだろう。これがDeleuze的な発想なのかもしれない。しかし、自分には、これは現実の科学活動に即していないように思える。現実には、理論間に断絶があっても、「問題」自体は保存されているように見える。あるいは、仮に問題設定の移行があったとしても、移行前の問題を極限事例として導出可能にするような、より包括的な問題が設定されるはずである。言い換えれば、問題の移行は、次の格率に従ってなされているように思われる:移行後の問題に対する解は、移行前の問題に対する解でもなければならない。近藤さんが目指しているのは「内在性」の合理主義のようだが、私は「俯瞰」のモメントをもっと強調したい。
Meillassouxに対する近藤さんの批判には、同意する。すなわちMeillassouxは認識論と存在論の区別に無頓着であるという批判である(ただし、これはMeillassouxの立場が内的整合性を欠くという意味ではない。むしろ、Meillassouxの立場は最も強力な意味で論駁不可能であるように思われる。しかし、不自然ではあると思う。そして、私はMeillassouxほど合理主義者ではないので、論駁不可能性よりは自然さを重視する)。しかし、近藤さんの言う「問題-認識論」と「問い-存在論」の関係は、正直よく理解できなかった。この区別は、視点による区別なのだろうか。
私の理解では、Meillassouxの議論に認識論と存在論の区別を持ち込むならば、偶然性は認識論の側に回収される。近藤さんの記述にも、これと符合しそうな箇所がある:
科学的認識においてこのような「問題」の次元こそが先行するものであるとすれば、そしてメイヤスーが言及するような「定数」や「定性」や「法則」が、結局のところすべて「解」の次元でしかないと認めるとすれば、科学的認識によって措定される「法則」が、メタ水準で必然的ではなく、「偶然的」であるとしても(もちろん、その「法則」の枠内では、「法則」それ自体は必然的である)、何のパラドックスもない。いかなる存在者も、「問題」から「問題」への移行を一挙に展開し、見渡すことができないのだから(もしできるものがいると考えるなら、それは「問題」の固有性を認めないということに等しい)、「問題」の展開は、常に「潜在的」であり、その「潜在性」は歴史による現実的な展開を、ただひたすら待つことによってのみ、したがってメイヤスーとデランダがともに指摘するように「偶然」によってのみ実現される。(p.69)
「一挙に展開し、見渡すことができない」のはあくまで認識者であるから、これは認識論の側の話である。ならば、存在論の側では、必然性が成り立っていてもいいはず。しかし、近藤さんは「問題」を存在論の次元でも考えているようである(彼がDe Landaを評価するのはその点である。p.63参照)。また、「問い-存在論」には「非対称性」が存続し続ける、と彼は言う(p.71)。しかし、私にはこれは認識論の話にしか聞えない。もともと、歴史的にも発生論的にも、認識論と存在論の区別が導入されたのは、偶然性や認知の誤謬を前者の側に回収するためであろう。しかし、どうせ回収するなら、最後まで回収してしまうのが自然ではなかろうか。どうして途中でやめてしまうのだろう。あるいは、私が近藤さんの「問題-認識論」と「問い-存在論」の区別をやはり理解できていないだけかもしれないが。
2014年1月10日金曜日
【書評】 James Ladyman & Don Ross / Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized
Ladyman, James, Don Ross, et al. 2007. Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized. Oxford: Oxford University Press.
科学哲学者James Ladymanと、経済学や脳科学周辺で学際的な研究を行っているDon Rossらによる、Ontic Structural Realism (OSR)のマニフェスト的著書。第1、5章にはDavid Spurett、第4章にはJohn Collierがそれぞれ執筆に加わっている。
OSRとは、平たく言えば、「個物は存在せず、存在するのは関係(構造)だけである」という考え方である。これは一見突飛に聞こえるかもしれないが、OSRを支持するのには穏当な動機がある。それは、自然科学の成果を真摯に受け止め、形而上学の議論に取り入れなければならない、というものである。Ladymanらによれば、現代物理学が明らかにする世界像を真摯に受け止めるならば、従来の、自己同一的な個物の存在を議論の前提とする形而上学は保持できない。実際、哲学者の多くが、細かい粒子同士が衝突したり、相互作用したりすることによってマクロな物体が構成されていると信じているが、Ladymanらはそうした世界観を"microbangings"の世界観、そしてそれに基づく哲学を"philosophy of A-level chemistry"と呼んで揶揄している。
本書の第1章は、英米で現在主流の分析形而上学に対する痛烈な批判から始まっている。曰く、分析形而上学は「人類の知へ貢献することは何もなく」、その実践者は「才能を浪費している」(p.vii)。というのも、分析形而上学の論者たちは、表向きは「自然主義」を標榜していようと、専ら科学的にはありえない前提の中で議論を進めており、その成否如何を経験ではなく直観に頼っているからである。そんな営みはもはや「客観的真理の虚心な追求と見なすことはできず、廃止するべきである」(p.vii)。以前から分析形而上学に対して不信の念を抱いていた私にとって、Ladymanらの批判は実に的確に思われ、痛快だった。
第1章で破壊的な作業が終わった後、第2章以降で建設の作業が始まる。第2章は実在論論争を主軸にしたスタンダードな科学哲学的議論。Bas van Fraassenの構成的経験論を取り上げる辺りは正直ちょっとダルいが、全体の論旨は中々面白い。第3章以降は、形而上学というよりはもはや物理学の哲学といった様相を呈している。個々の論点をすべて追うのは大変だが、議論の大筋は非常に明快である(ただし、執筆陣が異なるためか、第4章を除く)。また、関連文献が豊富なのも嬉しい。
以下、本書を読んだ上での気になった点をいくつかまとめておきたい。
【形而上学の位置付け】
本書は、形而上学を自然化する試みであるから、形而上学をどういう風に捉えるかが議論の前提として重要である。Ladymanらは、形而上学を既成の各科学の成果を綜合する営み、つまりそれぞれの科学からは区別された自律的な活動と見なしている。しかし、自然主義の精神に照らせば、むしろW. V. O. Quineのように哲学と科学を識別不可能なものと捉えた方がいいのではないか、と私には思われる。またLadymanらは、科学と非科学、および各科学分野の境界を画定するための基準として、研究費が下りそうか否か、というのを採用している(p.33)が、これはかなり説得力を欠く。この二点は次のように関連している。すなわち、Ladymanらは形而上学を、各科学が一旦成立してから遅れてやってくる世話役のように捉えている。しかし科学史を振り返ってみれば、fruitfulな科学はむしろ形而上学的思弁と協働しているのが分かる(この歴史解釈には異論があるかもしれないが、私の読みはそうである)。そして各科学の境界も、こうした思弁の中で徐々に出来上がっていく。
一旦科学の成果が出揃うまで待てという制約は窮屈過ぎるように思われるし、哲学と科学との間に余計な弁別を導入している。これは、自然主義の精神に適っているとは言い難いのではないか。これがLadyman & Rossに対する私の最も大きな不満点である。すなわち、既存の科学を固定化しようとするモメントが強すぎるのである。
【Real Patternsについて】
Ladyman & RossのOSRにおいて不可欠な役割を担うのが、Real Patterns (RP)の理論である。RPと言えばもともと、哲学者Daniel Dennettが同名の論文の中で、人間の志向状態——「信じる」や「欲する」といった——の存在論的身分を明らかにするために粗描した理論である。[1] ただし、Dennettの理論は人間の志向状態に留まらず、存在者一般に関する理論であって、志向状態はその一例に過ぎない。そういう意味で、RPは一つの存在論である。Dennettの論文では必ずしも明確ではないものの、RPによれば、存在する一切のものは「パターン」である。[2] パターンとはデータの規則性である。あるデータにパターンが存在するためには、そのデータが圧縮可能でなければならない。例えば、0と1が交互に32回繰り返すデータは、「0と1を32回交互に繰り返せ」と命じるプログラムに圧縮可能である。他方で、0と1の全くランダムな羅列は、圧縮不可能である。つまり、前者にはパターンがあるが後者にはパターンがないのである。さて、パターンには、実在するパターンと単なるパターンとがある、というのがDennettやLadyman & Rossの共通の主張である。しかし、DennettとLadyman & Rossとでは、あるパターンが実在するパターン、つまりRPであるための必要十分条件が異なる。以下、この点を敷衍してみたい。
まずDennettの定式化を見てみよう。
なお、ここで言われている「ビットマップ」とは、圧縮率0のデータ記述である。さて、ここで重要なのは、何を以てあるデータの記述を「効率的」(efficient)と見なすか、である。パターンの実在性の要件が問題になっているのであるから、効率性をデータの「圧縮率」と解すことはできない。というのも、効率性が単に圧縮率の問題であるなら、ノイズの混入を犠牲にいくらでも圧縮率を上げることができ、パターンが存在するか否かが客観的な事実ではなく記述者の都合のみによって決まることになってしまうからである。それではRPの要件として不適格である。ではDennettの考えはどうであろうか。彼はパターンがリアルであるための必要条件として、「成功する予測をもたらす」ことを考えているようである。RP論文の中で彼は、もしあるパターンに賭けることによって儲けることができるならば、そのパターンはリアルである、と述べている。したがって、先の定式化におけるデータ記述の「効率性」を、「予測が上手くいくこと」と解釈することによって、彼のRPの二つの(一見異なるように見える)特徴付けを同一視することができる。
しかし、単に予測を促進するというだけではまだRPの条件として弱い。つまりこれではまだ十分条件とは言えない。というのも、Dennettは別の論文の中で次のような議論を展開しているからである。[4] すなわち、我々は温度計に対して志向姿勢(ある対象を、志向的な主体と見なすデータ記述の様式)を採ることが可能である(例えば「温度計は部屋が25度であることを望んでいる」、「温度計は今部屋が20度であると思っている」、などと解釈することによって)が、チェスを指す高性能コンピュータに対しては、我々は、予測力を削ぎ落とさないためには志向姿勢を採らざるを得ない。言い換えれば、我々はチェスの試合においては「志向姿勢」というデータ圧縮の様式を放棄することができないのである(さもないと相手の次の一手を読む能力を大幅に失ってしまう)。ここで言われている「圧縮の放棄不可能性」——あるいは「さらなる圧縮の不可能性」と読み換えても良い。もし予測力を削ぎ落とすことなくさらなる圧縮が可能であるならば、当該圧縮は放棄可能であるから、対偶を取って「圧縮が放棄不可能」⇒「さらなる圧縮が不可能」。逆に「さらなる圧縮が不可能」⇒「圧縮が放棄不可能」も明らかに成立する——は、単に「成功する予測をもたらす」よりも強い条件である。
問題は、「誰にとって放棄不可能」であるか、である。これはあるパターンがリアルであるための十分条件は何か、という問題である。この点についてDennettの記述は一貫していない、というのがLadyman & Rossの本書における指摘である(p.206)。というのも、DennettはRP論文の前半では「物理的に可能などんな計算機によっても放棄不可能」という条件を想定しておきながら、同じ論文の後半では「我々人間によって放棄不可能」であることを想定しているようだからである。ある箇所では、放棄不可能性を記述者のノイズ許容度にさえ相対化させてしまっている、とLadyman & Rossは指摘する(p.206)。これでは放棄不可能性の条件がないのと実質的に等しい。Ladyman & Rossに言わせれば、圧縮の放棄不可能性を、恣意的に制限された状況における、恣意的に選ばれた計算機(特定の人間集団のような)の推論力に相対化させてはならない(p.208)。彼らによれば、このような解釈は道具主義を招く。パターンがリアルであるための十分条件としてはむしろ、「物理的に可能などんな計算機によっても放棄不可能」とするべきである、と彼らは言う。Dennett自身の最初のRPの定式化における、"whether or not anyone can concoct it"というフレーズも、このように解釈しない限り首尾一貫しないだろう。というのも、この一節は「どんな人間や計算機も未だ発見していないRPが存在し得る」ということを含意しているからである。
以上の考察を踏まえて、Ladyman & Rossは独自の用語法に基づいた新たなRPの必要十分条件を次のように与えている(p.233)。
もし私の理解が正しければ、ここでパターンが写像「x → y」と見なされているのは、ある計算機によるパターンの予測計算によってパターンが再帰的に定義されているからである。xが観測されるパターンであり、yは、xをシミュレートする計算機が出力するxについての予測計算の結果である。y自身もまたパターンであり、これをさらに別の計算機がシミュレートして、それについての予測計算の結果zを出力する。実在性の関係は推移的なので、x→y、y→zがリアルであればx→zもまたリアルである。定義を構成する基底ケースは、xが何であるか言えず、ただ「指をさす」ことしかできない状況だそうである(p.226)。以上より、xが何であるか言えない「物自体」のケースから始まって、xを観測するy、yを観測するz、という風に次々とRPが構成されていく。x → yがprojectibleとは、平たく言えばxをシミュレートしなかった場合よりも高い確率でxを正しく予測できる、ということである。要するに、Dennettの論文にあった「成功する予測をもたらす」という条件をより精緻にしたものである。条件(ii)にあるlogical depthとは、Charles Bennettによって提案された複雑さの指標である。[5] この条件が述べているのは、「物理的に可能などんな計算機によっても、さらなる圧縮が不可能」という条件と実質的に同じことである。以上により、Ladyman & RossはRPの必要十分条件を与えている。
本書におけるLadyman & Rossの中心テーゼは、この世界に存在する一切は、上のように定式化されたRPである、というものである。パターンとはデータにおける関係の構造であるから、このパターン一元論こそがOSRに相当する。こう考えれば、上のようなややこしい定義を導入しなければならなかった必然性も見えてくる。すなわち、パターンは個物ではないので、それを観測する計算機から切り離して考えることができない。ゆえに、観測されるパターンと観測するパターンとの関係から、再帰的に「パターン」を定義するしかないのである。結局、存在する一切はパターンということで、パターン同士がお互いを計算し、お互いの振る舞いを予測しようとしている、という世界像が帰結する。Ladyman & Rossはこの世界像をRainforest Realismとも呼んでいる。これは、存在論はなるべく小さい方が良いという意味で「砂漠」を勧めていたQuineの比喩にあやかったものである。Ladyman & RossのOSRは、存在論的還元主義とアトミズムに立脚するQuineの砂漠とは対照的に、観測の粗さの様々なスケールでの多様な実在を認める熱帯雨林だというわけである。
さて、私は次の疑問を提起してみたい。すなわち、Ladyman & Rossの熱帯雨林は彼らが言うほど果たして緑豊かであろうか?上でみたように、Ladyman & Rossは圧縮の放棄不可能性を人間の計算力に相対化するDennettによるRPの定式化(以下、RP1)を「道具主義的」と見なして批判している。これは、あるパターンがリアルであるか否かが、(彼ら曰く)客観的な事実ではなく恣意的ないし偶然的な要素によって決まることになってしまうからである。しかし、結果として「物理的に可能などんな計算機によっても圧縮が放棄不可能」であることを要求するLadyman & Rossの定式化(以下、RP2)の方が道具主義的であるように私には思われる。というのは、RP2の必要十分条件は厳し過ぎるからである。彼らの基準をクリアするパターンに保証されるリアルさの度合いは確かに強いけれど、基準から漏れるものがあまりにも多いのではないか。例えば、RP1では、心に関する消去主義はアプリオリに偽である。なぜなら、志向状態についての語りは我々人間にとって放棄不可能だからである。しかし、RP2に従えば、消去主義は経験的に検証するべき主張である(p.207)。言い換えれば、将来的に志向状態についての語りよりも効率的な——projectibleでかつlogical depthが低い——圧縮が発見されれば(神経生理学的な記述であれ何であれ)、志向状態についての語りは放棄可能になる、というわけである。これが道具主義でなければ一体何であろうか。ゆえに、OSRは実在論である以上、DennettのRP1の方がその定式化に適しているように思われる。RP2に基づくLadyman & RossのOSRは、熱帯雨林実在論と言いつつも、その内実、基礎物理学が明らかにするパターン以外のパターンに正当な実在性を付与していないのではないか(彼ら自身によるその否認にも関わらず。本書pp.242-243参照)。結局、彼らの実在論は熱帯雨林というよりは精々、永久凍土なのではないか、という疑念を持たざるを得ない。
【最後に】
以上、私はLadyman & Rossの立場を散々批判的に扱ってきたけれど、裏を返せば、それだけ批判する価値があるということである。私は、彼らのある種ラディカルとも言える自然主義の精神には強く共鳴するし、OSRについても、まだまだ曖昧な点や難点もあるとは言え、非常に興味深く魅力的な考え方だと思っている。だからこそLadyman & Rossとの差別化を図ることによって自分の考えを明確化し、理解を深めることができる。この分野の今後の動向にも是非注目していきたい。[6]
[1] Dennett, Daniel. 1991. "Real Patterns." The Journal of Philosophy 88 (1): pp.27-51.
[2] Rossが、"it's real patterns all the way down"というスローガンを私信でDennettに伝えてみたところ、熱の込もった賛同を得たという。本書p.228参照。
[3] Dennett, op. cit., p.34.
[4] Dennett, Daniel. 1971. "Intentional Systems." The Journal of Philosophy 68 (4): pp.87-106.
[5] Bennett, Charles. 1990. "How to Define Complexity in Physics, and Why." in Wojciech Zurek ed., Complexity, Entropy and the Physics of Information, pp. 137-48. Boulder: Westview.
[6] 早速、今年の3月にOSR提唱者の一人、Steven Frenchの新著The Structure of the WorldがOxford University Pressから出版されるようである。
科学哲学者James Ladymanと、経済学や脳科学周辺で学際的な研究を行っているDon Rossらによる、Ontic Structural Realism (OSR)のマニフェスト的著書。第1、5章にはDavid Spurett、第4章にはJohn Collierがそれぞれ執筆に加わっている。
OSRとは、平たく言えば、「個物は存在せず、存在するのは関係(構造)だけである」という考え方である。これは一見突飛に聞こえるかもしれないが、OSRを支持するのには穏当な動機がある。それは、自然科学の成果を真摯に受け止め、形而上学の議論に取り入れなければならない、というものである。Ladymanらによれば、現代物理学が明らかにする世界像を真摯に受け止めるならば、従来の、自己同一的な個物の存在を議論の前提とする形而上学は保持できない。実際、哲学者の多くが、細かい粒子同士が衝突したり、相互作用したりすることによってマクロな物体が構成されていると信じているが、Ladymanらはそうした世界観を"microbangings"の世界観、そしてそれに基づく哲学を"philosophy of A-level chemistry"と呼んで揶揄している。
本書の第1章は、英米で現在主流の分析形而上学に対する痛烈な批判から始まっている。曰く、分析形而上学は「人類の知へ貢献することは何もなく」、その実践者は「才能を浪費している」(p.vii)。というのも、分析形而上学の論者たちは、表向きは「自然主義」を標榜していようと、専ら科学的にはありえない前提の中で議論を進めており、その成否如何を経験ではなく直観に頼っているからである。そんな営みはもはや「客観的真理の虚心な追求と見なすことはできず、廃止するべきである」(p.vii)。以前から分析形而上学に対して不信の念を抱いていた私にとって、Ladymanらの批判は実に的確に思われ、痛快だった。
第1章で破壊的な作業が終わった後、第2章以降で建設の作業が始まる。第2章は実在論論争を主軸にしたスタンダードな科学哲学的議論。Bas van Fraassenの構成的経験論を取り上げる辺りは正直ちょっとダルいが、全体の論旨は中々面白い。第3章以降は、形而上学というよりはもはや物理学の哲学といった様相を呈している。個々の論点をすべて追うのは大変だが、議論の大筋は非常に明快である(ただし、執筆陣が異なるためか、第4章を除く)。また、関連文献が豊富なのも嬉しい。
以下、本書を読んだ上での気になった点をいくつかまとめておきたい。
【形而上学の位置付け】
本書は、形而上学を自然化する試みであるから、形而上学をどういう風に捉えるかが議論の前提として重要である。Ladymanらは、形而上学を既成の各科学の成果を綜合する営み、つまりそれぞれの科学からは区別された自律的な活動と見なしている。しかし、自然主義の精神に照らせば、むしろW. V. O. Quineのように哲学と科学を識別不可能なものと捉えた方がいいのではないか、と私には思われる。またLadymanらは、科学と非科学、および各科学分野の境界を画定するための基準として、研究費が下りそうか否か、というのを採用している(p.33)が、これはかなり説得力を欠く。この二点は次のように関連している。すなわち、Ladymanらは形而上学を、各科学が一旦成立してから遅れてやってくる世話役のように捉えている。しかし科学史を振り返ってみれば、fruitfulな科学はむしろ形而上学的思弁と協働しているのが分かる(この歴史解釈には異論があるかもしれないが、私の読みはそうである)。そして各科学の境界も、こうした思弁の中で徐々に出来上がっていく。
一旦科学の成果が出揃うまで待てという制約は窮屈過ぎるように思われるし、哲学と科学との間に余計な弁別を導入している。これは、自然主義の精神に適っているとは言い難いのではないか。これがLadyman & Rossに対する私の最も大きな不満点である。すなわち、既存の科学を固定化しようとするモメントが強すぎるのである。
【Real Patternsについて】
Ladyman & RossのOSRにおいて不可欠な役割を担うのが、Real Patterns (RP)の理論である。RPと言えばもともと、哲学者Daniel Dennettが同名の論文の中で、人間の志向状態——「信じる」や「欲する」といった——の存在論的身分を明らかにするために粗描した理論である。[1] ただし、Dennettの理論は人間の志向状態に留まらず、存在者一般に関する理論であって、志向状態はその一例に過ぎない。そういう意味で、RPは一つの存在論である。Dennettの論文では必ずしも明確ではないものの、RPによれば、存在する一切のものは「パターン」である。[2] パターンとはデータの規則性である。あるデータにパターンが存在するためには、そのデータが圧縮可能でなければならない。例えば、0と1が交互に32回繰り返すデータは、「0と1を32回交互に繰り返せ」と命じるプログラムに圧縮可能である。他方で、0と1の全くランダムな羅列は、圧縮不可能である。つまり、前者にはパターンがあるが後者にはパターンがないのである。さて、パターンには、実在するパターンと単なるパターンとがある、というのがDennettやLadyman & Rossの共通の主張である。しかし、DennettとLadyman & Rossとでは、あるパターンが実在するパターン、つまりRPであるための必要十分条件が異なる。以下、この点を敷衍してみたい。
まずDennettの定式化を見てみよう。
[A] pattern exists in some data—is real—if there is a description of the data that is more efficient than the bit map, whether or not anyone can concoct it. [3]
なお、ここで言われている「ビットマップ」とは、圧縮率0のデータ記述である。さて、ここで重要なのは、何を以てあるデータの記述を「効率的」(efficient)と見なすか、である。パターンの実在性の要件が問題になっているのであるから、効率性をデータの「圧縮率」と解すことはできない。というのも、効率性が単に圧縮率の問題であるなら、ノイズの混入を犠牲にいくらでも圧縮率を上げることができ、パターンが存在するか否かが客観的な事実ではなく記述者の都合のみによって決まることになってしまうからである。それではRPの要件として不適格である。ではDennettの考えはどうであろうか。彼はパターンがリアルであるための必要条件として、「成功する予測をもたらす」ことを考えているようである。RP論文の中で彼は、もしあるパターンに賭けることによって儲けることができるならば、そのパターンはリアルである、と述べている。したがって、先の定式化におけるデータ記述の「効率性」を、「予測が上手くいくこと」と解釈することによって、彼のRPの二つの(一見異なるように見える)特徴付けを同一視することができる。
しかし、単に予測を促進するというだけではまだRPの条件として弱い。つまりこれではまだ十分条件とは言えない。というのも、Dennettは別の論文の中で次のような議論を展開しているからである。[4] すなわち、我々は温度計に対して志向姿勢(ある対象を、志向的な主体と見なすデータ記述の様式)を採ることが可能である(例えば「温度計は部屋が25度であることを望んでいる」、「温度計は今部屋が20度であると思っている」、などと解釈することによって)が、チェスを指す高性能コンピュータに対しては、我々は、予測力を削ぎ落とさないためには志向姿勢を採らざるを得ない。言い換えれば、我々はチェスの試合においては「志向姿勢」というデータ圧縮の様式を放棄することができないのである(さもないと相手の次の一手を読む能力を大幅に失ってしまう)。ここで言われている「圧縮の放棄不可能性」——あるいは「さらなる圧縮の不可能性」と読み換えても良い。もし予測力を削ぎ落とすことなくさらなる圧縮が可能であるならば、当該圧縮は放棄可能であるから、対偶を取って「圧縮が放棄不可能」⇒「さらなる圧縮が不可能」。逆に「さらなる圧縮が不可能」⇒「圧縮が放棄不可能」も明らかに成立する——は、単に「成功する予測をもたらす」よりも強い条件である。
問題は、「誰にとって放棄不可能」であるか、である。これはあるパターンがリアルであるための十分条件は何か、という問題である。この点についてDennettの記述は一貫していない、というのがLadyman & Rossの本書における指摘である(p.206)。というのも、DennettはRP論文の前半では「物理的に可能などんな計算機によっても放棄不可能」という条件を想定しておきながら、同じ論文の後半では「我々人間によって放棄不可能」であることを想定しているようだからである。ある箇所では、放棄不可能性を記述者のノイズ許容度にさえ相対化させてしまっている、とLadyman & Rossは指摘する(p.206)。これでは放棄不可能性の条件がないのと実質的に等しい。Ladyman & Rossに言わせれば、圧縮の放棄不可能性を、恣意的に制限された状況における、恣意的に選ばれた計算機(特定の人間集団のような)の推論力に相対化させてはならない(p.208)。彼らによれば、このような解釈は道具主義を招く。パターンがリアルであるための十分条件としてはむしろ、「物理的に可能などんな計算機によっても放棄不可能」とするべきである、と彼らは言う。Dennett自身の最初のRPの定式化における、"whether or not anyone can concoct it"というフレーズも、このように解釈しない限り首尾一貫しないだろう。というのも、この一節は「どんな人間や計算機も未だ発見していないRPが存在し得る」ということを含意しているからである。
以上の考察を踏まえて、Ladyman & Rossは独自の用語法に基づいた新たなRPの必要十分条件を次のように与えている(p.233)。
[A] pattern x → y is real iff
(i) it is projectible; and
(ii) it has a model that carries information about at least one pattern P in an encoding that has logical depth less than the bit-map encoding of P, and where P is not projectible by a physically possible device computing information about another real pattern of lower logical depth than x → y.
もし私の理解が正しければ、ここでパターンが写像「x → y」と見なされているのは、ある計算機によるパターンの予測計算によってパターンが再帰的に定義されているからである。xが観測されるパターンであり、yは、xをシミュレートする計算機が出力するxについての予測計算の結果である。y自身もまたパターンであり、これをさらに別の計算機がシミュレートして、それについての予測計算の結果zを出力する。実在性の関係は推移的なので、x→y、y→zがリアルであればx→zもまたリアルである。定義を構成する基底ケースは、xが何であるか言えず、ただ「指をさす」ことしかできない状況だそうである(p.226)。以上より、xが何であるか言えない「物自体」のケースから始まって、xを観測するy、yを観測するz、という風に次々とRPが構成されていく。x → yがprojectibleとは、平たく言えばxをシミュレートしなかった場合よりも高い確率でxを正しく予測できる、ということである。要するに、Dennettの論文にあった「成功する予測をもたらす」という条件をより精緻にしたものである。条件(ii)にあるlogical depthとは、Charles Bennettによって提案された複雑さの指標である。[5] この条件が述べているのは、「物理的に可能などんな計算機によっても、さらなる圧縮が不可能」という条件と実質的に同じことである。以上により、Ladyman & RossはRPの必要十分条件を与えている。
本書におけるLadyman & Rossの中心テーゼは、この世界に存在する一切は、上のように定式化されたRPである、というものである。パターンとはデータにおける関係の構造であるから、このパターン一元論こそがOSRに相当する。こう考えれば、上のようなややこしい定義を導入しなければならなかった必然性も見えてくる。すなわち、パターンは個物ではないので、それを観測する計算機から切り離して考えることができない。ゆえに、観測されるパターンと観測するパターンとの関係から、再帰的に「パターン」を定義するしかないのである。結局、存在する一切はパターンということで、パターン同士がお互いを計算し、お互いの振る舞いを予測しようとしている、という世界像が帰結する。Ladyman & Rossはこの世界像をRainforest Realismとも呼んでいる。これは、存在論はなるべく小さい方が良いという意味で「砂漠」を勧めていたQuineの比喩にあやかったものである。Ladyman & RossのOSRは、存在論的還元主義とアトミズムに立脚するQuineの砂漠とは対照的に、観測の粗さの様々なスケールでの多様な実在を認める熱帯雨林だというわけである。
さて、私は次の疑問を提起してみたい。すなわち、Ladyman & Rossの熱帯雨林は彼らが言うほど果たして緑豊かであろうか?上でみたように、Ladyman & Rossは圧縮の放棄不可能性を人間の計算力に相対化するDennettによるRPの定式化(以下、RP1)を「道具主義的」と見なして批判している。これは、あるパターンがリアルであるか否かが、(彼ら曰く)客観的な事実ではなく恣意的ないし偶然的な要素によって決まることになってしまうからである。しかし、結果として「物理的に可能などんな計算機によっても圧縮が放棄不可能」であることを要求するLadyman & Rossの定式化(以下、RP2)の方が道具主義的であるように私には思われる。というのは、RP2の必要十分条件は厳し過ぎるからである。彼らの基準をクリアするパターンに保証されるリアルさの度合いは確かに強いけれど、基準から漏れるものがあまりにも多いのではないか。例えば、RP1では、心に関する消去主義はアプリオリに偽である。なぜなら、志向状態についての語りは我々人間にとって放棄不可能だからである。しかし、RP2に従えば、消去主義は経験的に検証するべき主張である(p.207)。言い換えれば、将来的に志向状態についての語りよりも効率的な——projectibleでかつlogical depthが低い——圧縮が発見されれば(神経生理学的な記述であれ何であれ)、志向状態についての語りは放棄可能になる、というわけである。これが道具主義でなければ一体何であろうか。ゆえに、OSRは実在論である以上、DennettのRP1の方がその定式化に適しているように思われる。RP2に基づくLadyman & RossのOSRは、熱帯雨林実在論と言いつつも、その内実、基礎物理学が明らかにするパターン以外のパターンに正当な実在性を付与していないのではないか(彼ら自身によるその否認にも関わらず。本書pp.242-243参照)。結局、彼らの実在論は熱帯雨林というよりは精々、永久凍土なのではないか、という疑念を持たざるを得ない。
【最後に】
以上、私はLadyman & Rossの立場を散々批判的に扱ってきたけれど、裏を返せば、それだけ批判する価値があるということである。私は、彼らのある種ラディカルとも言える自然主義の精神には強く共鳴するし、OSRについても、まだまだ曖昧な点や難点もあるとは言え、非常に興味深く魅力的な考え方だと思っている。だからこそLadyman & Rossとの差別化を図ることによって自分の考えを明確化し、理解を深めることができる。この分野の今後の動向にも是非注目していきたい。[6]
[1] Dennett, Daniel. 1991. "Real Patterns." The Journal of Philosophy 88 (1): pp.27-51.
[2] Rossが、"it's real patterns all the way down"というスローガンを私信でDennettに伝えてみたところ、熱の込もった賛同を得たという。本書p.228参照。
[3] Dennett, op. cit., p.34.
[4] Dennett, Daniel. 1971. "Intentional Systems." The Journal of Philosophy 68 (4): pp.87-106.
[5] Bennett, Charles. 1990. "How to Define Complexity in Physics, and Why." in Wojciech Zurek ed., Complexity, Entropy and the Physics of Information, pp. 137-48. Boulder: Westview.
[6] 早速、今年の3月にOSR提唱者の一人、Steven Frenchの新著The Structure of the WorldがOxford University Pressから出版されるようである。
2013年10月21日月曜日
パース「我々の観念を明晰にする方法」について
以下の文章は、C. S. Peirce "How to Make Our Ideas Clear"の読書会のために私が用意したレジュメです。特記がない限り頁番号はすべてThe Essential Peirce Vol.1 (Indiana Univ. Press, 1992)のもの。
【明晰と判明】
「信念の固定化」を扱った前回の読書会において述べたように、パースの「我々の観念を明晰にする方法」という論文は彼の「プラグマティズムの格率」が初めてその定式化を見た論文である。そして、パースのプラグマティズムの基本的な狙いは、デカルト以来の近代哲学の思考法を、彼が「科学の方法」と呼ぶ思考法によって克服することにあるのであった。そこで本論は、デカルトが『哲学原理』(Principia philosophiae)で導入した観念の明晰さの基準を批判するところから始まる。デカルトは観念の明晰さを定義して「注意する精神に現前し、明らかであること」(Principia philosophiae pt.1, 45)とした。つまり、明晰さの基準を内観的明証性に置いたのである。これは「どんな場合にそれに遭遇したとしてもそれだと分かり、他の観念と間違えたりしないこと」と言い換えることができる。もちろんデカルトは「注意する精神」という但し書きを付けたが、これだけだとある観念が明晰であることと、単に明晰に見えることとの間の区別が曖昧になってしまう。そこで彼は明晰さの第二段階として「判明さ」を導入した。すなわち「その内に明晰ならざる部分を有さないこと」という、より強い条件を付した。しかし観念の「部分」とは何であるか、デカルトの著作においてはあまり明らかではない。この難点を克服したのはライプニッツである。彼は概念一般を、その「定義」となる述語の系列に分解する手法を考案し、それらを同時にすべて把握することを認識の完全性の基準とした。つまり、明晰さの基準を抽象的定義に置いたのである。ところが、「三角形の内角の和は180度である」といったような、有限の分解手続きでトートロジーに還元可能な必然的命題はともかく、「カエサルはルビコン川を渡る」といったような偶然的命題の場合、分解手続きは無限に進行する。これは、「カエサル」という名辞には無限の述語系列が含まれており、それらを一挙に把握することは人間知性には不可能だからである。しかし、人間知性の条件を超えた明晰性の基準は、我々の既存の信念に秩序をもたらすことはあっても、新しい信念の獲得にとっては無益であり、さらなる探究の続行を不可能にする。パースはこの点を問題にし、これを解消するために明晰さの第三段階(the third level of clarity)の定式化を試みる。
【プラグマティズムの格率】
探究の目的である信念の固定化とは、我々の内にある行為への傾向性、つまり「習慣」(habit)の確立であった。ならば、我々の思考を明晰化することはとりもなおさず、その思考が規定する習慣を明らかにすることとなる。そして「習慣が何であるかは、それがいつ、いかに我々の行為を生ぜしめるかにかかっている」(p.131)。この「いつ」とは、個々の行為を誘発する知覚経験の時点であり、「いかに」とは、行為がいかなる感覚的結果(sensible result)の内に実現されるか、である。これらの前提から、前回の冒頭でも引いた次の格率が導かれる:
これは、我々の対象認識一般を、その対象が我々の行為と関係を有するであろう場面において、「その行為の結果、いかなる反作用的な効果をもたらすであろうか」という信念に還元せよ、と命じる規則である。これが「プラグマティズム」の格率と呼ばれるのは、我々の認識をカントの言う「プラグマティッシュな信念」(pragmatische Glaube)、すなわち「ある行為に対する手段の現実的使用に根拠を与えるところの偶然的信念」(Kritik der reinen Vernunft A.825)に還元せよと命じるからである。これは、平たく言えば条件-帰結形式の対象認識である。あるなされるであろう行為という条件に対して、その行為が事実なされるとき(つまり条件が真であるとき)、その結果生じるであろう観察可能な反作用的現象がいかなるものであるか、考察してみよと述べているのである。モラーリッシュ(定言的)な法則をその哲学体系の支柱としたカントとは対照的に、パースは、プラグマティッシュ(仮言的)な法則をその哲学の核に据えているわけである。その思考法に敢えてカント由来の「プラグマティズム」という名前を付けたところに、パース自身が恩恵を受けたカントの哲学を「先験的方法」の一例として批判する意図を読み取ることができる。
【二つの効果概念】
さて、パースのプラグマティズムの目的は、科学の方法、とりわけ実験科学の方法をモデルに哲学を再構築することにある。しかし、そこにはある両義性ないし混乱が含まれているように思われる。というのも、パースのプラグマティズム理解には二つの異なる「効果」の概念が含まれているように思われるからである。上で述べた説明では、「効果」とは、(A) 我々の行為に対して対象がもたらす反作用的な効果である。例えば「ダイアモンドを擦る」という行為に対して「傷付かない」といった効果である。本論でパースが取り上げているのは専らこちらの意味での効果である。もう一つ、(B) 我々がある概念を持つことによる効果も考えることができる。例えば「力」という概念を持つことによって我々は物体の速度変化や方向変化を理解することができる。つまり、対象ではなく概念自体がそうした実際的効果をもたらすということである。本論ではこの意味で「効果」という言葉は使われていないが、これに相当する発想がプラグマティズムの格率に読み込まれているように思われる。例えば、今述べた力概念の有用性について述べられている箇所がそうである:「我々の規則に従えば、まず力を考えることの直接的な利点を問わねばならない」(p.133)。また本論以外でも、これに相当する記述をいつくか見出すことができる。つまり「対象がもたらす効果」ではなく「我々の概念がもたらす効果」について語られている箇所である。例として、有名な箇所を二つだけ挙げておく。一つは1871年に発表された、A・C・フレーザー『バークリー著作集』(The Works of George Berkeley)に対するパースの書評からの一節である:
この書評が書かれたのは、「我々の観念を明晰にする方法」でプラグマティズムの格率が初めて公に定式化される七年前であるが、プラグマティズムの着想自体はこの時期にすでに形を整えていたようである。この一節には、「概念の有用性」の見地から解釈されたプラグマティズムが明確に表れている。もう一つの箇所は、1905年の論文「プラグマティシズムの諸問題」("The Issues of Pragmaticism")からである。「我々の観念を明晰にする方法」でのプラグマティズムの格率の定式化が難解であることをパース自身が率直に認め、その代わりにもう少し分かりやすい定式化を次のように与えている:
プラグマティズムの格率の言い換えであると言っておきながら、ここでは「効果」への言及が抜け落ちている代わりに、「記号(概念)の意味」と「行為の一般的様式」とが同一視されている。ただし、我々の「行為の一般的様式」は我々が持つ概念の帰結と考えられるから、ここでもやはり「概念を持つことによる効果」が想定されていると見ていいだろう。 これはいかに理解すべきであろうか。現代の我々が「プラグマティズム」について語るとき、通常想定されているのは「概念を持つことによる効果」の方であろう。ウィリアム・ジェイムズが真理を「我々にとっての有用性」と定義したときに働いていた効果概念もこちらの方である。なればこそ、ますます「我々の観念を明晰にする方法」の中で粗描されているプラグマティズムとの乖離は重大な問題である。私はこの問題に対して、確定的な答えを用意しているわけではないが、一つの仮説はある。すなわち、二つの効果概念は実は同じことを語っているのではないか、という仮説である。例えば「虚数」の概念を例に考えてみたい。この概念は、内観的明証性を欠くにも関わらず実践の中で何の問題もなく使用されているということで、とりわけ鮮やかにプラグマティズムの格率が活きるパラダイム・ケースであるように思われる。さて、(B)の効果概念の方から考えてみよう。我々が「虚数」の概念を持つことによる効果とは、例えば三次方程式を解くことができるという事実である。ここに「虚数」概念の我々にとっての有用性が存する。では(A)の場合はどうであろうか。「虚数」の概念の対象は、もちろん虚数である。対象たる虚数が、我々の数学的実践に対してもたらす効果とは、やはり三次方程式の解を導くことである。つまり二つの効果概念の中身が一致している。これが他のすべてのケースについても同様に当て嵌まるかどうかに関しては、自信がない。例えばダイアモンドの例で言えば、擦るという行為に対して「傷付かないこと」と、「擦っても傷付かないという信念が規定する行為への傾向性」との間には隔たりがあるように思える。この違いは一体どこからくるのか、私には上手く説明できない。皆様は如何だろうか。
【明晰と判明】
「信念の固定化」を扱った前回の読書会において述べたように、パースの「我々の観念を明晰にする方法」という論文は彼の「プラグマティズムの格率」が初めてその定式化を見た論文である。そして、パースのプラグマティズムの基本的な狙いは、デカルト以来の近代哲学の思考法を、彼が「科学の方法」と呼ぶ思考法によって克服することにあるのであった。そこで本論は、デカルトが『哲学原理』(Principia philosophiae)で導入した観念の明晰さの基準を批判するところから始まる。デカルトは観念の明晰さを定義して「注意する精神に現前し、明らかであること」(Principia philosophiae pt.1, 45)とした。つまり、明晰さの基準を内観的明証性に置いたのである。これは「どんな場合にそれに遭遇したとしてもそれだと分かり、他の観念と間違えたりしないこと」と言い換えることができる。もちろんデカルトは「注意する精神」という但し書きを付けたが、これだけだとある観念が明晰であることと、単に明晰に見えることとの間の区別が曖昧になってしまう。そこで彼は明晰さの第二段階として「判明さ」を導入した。すなわち「その内に明晰ならざる部分を有さないこと」という、より強い条件を付した。しかし観念の「部分」とは何であるか、デカルトの著作においてはあまり明らかではない。この難点を克服したのはライプニッツである。彼は概念一般を、その「定義」となる述語の系列に分解する手法を考案し、それらを同時にすべて把握することを認識の完全性の基準とした。つまり、明晰さの基準を抽象的定義に置いたのである。ところが、「三角形の内角の和は180度である」といったような、有限の分解手続きでトートロジーに還元可能な必然的命題はともかく、「カエサルはルビコン川を渡る」といったような偶然的命題の場合、分解手続きは無限に進行する。これは、「カエサル」という名辞には無限の述語系列が含まれており、それらを一挙に把握することは人間知性には不可能だからである。しかし、人間知性の条件を超えた明晰性の基準は、我々の既存の信念に秩序をもたらすことはあっても、新しい信念の獲得にとっては無益であり、さらなる探究の続行を不可能にする。パースはこの点を問題にし、これを解消するために明晰さの第三段階(the third level of clarity)の定式化を試みる。
【プラグマティズムの格率】
探究の目的である信念の固定化とは、我々の内にある行為への傾向性、つまり「習慣」(habit)の確立であった。ならば、我々の思考を明晰化することはとりもなおさず、その思考が規定する習慣を明らかにすることとなる。そして「習慣が何であるかは、それがいつ、いかに我々の行為を生ぜしめるかにかかっている」(p.131)。この「いつ」とは、個々の行為を誘発する知覚経験の時点であり、「いかに」とは、行為がいかなる感覚的結果(sensible result)の内に実現されるか、である。これらの前提から、前回の冒頭でも引いた次の格率が導かれる:
認識の明晰性の第三段階に至るための規則は、必然的に次のものとなる:我々の概念の対象が、行動と関わりがあるかもしれないと考えられるどんな効果を持つと我々が考えるか、ということを考察してみよ。そうすれば、こうした効果に関する我々の概念が、その対象に関する我々の概念の全体と一致する。(p.132)
これは、我々の対象認識一般を、その対象が我々の行為と関係を有するであろう場面において、「その行為の結果、いかなる反作用的な効果をもたらすであろうか」という信念に還元せよ、と命じる規則である。これが「プラグマティズム」の格率と呼ばれるのは、我々の認識をカントの言う「プラグマティッシュな信念」(pragmatische Glaube)、すなわち「ある行為に対する手段の現実的使用に根拠を与えるところの偶然的信念」(Kritik der reinen Vernunft A.825)に還元せよと命じるからである。これは、平たく言えば条件-帰結形式の対象認識である。あるなされるであろう行為という条件に対して、その行為が事実なされるとき(つまり条件が真であるとき)、その結果生じるであろう観察可能な反作用的現象がいかなるものであるか、考察してみよと述べているのである。モラーリッシュ(定言的)な法則をその哲学体系の支柱としたカントとは対照的に、パースは、プラグマティッシュ(仮言的)な法則をその哲学の核に据えているわけである。その思考法に敢えてカント由来の「プラグマティズム」という名前を付けたところに、パース自身が恩恵を受けたカントの哲学を「先験的方法」の一例として批判する意図を読み取ることができる。
【二つの効果概念】
さて、パースのプラグマティズムの目的は、科学の方法、とりわけ実験科学の方法をモデルに哲学を再構築することにある。しかし、そこにはある両義性ないし混乱が含まれているように思われる。というのも、パースのプラグマティズム理解には二つの異なる「効果」の概念が含まれているように思われるからである。上で述べた説明では、「効果」とは、(A) 我々の行為に対して対象がもたらす反作用的な効果である。例えば「ダイアモンドを擦る」という行為に対して「傷付かない」といった効果である。本論でパースが取り上げているのは専らこちらの意味での効果である。もう一つ、(B) 我々がある概念を持つことによる効果も考えることができる。例えば「力」という概念を持つことによって我々は物体の速度変化や方向変化を理解することができる。つまり、対象ではなく概念自体がそうした実際的効果をもたらすということである。本論ではこの意味で「効果」という言葉は使われていないが、これに相当する発想がプラグマティズムの格率に読み込まれているように思われる。例えば、今述べた力概念の有用性について述べられている箇所がそうである:「我々の規則に従えば、まず力を考えることの直接的な利点を問わねばならない」(p.133)。また本論以外でも、これに相当する記述をいつくか見出すことができる。つまり「対象がもたらす効果」ではなく「我々の概念がもたらす効果」について語られている箇所である。例として、有名な箇所を二つだけ挙げておく。一つは1871年に発表された、A・C・フレーザー『バークリー著作集』(The Works of George Berkeley)に対するパースの書評からの一節である:
いくつかの事物が、実際的に同じ機能を果たすか?ならば同じ言葉によってそれらを指し示せ。果たさないか?ならば区別せよ。もし私がある出鱈目の公式を覚えて、その公式が、私の記憶を何らかの方法で上手く推進し、あらゆる場面においてあたかも私が一般的な観念を保持しているかのように行為することを可能にしてくれるのであれば、そうした出鱈目の公式と観念とを区別することに一体何の利点があろうか?経験に関する限り同一の物を、わざわざ一般的な観念という言葉によって区別する必要は、一体どこにあろうか? [Do things fulfill the same function practically? Then let them be signified by the same word. Do they not? Then let them be distinguished. If I have learned a formula in gibberish which in any way jogs my memory so as to enable me in each single case to act as though I had a general idea, what possible utility is there indistinguishing between such gibberish and a formula [sic] and an idea? Why use the term a general idea in such a sense as to separate things which for all experiential purposes, are the same?] (p.102)
この書評が書かれたのは、「我々の観念を明晰にする方法」でプラグマティズムの格率が初めて公に定式化される七年前であるが、プラグマティズムの着想自体はこの時期にすでに形を整えていたようである。この一節には、「概念の有用性」の見地から解釈されたプラグマティズムが明確に表れている。もう一つの箇所は、1905年の論文「プラグマティシズムの諸問題」("The Issues of Pragmaticism")からである。「我々の観念を明晰にする方法」でのプラグマティズムの格率の定式化が難解であることをパース自身が率直に認め、その代わりにもう少し分かりやすい定式化を次のように与えている:
どんな記号であれ、その記号が有する知的趣旨の総体は、その記号を受け容れることによって条件的に起こるであろう、あらゆる可能な異なる状況と意図の下での合理的行為の、あらゆる一般的様式の総体と一致する。 [The entire intellectual purport of any symbol consists in the total of all general modes of rational conduct which, conditionally upon all the possible different circumstances and desires, would ensue upon the acceptance of the symbol] (Collected Papers of Charles Sanders Peirce 5.438)
プラグマティズムの格率の言い換えであると言っておきながら、ここでは「効果」への言及が抜け落ちている代わりに、「記号(概念)の意味」と「行為の一般的様式」とが同一視されている。ただし、我々の「行為の一般的様式」は我々が持つ概念の帰結と考えられるから、ここでもやはり「概念を持つことによる効果」が想定されていると見ていいだろう。 これはいかに理解すべきであろうか。現代の我々が「プラグマティズム」について語るとき、通常想定されているのは「概念を持つことによる効果」の方であろう。ウィリアム・ジェイムズが真理を「我々にとっての有用性」と定義したときに働いていた効果概念もこちらの方である。なればこそ、ますます「我々の観念を明晰にする方法」の中で粗描されているプラグマティズムとの乖離は重大な問題である。私はこの問題に対して、確定的な答えを用意しているわけではないが、一つの仮説はある。すなわち、二つの効果概念は実は同じことを語っているのではないか、という仮説である。例えば「虚数」の概念を例に考えてみたい。この概念は、内観的明証性を欠くにも関わらず実践の中で何の問題もなく使用されているということで、とりわけ鮮やかにプラグマティズムの格率が活きるパラダイム・ケースであるように思われる。さて、(B)の効果概念の方から考えてみよう。我々が「虚数」の概念を持つことによる効果とは、例えば三次方程式を解くことができるという事実である。ここに「虚数」概念の我々にとっての有用性が存する。では(A)の場合はどうであろうか。「虚数」の概念の対象は、もちろん虚数である。対象たる虚数が、我々の数学的実践に対してもたらす効果とは、やはり三次方程式の解を導くことである。つまり二つの効果概念の中身が一致している。これが他のすべてのケースについても同様に当て嵌まるかどうかに関しては、自信がない。例えばダイアモンドの例で言えば、擦るという行為に対して「傷付かないこと」と、「擦っても傷付かないという信念が規定する行為への傾向性」との間には隔たりがあるように思える。この違いは一体どこからくるのか、私には上手く説明できない。皆様は如何だろうか。
2013年10月5日土曜日
パース「信念の固定化」について
以下の文章は、C. S. Peirce "The Fixation of Belief"の読書会のために私が用意したレジュメです。頁番号はすべてThe Essential Peirce Vol. 1 (Indiana Univ. Press,1992)のもの。
【背景―プラグマティズムの動機】
難解な文章であるが、これが1878年の論文「我々の観念を明晰にする方法」("How to Make Our Ideas Clear")の中で初めて定式化された、C・S・パースの有名な「プラグマティズムの格率」(pragmatic maxim)である。この格率は、(論文のタイトルにあるように)我々の観念ないし概念を明晰にする方法を示している。平たく言えば、ある概念の意味は、それがもたらすと考えられる実際的な効果によって決まる、ということである。パースによれば、我々の概念にはこうした実際的な効果を超えた如何なる意味もない。したがって、実際的な効果において同等であれば、概念の意味も同等ということになる。こうした実際的な効果との関連を明示することによって我々の概念を明晰化することができるわけであるが、パースにとってこの格率は論理学の第一ステップであり、論理学を前進させようという見地から導入されたものである。この場合のパースの基本的な狙いは、彼が「科学の方法」(method of science)と呼ぶ思考法によって、デカルト以来の近代哲学の思考法を克服することにある。このことを論じているのが、「我々の観念を明晰にする方法」に先立つこと一年、1877年に発表された「信念の固定化」("The Fixation of Belief")である。したがって、この「信念の固定化」という論文は、パースのプラグマティズムの背後にある動機を示す重要な研究と言える。このことを念頭に置きながら、以下本論の論旨を追っていきたい。
【論理学の問い】
「信念の固定化」が答えようと試みているのは、パースが「論理学の問い」(the logical question)と呼んでいる問い、すなわち「我々はいかなる方法によって探究を行うべきか」という問いである。この問いに対する答えを案出するにあたって、まずパースはこの問いを問うこと自体が前提とせざるを得ない事実をいくつか指摘する(p.113)。すなわち、(1) 我々の精神の状態には懐疑(doubt)と信念(belief)という二つの異なった状態があること、(2) 懐疑から信念への移行が可能であること、(3) 懐疑から信念へ移行するに際しての認識対象たる事物が同一に留まっていること、(4) 懐疑から信念への移行はある規則に従ってなされており、この規則はすべての人間が共通して従うところのある精神の習慣(habit of mind)であること、である。これらの事実は、我々の「推論」(reasoning)という概念に予め含まれているがゆえに、我々の探究における様々な推論の妥当性を問うにあたって、前提とされざるを得ないア・プリオリな原則である(p.113)。こうした原則のことをパースは「指導原理」(guiding principle)と呼び、その一例として帰納の原理を挙げている(p.112)。パースにとって哲学への入り口はカントであったが、「現実に観察される事実が可能であるためには、いかなる条件が成り立っていなければならないか」を考察するという、ここでのパースの方法には、カントの超越論哲学の深い影響を見て取ることができる。
【懐疑と信念】
さて、探究に随伴する基本的な精神状態として、懐疑と信念という二つの異なる状態が認められるのであった。しかし、この両者の相違はどこにあるのだろうか(p.114)。まず、(1) 両者のそれぞれの内的な「感じ」による相違が認められる。さらに一般的な相違として、(2) 信念は我々を行動へ駆り立てる指針の役割を果たすが、懐疑はそのような役割を果たさない、という実際的効果における相違が認められる。また、(3) 我々は懐疑の状態を避け、信念の状態へ至ることを求める、という相違がある。パースの議論にとって重要なのは(2)と(3)であると言える。というのも、(2)と(3)から次のことが帰結するからである。すなわち、「信念とは、行為への傾向性であるところの習慣が確立している状態であり、懐疑は、そうした状態を目指すための刺激の役割を果たす」。懐疑を誘因として起こり、信念を以て停止するこの運動を、パースは「探究」(inquiry)と呼んでいるのである。とすれば、探究の唯一の目的は信念の固定化であり、真理の把握などではないことになる(p.115)。パースによれば、探究者にとって「真理」と「真理と信ずる信念」は区別不可能であり、「探究は真理の把握を目指す」という命題には、「探究は信念の固定化を目指す」という命題以上の意味は見出されないのである(p.115)。
【探究の四つの方法】
以上の考察によって「類」としての探究の本性が明らかにされた。次は、この類に属する「種」としての様々な探究の様態が区別され、それぞれ吟味される。パースが最初に取り上げるのは、「固執の方法」(method of tenacity)である(pp.115-116)。これは、ある個人が、自分がすでに有している信念を強固にする事柄にのみ固執し、それを疑念に晒す恐れのある事柄からは徹底的に目を背けるという方法である。この方法はしかし、我々の社会的・共同体的存在様式に反する。というのも、他人が自分とは異なる信念を有していることに、誰しもいつかは気付かざるを得ず、これが自然と自分の信念に対して疑念を誘発するからである(pp.116-117)。ならば、ある共同体全体で固執の方法に相当する方法を採れば良いのではないか。これがすなわち「権威の方法」(method of authority)である(p.117)。これは、ある共同体に共通する教義を設定し、この教義に反する説を排除する権利を、共同体の権力者に委ねる方法である。こうした排除がしばしば暴力を伴うこと、またそれが信念を固定化する方法として極めて効果的であることが、歴史的に知られている。しかし、この方法もまた、その共同体とは別の教義を信奉する他の共同体(あるいは同一共同体の過去の姿)との邂逅によって挫折する。第三に、「先験的方法」(a priori method)がある(pp.118-119)。[*] これは、有限な共同体を超えて、人類の思考に共通する推論原理が存在するという前提を認め、精神そのものの本性から洞察を導こうとする方法である。これは、ある命題が「理性に適う」ことをその命題の妥当性の基準とする方法である。この方法によって、極めて重要な哲学的論証がこれまで提供されてきたものの、我々の探究を一種の「趣味」(taste)の問題に帰してしまうという問題を孕んでいる。パースが最後に取り上げる方法、すなわち「科学の方法」は、この問題を克服する。この方法は、それに従って得られた我々の信念が、「人間的なものの内に原因を有さず、外的で永続的なもの(external permanency)、つまり我々の思考が決して影響を及ぼすことのないものの内に原因を有する」ような方法である(p.120)。言い換えれば、事実以外のいかなる事情にも我々の信念を依存させないような方法である。
【実在仮説】
科学の方法は、ある根本的な仮説を要請する。その仮説とは、我々の思考が影響を及ぼすことのない、外的な対象が現に実在するという「実在仮説」である(p.120)。この仮説は科学の方法が可能であるための条件であるから、科学の方法によってその正しさを論証することはできない。ならばその正しさはいかにして保障され得るだろうか。この疑念に対してパースは四つの返答を挙げているが、このうち第二の返答に注目したい(p.120)。我々がそもそも信念の固定化を目指すのは、信念が不整合であることに満足できないからである。そして我々が不整合な信念を嫌うのは、相反する命題が同時に真であることはありえないことを、我々は知っているからである。「しかしここにすでに、命題が従うべきある一つの事物が存在するという、暗黙の承認がある」(p.120)。我々が、信念の固定化を目指す、つまり探究を行うという事実のうちに、すでに実在仮説が前提されている、というわけである。換言すれば、「我々はいかなる方法によって探究を行うべきか」という問いを発するとき、その問い自体に、答えの手掛かりとなる命題の承認が含まれているのである。
[*] 上山春平訳(『世界の名著』第48巻「パース・ジェイムズ・デューイ」収録)では「先天的方法」と訳されているが、この訳は良くない。「先天的」と言えば通常、「生まれつき」という意味であるが、ある概念がa prioriであると言うとき、その概念が「生まれつき」保持されているかどうかとは全く無関係だからである。ラテン語から直訳すればa prioriは「先に来るもの」という意味であるが、この言葉が哲学で使用されるときは、通常カントの用法に従って使用される。すなわち「経験に先立つ」という意味である。例えばカントにとって、時間や空間、あるいは因果関係といった概念は、経験によって知られるのではなく、経験そのものを可能にする認識の形式であり、そういう意味で「経験に先立つ」と言われるのである。決して「生まれつき」と言ったような意味ではない。したがって、a prioriを訳す場合は「先験的」とでも訳した方が良いだろう。
【背景―プラグマティズムの動機】
我々の概念の対象が、行動と関わりがあるかもしれないと考えられるどんな効果を持つと我々が考えるか、ということを考察してみよ。そうすれば、こうした効果に関する我々の概念が、その対象に関する我々の概念の全体と一致する。(p.132)
難解な文章であるが、これが1878年の論文「我々の観念を明晰にする方法」("How to Make Our Ideas Clear")の中で初めて定式化された、C・S・パースの有名な「プラグマティズムの格率」(pragmatic maxim)である。この格率は、(論文のタイトルにあるように)我々の観念ないし概念を明晰にする方法を示している。平たく言えば、ある概念の意味は、それがもたらすと考えられる実際的な効果によって決まる、ということである。パースによれば、我々の概念にはこうした実際的な効果を超えた如何なる意味もない。したがって、実際的な効果において同等であれば、概念の意味も同等ということになる。こうした実際的な効果との関連を明示することによって我々の概念を明晰化することができるわけであるが、パースにとってこの格率は論理学の第一ステップであり、論理学を前進させようという見地から導入されたものである。この場合のパースの基本的な狙いは、彼が「科学の方法」(method of science)と呼ぶ思考法によって、デカルト以来の近代哲学の思考法を克服することにある。このことを論じているのが、「我々の観念を明晰にする方法」に先立つこと一年、1877年に発表された「信念の固定化」("The Fixation of Belief")である。したがって、この「信念の固定化」という論文は、パースのプラグマティズムの背後にある動機を示す重要な研究と言える。このことを念頭に置きながら、以下本論の論旨を追っていきたい。
【論理学の問い】
「信念の固定化」が答えようと試みているのは、パースが「論理学の問い」(the logical question)と呼んでいる問い、すなわち「我々はいかなる方法によって探究を行うべきか」という問いである。この問いに対する答えを案出するにあたって、まずパースはこの問いを問うこと自体が前提とせざるを得ない事実をいくつか指摘する(p.113)。すなわち、(1) 我々の精神の状態には懐疑(doubt)と信念(belief)という二つの異なった状態があること、(2) 懐疑から信念への移行が可能であること、(3) 懐疑から信念へ移行するに際しての認識対象たる事物が同一に留まっていること、(4) 懐疑から信念への移行はある規則に従ってなされており、この規則はすべての人間が共通して従うところのある精神の習慣(habit of mind)であること、である。これらの事実は、我々の「推論」(reasoning)という概念に予め含まれているがゆえに、我々の探究における様々な推論の妥当性を問うにあたって、前提とされざるを得ないア・プリオリな原則である(p.113)。こうした原則のことをパースは「指導原理」(guiding principle)と呼び、その一例として帰納の原理を挙げている(p.112)。パースにとって哲学への入り口はカントであったが、「現実に観察される事実が可能であるためには、いかなる条件が成り立っていなければならないか」を考察するという、ここでのパースの方法には、カントの超越論哲学の深い影響を見て取ることができる。
【懐疑と信念】
さて、探究に随伴する基本的な精神状態として、懐疑と信念という二つの異なる状態が認められるのであった。しかし、この両者の相違はどこにあるのだろうか(p.114)。まず、(1) 両者のそれぞれの内的な「感じ」による相違が認められる。さらに一般的な相違として、(2) 信念は我々を行動へ駆り立てる指針の役割を果たすが、懐疑はそのような役割を果たさない、という実際的効果における相違が認められる。また、(3) 我々は懐疑の状態を避け、信念の状態へ至ることを求める、という相違がある。パースの議論にとって重要なのは(2)と(3)であると言える。というのも、(2)と(3)から次のことが帰結するからである。すなわち、「信念とは、行為への傾向性であるところの習慣が確立している状態であり、懐疑は、そうした状態を目指すための刺激の役割を果たす」。懐疑を誘因として起こり、信念を以て停止するこの運動を、パースは「探究」(inquiry)と呼んでいるのである。とすれば、探究の唯一の目的は信念の固定化であり、真理の把握などではないことになる(p.115)。パースによれば、探究者にとって「真理」と「真理と信ずる信念」は区別不可能であり、「探究は真理の把握を目指す」という命題には、「探究は信念の固定化を目指す」という命題以上の意味は見出されないのである(p.115)。
【探究の四つの方法】
以上の考察によって「類」としての探究の本性が明らかにされた。次は、この類に属する「種」としての様々な探究の様態が区別され、それぞれ吟味される。パースが最初に取り上げるのは、「固執の方法」(method of tenacity)である(pp.115-116)。これは、ある個人が、自分がすでに有している信念を強固にする事柄にのみ固執し、それを疑念に晒す恐れのある事柄からは徹底的に目を背けるという方法である。この方法はしかし、我々の社会的・共同体的存在様式に反する。というのも、他人が自分とは異なる信念を有していることに、誰しもいつかは気付かざるを得ず、これが自然と自分の信念に対して疑念を誘発するからである(pp.116-117)。ならば、ある共同体全体で固執の方法に相当する方法を採れば良いのではないか。これがすなわち「権威の方法」(method of authority)である(p.117)。これは、ある共同体に共通する教義を設定し、この教義に反する説を排除する権利を、共同体の権力者に委ねる方法である。こうした排除がしばしば暴力を伴うこと、またそれが信念を固定化する方法として極めて効果的であることが、歴史的に知られている。しかし、この方法もまた、その共同体とは別の教義を信奉する他の共同体(あるいは同一共同体の過去の姿)との邂逅によって挫折する。第三に、「先験的方法」(a priori method)がある(pp.118-119)。[*] これは、有限な共同体を超えて、人類の思考に共通する推論原理が存在するという前提を認め、精神そのものの本性から洞察を導こうとする方法である。これは、ある命題が「理性に適う」ことをその命題の妥当性の基準とする方法である。この方法によって、極めて重要な哲学的論証がこれまで提供されてきたものの、我々の探究を一種の「趣味」(taste)の問題に帰してしまうという問題を孕んでいる。パースが最後に取り上げる方法、すなわち「科学の方法」は、この問題を克服する。この方法は、それに従って得られた我々の信念が、「人間的なものの内に原因を有さず、外的で永続的なもの(external permanency)、つまり我々の思考が決して影響を及ぼすことのないものの内に原因を有する」ような方法である(p.120)。言い換えれば、事実以外のいかなる事情にも我々の信念を依存させないような方法である。
【実在仮説】
科学の方法は、ある根本的な仮説を要請する。その仮説とは、我々の思考が影響を及ぼすことのない、外的な対象が現に実在するという「実在仮説」である(p.120)。この仮説は科学の方法が可能であるための条件であるから、科学の方法によってその正しさを論証することはできない。ならばその正しさはいかにして保障され得るだろうか。この疑念に対してパースは四つの返答を挙げているが、このうち第二の返答に注目したい(p.120)。我々がそもそも信念の固定化を目指すのは、信念が不整合であることに満足できないからである。そして我々が不整合な信念を嫌うのは、相反する命題が同時に真であることはありえないことを、我々は知っているからである。「しかしここにすでに、命題が従うべきある一つの事物が存在するという、暗黙の承認がある」(p.120)。我々が、信念の固定化を目指す、つまり探究を行うという事実のうちに、すでに実在仮説が前提されている、というわけである。換言すれば、「我々はいかなる方法によって探究を行うべきか」という問いを発するとき、その問い自体に、答えの手掛かりとなる命題の承認が含まれているのである。
[*] 上山春平訳(『世界の名著』第48巻「パース・ジェイムズ・デューイ」収録)では「先天的方法」と訳されているが、この訳は良くない。「先天的」と言えば通常、「生まれつき」という意味であるが、ある概念がa prioriであると言うとき、その概念が「生まれつき」保持されているかどうかとは全く無関係だからである。ラテン語から直訳すればa prioriは「先に来るもの」という意味であるが、この言葉が哲学で使用されるときは、通常カントの用法に従って使用される。すなわち「経験に先立つ」という意味である。例えばカントにとって、時間や空間、あるいは因果関係といった概念は、経験によって知られるのではなく、経験そのものを可能にする認識の形式であり、そういう意味で「経験に先立つ」と言われるのである。決して「生まれつき」と言ったような意味ではない。したがって、a prioriを訳す場合は「先験的」とでも訳した方が良いだろう。
2013年8月11日日曜日
科学社会学と相対主義
科学社会学自体は非常に興味深いテーマを扱っているものの、「科学の客観性に対して疑問を投げかける」といったような動機で為されることが多いために、そうしたイデオロギーを共有できない私のような人間にとって、気持ち良く(不快感なしに)読める文献を探すのが難しい分野でもある。研究者たるもの、賛同できない学説に対しても淡々と、虚心坦懐に向き合うべし、と言われるかもしれないが、現実的な問題として、当該分野の学習に非本来的かつ不要な負荷がかかってしまう。唐揚げにレモンを勝手にかけないで欲しいのである。[1]
科学社会学周辺の論者が何らかの形の相対主義に走りやすいのは、科学活動が様々な制度的要素に規定されているという「形式」の側面にばかり目を奪われて、科学の「内容」を見ようとしないからだと思われる。一般的に言って、ある現象のメタ・レベルからの特徴付けは、グラウンド・レベルにおける当該現象の理解可能性を損なってはならない。科学の内容を考量に入れれば、それは相対主義的解釈(社会構築主義など)とは相容れないことが分かるはずである。いわば、内容が形式を内側から破壊してしまうのである。さらに、科学社会学自身も科学の一つの分野であるから、科学的知識の妥当性を社会的文脈に対して相対化するというメタ視点からの条件付けは、その妥当性が相対化されるべき当の知識の妥当性を前提してしまっており、結局自己論駁に陥っている。
相対主義的解釈がこうした誤謬を犯すのは、発見の文脈と妥当性の文脈を混同しているからだと思われる。ただしここでいう「発見の文脈」と「妥当性の文脈」の区別は、論理実証主義者がよく持ち出す、context of discoveryとcontext of justificationの区別とは少々異なる。[2] 論理実証主義の発見/正当化の区別は、科学的探究に関する独自の理論を前提としている。すなわち、科学的探究にははっきりと同定できる「発見」のプロセスと「正当化」のプロセスがあり、前者には論理的・形式的に分析可能な構造はないが後者にはある、という理論である。こうした理論は、Thomas KuhnやN. R. Hansonら「新しい科学哲学」の興隆とともに廃れてしまった。しかし私の言う発見/妥当性の区別は、単なる抽象的な視点の違いであって、科学的探究のプロセスに関する独自の理論を含意しない。私の言う発見/妥当性の区別は、ある発見や理論について問われている問いの違いに過ぎない。つまり、「この理論はいかにして発見されたか」という事実に関する問いと、「この理論は正しいか」という評価的な問いとの間の区別である。「発見の文脈」と「妥当性の文脈」の区別にこれ以上の実質を持ち込む必要はない(「妥当性の文脈」と言い換えたのは、論理実証主義が想定する狭い意味での「正当化の文脈」から差別化するためである)。
さて、この区別に照らせば、相対主義の主張に反して、科学活動が制度的要素に規定されていることは、科学的知識が客観的妥当性を有さないことを意味しない。事実的言明である前者から評価的言明である後者を導出することは、二つの異なる問いの混同に基づいている。私はむしろ、科学活動が多分に社会的・慣習的要素を含んでいるにも関わらずそれが可能であるという事実に、一種の神秘を見る。科学共同体の伝統を内在化した個人が、精神の自由な創造によって編み出した知が普遍性を持ち得るという一見パラドクシカルな事実に、自然と理性の神秘的な調和を見ることも十分可能であろう。
[1] もっとも、唐揚げに関しては私はレモンをかけたい派であるが。
[2] cf. Hoyningen-Huene, Paul, "Context of Discovery Versus Context of Justification and Thomas Kuhn" in Revisiting Discovery and Justification: Historical and Philosophical Perspectives on the Context Distinction, eds. Jutta Schickore and Friedrich Steinle. Springer, 2006.
科学社会学周辺の論者が何らかの形の相対主義に走りやすいのは、科学活動が様々な制度的要素に規定されているという「形式」の側面にばかり目を奪われて、科学の「内容」を見ようとしないからだと思われる。一般的に言って、ある現象のメタ・レベルからの特徴付けは、グラウンド・レベルにおける当該現象の理解可能性を損なってはならない。科学の内容を考量に入れれば、それは相対主義的解釈(社会構築主義など)とは相容れないことが分かるはずである。いわば、内容が形式を内側から破壊してしまうのである。さらに、科学社会学自身も科学の一つの分野であるから、科学的知識の妥当性を社会的文脈に対して相対化するというメタ視点からの条件付けは、その妥当性が相対化されるべき当の知識の妥当性を前提してしまっており、結局自己論駁に陥っている。
相対主義的解釈がこうした誤謬を犯すのは、発見の文脈と妥当性の文脈を混同しているからだと思われる。ただしここでいう「発見の文脈」と「妥当性の文脈」の区別は、論理実証主義者がよく持ち出す、context of discoveryとcontext of justificationの区別とは少々異なる。[2] 論理実証主義の発見/正当化の区別は、科学的探究に関する独自の理論を前提としている。すなわち、科学的探究にははっきりと同定できる「発見」のプロセスと「正当化」のプロセスがあり、前者には論理的・形式的に分析可能な構造はないが後者にはある、という理論である。こうした理論は、Thomas KuhnやN. R. Hansonら「新しい科学哲学」の興隆とともに廃れてしまった。しかし私の言う発見/妥当性の区別は、単なる抽象的な視点の違いであって、科学的探究のプロセスに関する独自の理論を含意しない。私の言う発見/妥当性の区別は、ある発見や理論について問われている問いの違いに過ぎない。つまり、「この理論はいかにして発見されたか」という事実に関する問いと、「この理論は正しいか」という評価的な問いとの間の区別である。「発見の文脈」と「妥当性の文脈」の区別にこれ以上の実質を持ち込む必要はない(「妥当性の文脈」と言い換えたのは、論理実証主義が想定する狭い意味での「正当化の文脈」から差別化するためである)。
さて、この区別に照らせば、相対主義の主張に反して、科学活動が制度的要素に規定されていることは、科学的知識が客観的妥当性を有さないことを意味しない。事実的言明である前者から評価的言明である後者を導出することは、二つの異なる問いの混同に基づいている。私はむしろ、科学活動が多分に社会的・慣習的要素を含んでいるにも関わらずそれが可能であるという事実に、一種の神秘を見る。科学共同体の伝統を内在化した個人が、精神の自由な創造によって編み出した知が普遍性を持ち得るという一見パラドクシカルな事実に、自然と理性の神秘的な調和を見ることも十分可能であろう。
[1] もっとも、唐揚げに関しては私はレモンをかけたい派であるが。
[2] cf. Hoyningen-Huene, Paul, "Context of Discovery Versus Context of Justification and Thomas Kuhn" in Revisiting Discovery and Justification: Historical and Philosophical Perspectives on the Context Distinction, eds. Jutta Schickore and Friedrich Steinle. Springer, 2006.
2013年7月8日月曜日
【メモ】 Ernst Cassirer: The Last Philosopher of Culture (Edward Skidelsky)
【第二章 マールブルク学派】 Natorp and the young Cassirer both rebelled against this [Cohen's] mathematical dogmatism; both tried, as we shall see in the next chapter, to extend the critical method to nonscientific experience. But they nonetheless viewed such experience as a mere "first stage" in the process of objectivization, culminating eventually in physics. Their sights remained fixed on the universal, intersubjective realm of science. The Marburg school thus never fully overcame what we identified in the last chapter as the alienation of scientific reason. Although it struggled mightily against the detachment of science from morality, it could not solve—indeed, it could hardly acknowledge—the more fundamental problem of its divorce from what Husserl was later to call the Lebenswelt—the world of life. (p.45)
Radicalism—as the career of Heidegger amply illustrates—is an ambiguous virtue. Revolutions in thought have an unhappy tendency to be realized in action. Cassirer's refusal, as he put it, to hurl his ideas into empty space, his effort to relate them to those of his Kantian precursors, was fundamentally an attempt to preserve a link with the civilization that his more original contemporaries were busily dismantling. (pp.48-49)
【第三章 新しい論理学】
"The analytic function of thought, with which all these logicians appear to be exclusively concerned, has indeed a good logical claim and practical significance. But we hold fast to the conviction to which Kant has given almost classic expression: 'Where the understanding has not previously united, it cannot dissolve.' Thus ... it is synthesis that is necessarily primary for the logical understanding of knowledge, and the analysis of meaning is required only as its pure corollary." (Paul Natorp, Die logischen Grundlagen der exakten Wissenschaften p.9)
Cassirer rejected both attitudes outlined above. He did not share Carnap's view of logic as the framework of all meaningful discourse. Neither did he view it [as Heidegger did] as something to be dissolved "in the turbulence of a more original questioning." His position represents a characteristic refusal to take sides in the debate between a narrow, scientistic rationalism and a virulent irrationalism. By recasting the new logic as transcendental logic, Cassirer was able to register both its achievement and limitation. (p.56)
The historical Kant regarded the concepts of Aristotelian formal logic as constituting an independent "form of thought" which must be "schematised in intuition" in order to yield the categories of transcendental logic. In the Marburg interpretation, this relationship is reversed. Kant may have used formal logic as a "clue" to transcendental logic, explains Cassirer, but this was done not "with the aim of basing the transcendental concepts on the formal ones, but conversely, with the aim of basing the latter on the former, and in that way yielding a more profound understanding of the ultimate ground of their validity." (Kant's Life and Thought p.173) In other words, formal logic is just an abstraction from transcendental logic, with no independent philosophical significance. This revision reflects what I described in the last chapter as the Marburg school's historicization of the transcedental subject. Kant's timeless "form of thought" is dissolved into the ongoing movement of scientific objectivization, which casts off, like dead skins, the structures of pure mathematics and logic. Cassirer's logic of objective knowledge is not to be regarded as founded on symbolic logic, then, but as revealing its true foundation. (p.58)
Science is always looking forward to future consummation; it is, to borrow Cassirer's favorite phrase from Leibniz, gros de l'avenir—pregnant with the future. We must therefore reject the binary view of scientific theories as either true or false. The movement of science is not from false to true but from less comprehensive to more comprehensive. (p.62)
From the standpoint of conventional formal logic, according to which all propositions are either true or false, they [Cassirer's passages] are almost unintelligible. But from Cassirer's standpoint, it is formal logic that ultimately renders unintelligible the dynamic process of scientific discovery. (pp.62-63)
His real objection is to Cohen's more fundamental philosophical claim that the relation "is a category only insofar as it is a function [関数]." And here Russell's calculus of relations comes to his assistance. It enables Cassirer to transfer priority from the specifically mathematical notion of function to the general logical notion of relation. The former now appears as a special case of the latter, with no uniquely "categorical" significance. The possibility of categorical yet nonetheless nonmathematical relations—and thus of nonmathematical objectivization—is opened up. (p.65)
【第四章 イロニーと悲劇の間で】
"for the genius one case counts for a thousand" (Goethe)
Particularly interesting, from our point of view, is a 1932 essay by the art historian Edgar Wind, a former doctoral student of Cassirer and a member of his intellectual circle. Although personally on good terms with Cassirer, Wind was critical, from an empiricist standpoint, of his philosophy of symbolic forms. His portrait of Goethe throws some light on their differences. Wind looks askance at the very thing Cassirer so admired in the poet—namely, his irony, his capacity to treat every interpretation of reality symbolically. Where Cassirer sees only breadth and flexibility of mind, Wind discerns a subtle form of evasion. "Goethe said of himself that he viewed everything symbolically. This is an admission that in his case imagination served to transform things into images, to divest them of their substantiality, enabling him to escape the claims they might have had on him as things." It was only by renouncing reality, with its harsh, conflicting demands, that Goethe was able to achieve his celebrated inner harmony. His entire career can be seen as "a flight from life to image." It is possible that Wind formulated these remarks with his former teacher in mind. They certainly apply as well to Cassirer as they do to Goethe. (p.86)
One of the very few persons who read it [Habilitationsschrift, Experiment and Metaphysics] was the late Ernst Cassirer, and I am sorry to say it made that amiable man extremely angry. In honour of his memory I must protest against the suggestion that we held the same view about the nature of symbols. My thesis was that symbols are "real" only to the extent in which they can be embodied in an experimentum crucis whose outcome is directly observable—in his view a deplorable lapse into "empiricism." (Edgar Wind, letter to the Times Literary Supplement)
Opposition to the positivist instrumentalization of science was, as we have seen, a central part of the program of Marburg neo-Kantianism and Substance and Function. But it was only later that Cassirer began to attack positivism and instrumentalism not simply as theories in the philosophy of science but as cultural and political phenomena. Like Warburg, he viewed them as expressions of the hubris of a civilization that has forgotten or suppressed its own mythical origins, thereby opening the door to their revival. Cassirer cites as an example the degeneration of Comtean positivism into a pseudoreligion, complete with priests and temples of science. And in The Myth of the State he shows how the instrumentalization of political reason, initially undertaken in a spirit of enlightenment, eventually gives rise to the myths of modern totalitarianism. Cassirer explicitly conceived his own philosophy as an antidote to the "forgetfulness" of positivism. Like the Warburg Library, it is an attempt on the part of reason at mnemosyne or recollection. It is based on the conviction that reason can understand and feel "at home" with itself only when it has succeeded in reconstructing its own ascent from the sphere of myth. (p.98)
【第五章 象徴形式の哲学】
For all his phenomenological flirtations, Cassirer remained faithful to Cohen and Natorp's conception of philosophy as "bound to the fact of science as this constitutes itself, and therewith to the whole of human culture." Philosophy has no empire of its own; it can do no more than clarify and draw together the tendencies implicit in the arts and sciences. It is, so to speak, the self-consciousness of culture. (p.102)
[Ernst's wife] Toni Cassirer's memoir contains the following revealing story. When Cassirer's son Heinz expressed a wish to study philosophy directly after leaving school, Cassirer demurred. "It was Ernst's unshakable opinion," adds Toni, "that philosophy should never stand isolated but should rather spring spontaneously from the study of other sciences." (Toni Cassirer, Mein Leben mit Ernst Cassirer p.134)
The mythical origins of human culture cannot be eliminated altogether, but they can be confined to what Warburg called "the distant shadowy realm of the explicit metaphor." The myths we need are the spiritualized ones of religion and the playful ones of art. These absorb, discipline, and refine the energies that would otherwise find expression in the brutally literal myths of totalitarian politics. (p.109)
Expressive phenomena are not to be viewed, insists Cassirer, as a "projection" of inner states onto a neutral physical substratum. On the contrary, it is this "neutral substratum" that is itself derivative, a product of scientific analysis. "We arrive at the data of mere sensation—such as light or dark, warm or cold, rough or smooth—only by setting away a fundamental stratum of perception, by doing away with it, so to speak, for a definite theoretical purpose. (...) This disregard is perfectly justified from the point of view of the purely theoretical intention, the intention of building an objective order of nature and apprehending its laws; but it cannot do away with the world of expressive phenomena as such." (The Philosophy of Symbolic Forms 3.37). Myth is therefore not, as commonly presented, a spiritualization of a neutral physical reality but a state prior to the very distinction between the spiritual and the physical. (...) All nature is imbued with spirit, yet spirit, by the same token, belongs entirely to nature. (p.116)
【第六章 論理実証主義】
"I would allow as 'a priori' in the strict sense, really only the thought of the 'unity of nature,' that is to say the lawfulness of experience in general (...): but how this thought is made specific in particular principles and presuppositions—this comes to light only in the progress of scientific experience." (Ernst Cassirer, letter to Schlick)
"This transition [from one form of physical theory to another] never means that the fundamental form absolutely disappears, and another absolutely new form arises in its place. The new form must contain the answers to questions proposed within the older form; this one feature establishes a logical connection between them, and points to a common forum of judgement to which both are subjected." (Substance and Function p.268)
"For a purely descriptive ethics that remains strictly within its own boundaries, there clearly exists no ground for such a rejection [of fanaticism]. In every age, fanaticism has not merely proved its power in human affairs, it has also been advocated and preached as an ideal; and today it is lauded on many sides almost as 'the' moral ideal per se. A moral philosophy that wishes to be nothing more than a science of factual moral evaluations, in their historical actuality and development, must therefore be content to record this fact alongside other facts." (The Philosophy of Symbolic Forms 3.xv)
"Cassirer trusts religious far more than scientific enlightenment as a counter-force to the violence of political myths—he relies on the confinement of myth within its own proper sphere, which was long ago achieved by monotheism."(Jürgen Habermas, The Liberating Power of Symbols p.26)
If we, the enlightened, are to prevail, we cannot shut ourselves up within the closed circle of reason. The formulas of science and economics are not enough. We must learn the language of unreason, the better to master and subdue it. (p.158)
Ritual denunciations of the "genetic fallacy" will convince only those who have already lost faith in tradition as a source of norms. (p.159)
【第七章 生の哲学】
Symbolism is not a dark glass separating us from reality as it is "in itself"; it is the medium within which any possible reality appears. There is, then, no conceivable extrasymbolic reality in contrast to which it can be denigrated as "artificial." Culture is not a garment thrown over the bareness of nature; it is our nature. The mask is the face, the face the mask. (pp.162-163)
[For Bergson, i]f we want the object itself, in all its concrete glory, we must do away with concepts and adopt the standpoint of pure intuition. This is the method of metaphysics, a science that—in a phrase pinpointing Cassirer's disagreement with Lebensphilosophie—"claims to dispense with symbols." (Henri Bergson, An Introduction to Metaphysics p.24) (p.166)
【第八章 ハイデガー】
Through the efforts of Scheler and and others, motifs from Bergson, Dilthey, and Nietzsche were translated into the rigorously "presuppositionless" idiom of Husserl—a process paralleling the transformation of positivism into logical positivism. Thus was born that strange monster: a rigorous irrationalism, a system against systems. This monster came to maturity in Heidegger's masterpiece, Being and Time. (pp.195-196)
Heidegger's philosophy—and this is of course a serious worry—contains nothing to rule out a fascist interpretation. But neither should it simply be identified with fascism or with any other political stance. Philosophical theories are not just sublimated ideologies; they have a dynamic of their own, cutting across ideological boundaries. (p.197)
The truth of a philosophical proposition is not dependent on its political implications. Whoever has philosophy at heart must treat its problems on their own terms, dealing as best he can, through irony, esotericism, or simple silence, with any unpalatable consequences. What he cannot do is change his metaphysics to suit his politics. I am therefore skeptical of recent attempts to revise the verdict of Davos in line with current political sensibilities. Many scholars, especially in Germany, regard Cassirer's rout and subsequent neglect as an injustice, a national disgrace, for which amends must now be made. "The question remains pertinent, indeed overdue," writes Enno Rudolph, "why so constructive and rigorous an anti-nihilistic critique of European modernity as that developed by Cassirer had to lose out, in German philosophy since Heidegger, to the destructive type of anti-modernism." Cassirer lost out not just in Germany, though, but all over Europe, and for reasons that are not just political but authentically philosophical. As we have seen, his vision of philosophy as the critique of culture gave way to the aprioristic conceptions of Wittgenstein and Husserl—a shift whose ultimate explanation lies in the First World War and the accompanying loss of faith in history. Lost faith is not easily recovered. We cannot just "go back" to Cassirer; we cannot pretend that the twentieth century didn't happen. (pp.218-219)
Analytic philosophy has withstood the influence of Heidegger, but only by transforming itself into a purely technical discipline, indifferent to questions of culture and politics. Russell was a free-thinking progressivist, Frege an anti-Semitic reactionary, yet they could converse with perfect amicability on the subject of symbolic logic. Whether this marks the advent of philosophy as "rigorous science" or its final descent into triviality is another question. Our contemporary situation is, then, a torn one. We are inheritors of two histories—the one political, in which liberalism triumphed over its fascist and communist rivals, the other philosophical, in which it lost out to the Existenzphilosophie of Heidegger and the technicism of the analytic tradition. Cassirer's liberalism was all of a piece; it was at once political, cultural, and philosophical. Such unity of vision is impossible for us. Our political principles find no support in our cultural tastes, religious beliefs, or metaphysical insights. We pay tribute to Cassirer, but Heidegger remains the secret master of our thought. (p.219)
【第九章 政治】
Cassirer's appeal lies in his promise to ground political liberalism in a broader vision of human culture. He epitomizes that attitude of mind—dispassionate, ironic, and optimistic—without which liberalism in the narrow [legal or economic] sense cannot hope to survive. (p.222)
Contemporary liberals are faced, whether they like it or not, with the unpromising task of erecting a philosophy of political hope on a foundation of cultural despair. (p.222)
His criticism of Rousseau is at the same time a criticism of the so-called German concept of freedom through the state. His own preference is for the Anglo-Saxon liberal conception of freedom from the state. Yet he avoids the utilitarianism usually associated with this conception, appealing instead to the idealist notions of "humanity" and "personality." Cassirer has, one might say, married a negative conception of political freedom to a positive conception of spiritual freedom. This union is not original; its prototype can be found in Leibniz, Kant, and Humboldt. But in an era when liberalism of any kind was viewed as an excrescence of the English commercial spirit, as a "philosophy of life from which German youth now turns with nausea, with wrath, with quite peculiar scorn," Cassirer's reminder of a distinctively German form of liberalism was apt and timely. (p.229)
We have inherited liberal political institutions from our past, but not the surrounding climate of ideas that once nourished them. Gone are the certainties of the Christian era; gone, too, the cultural optimism of the eighteenth and nineteenth centuries. Our predecessors believed that political liberty would lead not only to greater material prosperity but also to the spread of knowledge, the weakening of prejudice, and the flowering of the arts. Who would dare to assert that now? (p.236)
Under these conditions, liberalism has become a purely official creed, publicly upheld rather than deeply felt, the province of lawyers and academic specialists. Economists can explain the role of law in stimulating growth, but not the point of growth itself. Political philosophers elaborate theories of justice, yet have nothing to say about their historical or metaphysical foundations. The expansive vision of Humboldt, Tocqueville, and Acton has hardened into a set of peremptory legal claims, advanced in shrill, dogmatic tones or at the point of a gun. No wonder we look back with nostalgia to a liberal such as Cassirer, whose interests were not confined solely, or even principally, to politics but spanned the breadth of human civilization. His was a humane and happy dream, and even if it was only a dream, it casts a reproachful shadow on our present age. (pp.236-237)
2013年6月22日土曜日
マイケル・ポランニー『暗黙知の次元』について
以下の文章は、マイケル・ポランニー『暗黙知の次元』の読書会のために用意したレジュメである。担当箇所はpp.79-91。頁番号は、特に断りのない限り、全て高橋勇男訳(ちくま学芸文庫)のもの。
【背景―暗黙知的構造の拡張】
マイケル・ポランニーの「暗黙知」(tacit knowing; tacit knowledge) [1]と言えば、「言葉に表せない・明示化できない知識」だとよく説明される。もちろんこれは全く正しい。実際、本書の第一章は専ら暗黙知のこの側面の考察に割かれている。しかしそれは他方で暗黙知の一側面、認識論におけるその顕現に過ぎない。暗黙知概念そのものの射程はもっと広い。というのも、『暗黙知の次元』におけるポランニーの企ては、暗黙知的構造の及ぶ範囲を人間の認識・知覚から世界そのものへと広げることだからである。第一章では、人間の認識・知覚の暗黙知的構造が考察の対象であった。そこでポランニーは「内在化」(interiorization)、ないし「身体化」(in-dwelling)という概念を提示し、ある事物を近位項として機能させることによって、我々が自らの身体を世界の方へと開いていく様子を描いていた。この延長線上に第二章の存在論の議論がある。ここでポランニーは、職人の技を理解するという事例を挙げ、次の仮定を置く:「他のすべての暗黙知の事例においても、包括する行為の構造と、その行為の対象たる包括的存在の構造は、一致する」(p.63; 原文傍点)。この仮定は、暗黙知概念を認識・知覚の領域から存在論の領域へ拡張する上で、議論の鍵となるアイデアであるように思われるものの、正直言って非常に理解しづらい。具体的に言えば、ポランニーは一体どのような世界観に基づいてこのような仮定を置いているのか、いまいちピンと来ないのである。この問題は後で取り上げることにして、とりあえず長い前置きを終えて自分の担当箇所に移りたい。
【境界制御の原理】
第二章の前半でポランニーは、すべての生命現象を物理学と化学の法則によって説明しようとする生物学者を批判するという論脈で、「境界制御の原理」(the principle of marginal control)という概念を提示していた。システムの下位レベルの諸要素の振る舞いに境界条件を付与することによって、上位レベルに一定のパターンが出現するが、こうした境界条件の付与を「境界制御」と呼んでいるのである。そしてポランニーの主要論点は、具体的な境界制御の決め方、すなわち上位レベルの組織化原理は、下位レベルからは論理的に独立であり、したがって後者だけからは出現しえない、ということである(pp.79-80)。ポランニーは、下位レベルに存在しない組織化原理が上位レベルで出現するこうした過程を「創発」(emergence)と呼び、非生命からの生命の誕生にそのパラダイムを見ているのである(pp.78-79)。
【進化論の神学的書き換え】
アンリ・ベルクソンの「エラン・ヴィタール」(生命の跳躍)とも共鳴するこうした創発概念に基づき、ポランニーは、進化論の大胆な書き換えに着手する(p.82)。彼によれば、現行の進化論が前提とする自然淘汰説は、新種の個体群の出現は説明できても、新種の個体の出現を説明できない(p.83)。ある一個の人間の発生の系譜を太古の原形質まで遡って考えたとき、その発生の因果連鎖には、自然淘汰に欠かせない「逆境」(adversity)の要素が存在しない、と言うのである。議論が簡潔過ぎて決して分かりやすいとは言えないが、少なくともポランニーが考えている進化が、ランダムな突然変異と淘汰の積み重ねではないことは明らかであろう。彼からすれば、生物学の専門家たちが想定するこうした進化概念では、新奇性や自律性の出現を説明できないのである。ポランニーにとって進化とはむしろ、科学活動におけるのと全く同じような「発見」のプロセスなのである(pp.85-86)。これはおそらく、メタファーでも単なる擬人化でもなく、文字通り、意味獲得に関わる暗黙知的構造が、生命が誕生する原初の創発から、人間の認識・知覚に至るまで、貫いて伏在しているということなのだろう(ところでこの同一視こそが、私が上で挙げた問題に繋がる)。ここで、下位レベルの組織化原理が未決定のままに開いている境界条件を埋めるという跳躍的作用が、近位項から遠位項に向かって意味を見出す認識の運動に対応するのだろう(とはいえこの対応関係も本書の記述ではあまり明確とは言えない)。そして太古の原形質に始まるこの宇宙論スケールの進化のプロセスの頂点に位置するのが人間の知能、とりわけその道徳感覚である(p.86, pp.89-90)。これは露骨なほど明らかにキリスト教的な立場である。[2] 少々長くなるが、この点について参考になるので、ポランニーの主著『個人的知識』(Personal Knowledge)の結びの言葉を引いておこう:
非キリスト教徒の近代人にとって、このような記述を理解するのは容易ではないだろうし、共感することはほぼ不可能だろう。しかし、この壮大な形而上学が荒唐無稽に見えるとすれば、それは偏に、我々近代人が人間と自然を切り離して考える習慣に囚われているからだ、とポランニーなら言うかもしれない。そしてこの点が再び、私が冒頭に挙げた問題に繋がる。すなわち、いかなる世界観に基づいてポランニーは、認識論・知覚論の次元における暗黙知と、存在論の次元における創発とを同一視しているのか、という問題である。
【主体と客体の融即】
暗黙知と創発を巡るポランニーの議論を初めて読んだとき、私には非常に奇妙に感じられた(今読み返してもやはり奇妙である)。その理由は、彼が主体と客体の区別に無頓着であるからだと思われる。暗黙知を論じているのだから、当然、その「知」を所有しているのは誰なのか、という主体の問題が出てくる。人間の認識・知覚を論じている限り、主体性の在処ははっきりしている。すなわち個人である。しかし議論が創発に移り、暗黙知と創発が同一視された途端に、語られているのは誰の暗黙知なのか、訳が分からなくなる。私は以前、ポランニーを一種の観念論者として解釈していた。つまり、個人が所有する暗黙知の及ぶ範囲が、身体から、例えば歩き慣れた道といった境界事例を通して、究極的には世界全体とぴったり一致する、といったような描像である。しかしこのような解釈ではポランニーの記述を整合的に解釈することが難しいことに気付いた(例えば、生命誕生の瞬間には当然、それを認識する人間主体が存在しなかった)。そこで辿り着いたのが、ポランニーにとってはあらゆる生命(そして非生命?)が、視点や状況に応じて主体であったり客体であったりする、という一種の汎心論的見方である。暗黙知と創発の具体的な対応関係は相変わらず曖昧であるものの、少なくともこの解釈にはシンプルさの利点があるように思うが、如何だろう。ところで本節のタイトルに挙げた「融即」という言葉は、ポランニーに影響を与えたらしいフランスの社会哲学者・文化人類学者レヴィ=ブリュールに由来する。未開部族の観察から彼は、個人が自らの感情や動機を外界の事物と共感的に同一視する作用に注目し、これを「融即」(participation)と名付けたのである。[4] こうした関連から、ポランニーの暗黙知と創発の同一視が含意する主体と客体の問題を考えてみるのも興味深いかもしれない。
[1] tacit knowingもtacit knowledgeもともに「暗黙知」と訳されるため、邦訳ではこの区別が難しくなる。ポランニーが使うのは専らtacit knowingの方であるが、このことから、彼の暗黙知概念は動名詞であるから「知識」のことではない、と結論するのは早計である(実際このような主張をしばしば目にする)。というのも『暗黙知の次元』の冒頭で彼は次のように断っているからである:「私は“知る”(knowing)という言葉を常に、実践的な知識と理論的な知識(practical and theoretical knowledge)の両方を包含するものとして使う」(原著p.7; 高橋訳では文意が伝わりづらくなっているので、敢えて拙訳を用いた)。
[2] ポランニーはユダヤ人の家庭に生まれているものの、熱心なキリスト教徒である。1919年にはカトリックの洗礼を受けており、後年プロテスタントの立場に傾倒していったようである(William T. Scottによるポランニーの伝記Michael Polanyi: Scientist and Philosopherを参照)。また、『個人的知識』は英語圏ではキリスト教神学者への影響が絶大であり、ポランニー体系の研究や解説の多くがキリスト教神学の論脈においてなされているそうである。
[3] マイケル・ポランニー『個人的知識』(長尾史郎訳,ハーベスト社,1995年)。今手元に本がないので頁番号は不明。
[4] リュシアン・レヴィ=ブリュール『未開社会の思惟』(山田吉彦訳,岩波文庫,1991年)
【背景―暗黙知的構造の拡張】
マイケル・ポランニーの「暗黙知」(tacit knowing; tacit knowledge) [1]と言えば、「言葉に表せない・明示化できない知識」だとよく説明される。もちろんこれは全く正しい。実際、本書の第一章は専ら暗黙知のこの側面の考察に割かれている。しかしそれは他方で暗黙知の一側面、認識論におけるその顕現に過ぎない。暗黙知概念そのものの射程はもっと広い。というのも、『暗黙知の次元』におけるポランニーの企ては、暗黙知的構造の及ぶ範囲を人間の認識・知覚から世界そのものへと広げることだからである。第一章では、人間の認識・知覚の暗黙知的構造が考察の対象であった。そこでポランニーは「内在化」(interiorization)、ないし「身体化」(in-dwelling)という概念を提示し、ある事物を近位項として機能させることによって、我々が自らの身体を世界の方へと開いていく様子を描いていた。この延長線上に第二章の存在論の議論がある。ここでポランニーは、職人の技を理解するという事例を挙げ、次の仮定を置く:「他のすべての暗黙知の事例においても、包括する行為の構造と、その行為の対象たる包括的存在の構造は、一致する」(p.63; 原文傍点)。この仮定は、暗黙知概念を認識・知覚の領域から存在論の領域へ拡張する上で、議論の鍵となるアイデアであるように思われるものの、正直言って非常に理解しづらい。具体的に言えば、ポランニーは一体どのような世界観に基づいてこのような仮定を置いているのか、いまいちピンと来ないのである。この問題は後で取り上げることにして、とりあえず長い前置きを終えて自分の担当箇所に移りたい。
【境界制御の原理】
第二章の前半でポランニーは、すべての生命現象を物理学と化学の法則によって説明しようとする生物学者を批判するという論脈で、「境界制御の原理」(the principle of marginal control)という概念を提示していた。システムの下位レベルの諸要素の振る舞いに境界条件を付与することによって、上位レベルに一定のパターンが出現するが、こうした境界条件の付与を「境界制御」と呼んでいるのである。そしてポランニーの主要論点は、具体的な境界制御の決め方、すなわち上位レベルの組織化原理は、下位レベルからは論理的に独立であり、したがって後者だけからは出現しえない、ということである(pp.79-80)。ポランニーは、下位レベルに存在しない組織化原理が上位レベルで出現するこうした過程を「創発」(emergence)と呼び、非生命からの生命の誕生にそのパラダイムを見ているのである(pp.78-79)。
【進化論の神学的書き換え】
アンリ・ベルクソンの「エラン・ヴィタール」(生命の跳躍)とも共鳴するこうした創発概念に基づき、ポランニーは、進化論の大胆な書き換えに着手する(p.82)。彼によれば、現行の進化論が前提とする自然淘汰説は、新種の個体群の出現は説明できても、新種の個体の出現を説明できない(p.83)。ある一個の人間の発生の系譜を太古の原形質まで遡って考えたとき、その発生の因果連鎖には、自然淘汰に欠かせない「逆境」(adversity)の要素が存在しない、と言うのである。議論が簡潔過ぎて決して分かりやすいとは言えないが、少なくともポランニーが考えている進化が、ランダムな突然変異と淘汰の積み重ねではないことは明らかであろう。彼からすれば、生物学の専門家たちが想定するこうした進化概念では、新奇性や自律性の出現を説明できないのである。ポランニーにとって進化とはむしろ、科学活動におけるのと全く同じような「発見」のプロセスなのである(pp.85-86)。これはおそらく、メタファーでも単なる擬人化でもなく、文字通り、意味獲得に関わる暗黙知的構造が、生命が誕生する原初の創発から、人間の認識・知覚に至るまで、貫いて伏在しているということなのだろう(ところでこの同一視こそが、私が上で挙げた問題に繋がる)。ここで、下位レベルの組織化原理が未決定のままに開いている境界条件を埋めるという跳躍的作用が、近位項から遠位項に向かって意味を見出す認識の運動に対応するのだろう(とはいえこの対応関係も本書の記述ではあまり明確とは言えない)。そして太古の原形質に始まるこの宇宙論スケールの進化のプロセスの頂点に位置するのが人間の知能、とりわけその道徳感覚である(p.86, pp.89-90)。これは露骨なほど明らかにキリスト教的な立場である。[2] 少々長くなるが、この点について参考になるので、ポランニーの主著『個人的知識』(Personal Knowledge)の結びの言葉を引いておこう:
われわれの知る限り、人間に体現されている宇宙の微小な諸断片は、可視的世界における思考と責任の唯一の中心である。もしそれが真実ならば、人間の心の出現は、いまのところ世界の覚醒の究極的な段階であり、それに先んじたすべての物事、生きることと信ずることのリスクを引き受けた無数の中心の格闘は、すべて、さまざまに異なる経路をとりながらも、現在、われわれがここまで達成している目標を追求してきたように思われる。それらは、すべてわれわれの血族である。というのは、これらすべての中心、すなわち、われわれ自身の存在をもたらし、その多くがすでに消滅した異なる経路を生み出した、無数に多くの他の中心の存在をもたらした、すべての中心は、究極的な解放に向かっての同一の努力に従事しているように見えるからである。われわれは、そこで、ひとつの宇宙の場を、短命で限定され危険に満ちた機会を各中心に与えて、それらが考えもおよばない完成に向かって前進するようにと命じた、ひとつの宇宙の場を思い浮かべてもよいかもしれない。そして、それはまた、——私はそう信ずるが——キリスト教徒が神を礼拝するときの在り方でもあるのだ。[3]
非キリスト教徒の近代人にとって、このような記述を理解するのは容易ではないだろうし、共感することはほぼ不可能だろう。しかし、この壮大な形而上学が荒唐無稽に見えるとすれば、それは偏に、我々近代人が人間と自然を切り離して考える習慣に囚われているからだ、とポランニーなら言うかもしれない。そしてこの点が再び、私が冒頭に挙げた問題に繋がる。すなわち、いかなる世界観に基づいてポランニーは、認識論・知覚論の次元における暗黙知と、存在論の次元における創発とを同一視しているのか、という問題である。
【主体と客体の融即】
暗黙知と創発を巡るポランニーの議論を初めて読んだとき、私には非常に奇妙に感じられた(今読み返してもやはり奇妙である)。その理由は、彼が主体と客体の区別に無頓着であるからだと思われる。暗黙知を論じているのだから、当然、その「知」を所有しているのは誰なのか、という主体の問題が出てくる。人間の認識・知覚を論じている限り、主体性の在処ははっきりしている。すなわち個人である。しかし議論が創発に移り、暗黙知と創発が同一視された途端に、語られているのは誰の暗黙知なのか、訳が分からなくなる。私は以前、ポランニーを一種の観念論者として解釈していた。つまり、個人が所有する暗黙知の及ぶ範囲が、身体から、例えば歩き慣れた道といった境界事例を通して、究極的には世界全体とぴったり一致する、といったような描像である。しかしこのような解釈ではポランニーの記述を整合的に解釈することが難しいことに気付いた(例えば、生命誕生の瞬間には当然、それを認識する人間主体が存在しなかった)。そこで辿り着いたのが、ポランニーにとってはあらゆる生命(そして非生命?)が、視点や状況に応じて主体であったり客体であったりする、という一種の汎心論的見方である。暗黙知と創発の具体的な対応関係は相変わらず曖昧であるものの、少なくともこの解釈にはシンプルさの利点があるように思うが、如何だろう。ところで本節のタイトルに挙げた「融即」という言葉は、ポランニーに影響を与えたらしいフランスの社会哲学者・文化人類学者レヴィ=ブリュールに由来する。未開部族の観察から彼は、個人が自らの感情や動機を外界の事物と共感的に同一視する作用に注目し、これを「融即」(participation)と名付けたのである。[4] こうした関連から、ポランニーの暗黙知と創発の同一視が含意する主体と客体の問題を考えてみるのも興味深いかもしれない。
[1] tacit knowingもtacit knowledgeもともに「暗黙知」と訳されるため、邦訳ではこの区別が難しくなる。ポランニーが使うのは専らtacit knowingの方であるが、このことから、彼の暗黙知概念は動名詞であるから「知識」のことではない、と結論するのは早計である(実際このような主張をしばしば目にする)。というのも『暗黙知の次元』の冒頭で彼は次のように断っているからである:「私は“知る”(knowing)という言葉を常に、実践的な知識と理論的な知識(practical and theoretical knowledge)の両方を包含するものとして使う」(原著p.7; 高橋訳では文意が伝わりづらくなっているので、敢えて拙訳を用いた)。
[2] ポランニーはユダヤ人の家庭に生まれているものの、熱心なキリスト教徒である。1919年にはカトリックの洗礼を受けており、後年プロテスタントの立場に傾倒していったようである(William T. Scottによるポランニーの伝記Michael Polanyi: Scientist and Philosopherを参照)。また、『個人的知識』は英語圏ではキリスト教神学者への影響が絶大であり、ポランニー体系の研究や解説の多くがキリスト教神学の論脈においてなされているそうである。
[3] マイケル・ポランニー『個人的知識』(長尾史郎訳,ハーベスト社,1995年)。今手元に本がないので頁番号は不明。
[4] リュシアン・レヴィ=ブリュール『未開社会の思惟』(山田吉彦訳,岩波文庫,1991年)
2013年4月22日月曜日
【メモ】 Christopher Hookway, Peirce (The Arguments of the Philosophers)
【真理と探究】
[Peirce] claims that a sensation of tone, for example, can be seen as a kind of hypothetic inference; the idea is that through unconscious inference, a sequence of distinct vibrations of the eardrum are unified into a single experience, the sensation unifying a manifold of vibrations just as a hypothesis unifies a variety of data. This suggestion that we think of sensations as analogous to predicates is supported by rejecting the nominalist assumption that sensations are wholly singular representations. If an image or representation is wholly singular, Peirce believes that for any property p, the situation represented would either be represented as one in which p was realized or as one in which it was not. The state of affairs would be determinate. The 'generality' of sensory images is revealed in their vagueness: for example, we can see a speckled surface without seeing it as having a definite number of speckles; our sensation is applicable to a variety of distinct states of affairs so is implicitly general. (pp.34-35)
"And what do we mean by the real? It is a conception which we must first have had when we discovered that there was an unreal, an illusion; that is, when we first corrected ourselves. Now the distinction for which alone this fact logically called, was between an ens relative to private inward determinations, to the negations belonging to idiosyncrasy, and an ens such as would stand in the long run. The real, then, is that which, sooner or later, information and reasoning would finally result in, and which is therefore independent of the vagaries of me and you. Thus, the very origin of the conception of reality shows that this conception essentially involves the notion of a COMMUNITY, without definite limits, and capable of a definite increase of knowledge." (C. S. Peirce, "Some Consequences of Four Incapacities," Collected Papers 5.311)
Adoption of any method of fixing belief presupposes that one finds it unsatisfactory that one's beliefs are inconsistent: if the predictions based upon my theories clash with experience, I am prompted to reassess my theories. One explanation of why we find inconsistent beliefs unsatisfactory is that they cannot all be true; 'but here already is a vague concession that there is some one thing to which a proposition should conform'. Unless I accept the realist hypothesis, it is unclear what motivation I have for removing inconsistencies or doubting what clashes with experience. (...) The general strategy, I hope, is clear: starting from a characterization of the aim of inquiry as the settlement or fixation of belief, Peirce hopes to derive a statement of the 'propositions of the logical question' from a consideration of how certain methods of inquiry simply cannot be adopted. Simply asking 'How should I conduct my inquiries?' reveals my acceptance of propositions which help me to answer the question. (p.49)
Peirce distinguishes the acritical elements of our practice - those which cannot be subjected to logical criticism - from those which are subject to logical criticism. The importance of these acritical elements becomes clear when we notice that a rough paraphrase of Peirce's theory of truth would be that a statement is true if and only if none of its perceptual consequences clash with experience. The notions of 'consequence' and 'clash with experience' seem to be used in formulating the doctrine. If consequence is to be explained in terms of the preservation of truth [演繹的推論の帰結のこと] and if a statement clashes with experience if its known to be perceptually false, then the presence of these notions in the definition introduces circularity. The circularity seems particularly acute when we note that Peirce allows that our perceptual beliefs are fallible, and may be corrected in light of subsequent experience. (...) However, we should note here that he claims that both perceptual judgements and deductive reasoning are acritical, i.e. we cannot control the ways that we conduct them. Our logical self-control is restricted to assessing our practices of ampliative reasoning - induction and abduction. Thus, in controlling our practice of reasoning, we employ rules that attempt to find hypotheses which make coherent sense of our experience, while respecting the criteria of coherence embodied in our practice of deductive reasoning. (p.71)
→ もし真理が、経験との衝突がないことよって定式化され、また、知覚経験が真であったり偽であったりするならば、循環定義になってしまう。なぜなら、「真の知覚経験から導かれる言明は真である」、「偽の知覚経験から導かれる言明は偽である」といったような定式化は、真偽の概念を予め導入してしまっているからである。この困難は、パースにおいては、知覚経験(知覚判断)をacriticalとすることによって回避されている。知覚経験(知覚判断)は前批判的であり、真であったり偽であったりしない。ただし、acriticalだからといって、incorrigibleではない。これはabuductionと同様である。パースにとって、acriticalな判断と統御可能な判断の差はグラデーションをなしており、我々が統御できるのは、reasoningの意識的な部分のみである。
【パースの"remarkable theorem"】
The best known systems of modern quantificational logic provide counterexamples tp Peirce's '[remarkable] thoerem'. Within these logics, we can define triadic predicates in terms of dyadic ones using axioms of the form
(Rxyz≡(x)(y)(z)(Ew)(Txw & Syw & Uzw))
For example, we might define a relation R which a bears to b and c just in case there is someone of a is the aunt, b is the brother and c is the father. (p.98)
→ しかしイギリスの論理学者A. D. Kempeなどの研究を通して、パースはこのような困難の存在を知っていった。パースは、このような困難が生じるような形式的言語の採用を峻拒する。
Peirce insists that 'the combination of concepts is always two at a time' (CP 1.294). He does not permit triple bonding. (p.99)
If we form a complex conception out of two conceptions of valencies μ and ν, by linking λ bonds of one with bonds of the other, the number of unsaturated bonds in the resulting complex conception is given by
(μ + ν - 2λ) (CP 3.484)
(...) The formula has its highest value when λ=1, and it is a simple matter to verify that
(μ + ν - 2)
can equal three or more only when either μ or ν is equal to at least three. Hence, so long as all our devices for forming complex conceptions fit this rule, it is not possible to reduce triadic relations to dyadic ones. However, tetradic relations can be reduced to complexes of triadic ones, for
(3 + 3 - 2) = 4. [右辺が左辺に還元される]
And in fact, all tetradic relations can be represented as constructed in this manner. (pp.99-100)
Now we have two options. We can dismiss Peirce's result as a quirky feature of an eccentric logic which has no philosophical interest, or we can accept that the restrictions that he places upon acceptable definitions are natural and well motivated, in which case the familiar counter-examples to his theorem can be discounted. (p.100)
→ 後者の選択肢を取るとして、パースがその使用を擁護するような言語に着目の対象を限定する十分な根拠を提示するには、どうすればいいか。
One possibility would be to argue that the reduction of triadic predicates to dyadic ones effected by using triple bonding is not genuine. If it could be shown that we could reduce a triadic predicate to a combination of dyadic ones by using a conception which had to be thought of as triadic, or even tetradic, the reduction would be of little interest. For example when we define the triadic relation R in terms of the three dyadic relations T, S, and U, we have to think of R as standing in the tetradic relation of 'resulting-by-triple-bonding' from T, U, and S. Hence, the definitional procedure does not show that tetradic [or triadic] relations are dispensible. On the other hand, if we think of a relation resulting by double bonding from two other relations we only have to use a triadic relation: the concepts we use in effecting the reduction are not at odds with the reductive claims that are made. Thus, the Peircean logic employs only those definitional resources that can be used in a genuine reduction of the valency of relations. This thought has some intuitive appeal, but it is difficult to find a clear sense in which (for example) a triadic or tetradic conception is exercised in the use of a statement like our axiom for the triadic relation R in the notation of familiar first order logic. (p.100)
→ もう一つの可能性は、認知の理論に訴えることである。例えば、ある二項関係Rを表象する記号Sがあるとすると、ここでの関係の結合は、必ずdouble bondingになる。これが、知覚活動を扱う限りにおいて、概念の結合をdouble bondingに限定する根拠になりうる。しかしこの場合、パースの定理の普遍性が損なわれるように思われる。
【カテゴリー論】
For the Wittgensteinian, our ability to speak for all [i.e., in a 'universal voice'] in mapping the grammar of our language is something we cannot justify, it marks a point where rational justification has come to an end. Yet, as Cavell notes [in "Aesthetic Problems in Modern Philosophy"], our ability to speak for all in this way is a necessary condition of our being able to speak at all. Similarly, for Peirce, we demand the right to go by what we find ourselves wanting to say in phenomenological inquiry; we cannot justify our claim that our 'intuitions' have universal validity. But unless they could do so, common language and the rational control of deliberation would not be possible at all. (p.110)
"In point of fact, a syllogism in Barbara virtually takes place when we irritate the foot of a decapitated frog. The connection between the afferent and efferent nerve, whatever it may be, constitutes a nervous habit, a rule of action, which is the physiological analogue of the major premiss. The disturbance of the ganglionic equilibrium, owing to the irritation, is the physiological form of that which, psychologically considered, is a sensation; and, logically considered, is the occurrence of a case. The explosion through the efferent nerve is the physiological form of that which psychologically is a volition, and logically the inference of a result." (CP 2.711)
【知覚論】
Central to Peirce's response to these difficulties [上記の真理の定義の循環性のこと] is the claim that the fundamental form of reference to existing objects involves the use of demonstrative expressions, indicies, in perceptual judgments. Subsequent inquiry may lead us to revise our conception of the object of a given perceptual judgment, but this subsequent inquiry is still anchored to reality through that perception. (p.154) → 指示対象の保存。バスカーの言う知識のintransitive dimensionに対応?
"Abductive inference shades into perceptual judgment without any sharp line of demarcation between them; or, in other words, our first premises, the perceptual judgments, are to be regarded as an extreme case of abductive inferences, from which they differ in being absolutely beyond criticism. The abductive suggestion comes to us like a flash. It is an act of insight, although extremely fallible insight. It is true that the different elements of the hypothesis were in our minds before; but it is the idea of putting together what we had never before dreamed of putting together which flashes the new suggestion before our contemplation." (CP 5.181)
"When you look at it you seem to be looking at the stairs from above. You cannot conceive it otherwise. Continue to gaze at it, and after two or three minutes the back wall of the stairs will jump forward and you will now be looking at the under side of them from below, and again cannot see the figure otherwise. After a shorter interval, the upper wall, which is now nearer to you, will spring back, and you will again be looking from above. These changes will take place more and more rapidly, the aspect from above always lasting longer, until at length, you will find you can at will make it look either way." (CP 7.647)
"The perceptive judgment, and the percept itself, seems to keep shifting from one general aspect to the other and back again" (CP 5.183). These phenomena, Peirce claims, function as the "true connecting links between abductions and perceptions" (CP 5.183). → かくしてパースは知覚と知覚判断の二元論を解消する。一般的なアスペクトを切り換えるごとに、階段の「見た目」が変わるということは、一般性が知覚そのものに潜んでおり、知覚判断だけが変わっているわけではないことを示している。知覚にも解釈が常に混入しており、abductionと同様incorrigibleではない。しかし同時に、知覚(知覚判断)はacriticalである。知覚のこのacriticalな部分を指してパースはpercipuumと呼ぶ: "The percipuum, then, is what forces itself upon your acknowledgment, without any why or wherefore, so that if anybody asks you why you should regard it as appearing so and so, all you can say is, 'I can't help it. That is how I see it.'" (CP 7.643) percipuumを捉えることはacritical abductionである。パースは、acriticalとcontrollableの間のケースを例示することによって、その差がグラデーションをなしていることを論証している。そして、知覚のacriticalな部分(percipuum)とclashしないように信念体系を調整するのが科学的推論の役割ということになる。したがって、clash with experienceに訴える真理定義は、循環を含まない。また、そもそも信念を改訂することができるのは、indexが個物を指示しており、指示対象は信念改訂の前後を通して保存されているため。
Talk of the percipuum - fusing the percept and perceptual judgement into a whole - is an attempt, I suggest, to prevent those problems [もし知覚判断には一般性が関わっており、知覚そのものには一般性が含まれていないのだとしたら、我々がただ好き勝手に実在に対して一般的概念を宛がっているという唯名論が帰結してしまう、という問題。この場合、三性は実在ではなく我々の認知活動に属することになる] arising by rejecting an oversimple dichotomy of cognitive processes. If we can prescind the firstness of our perceptual experience from the rest (or prescind its secondness), it does not follow that we can find distinct cognitive processes: the percept-perceptual judgement distinction reflects imposing a crude cognitive model on the phenomenologically rich complex of the sensory and the conceptual which is the 'given' of perceptual experience. Thirdness is given in the percipuum, it is perceptually experienced. Our acritical judgements report what we see; they involve general classifications; and our reports of shifts in general aspect show that there are sensory manifestations of thirdness in the percipuum. (p.166)
"being at all is being in general." (CP 5.349; 3.93n)
if the specimens form a kind or natural class, they will vary continuously along some dimension. (p.175)
→ 普遍者(一般的なクラス)と連続性との関連。よく分からない。
【帰納とアブダクション】
"By saying that we draw the inference provisionally, I mean that we do not hold that we have reached any assigned degree of approximation as yet, but only hold that if our experience be indefinitely extended, and if every fact of whatever nature, as fast as it presents itself, be duly applied, according to the inductive method, in correcting the inferred ratio, then our approximation will become indefinitely close in the long run; that is to say, close to the experience to come (not merely close by the exhaustion of a finite collection)" (CP 6.40) → 宇宙の片隅のunrepresentativeなサンプルであっても、その外側の(潜在的)宇宙に触れることさえできれば、推論は訂正されるし、触れなければ、それは十分長期ではない、ということになる。
"The procedure described may be called the method of anticipation; in choosing h(n) as our posit, we anticipate the case where n is the "place of convergence." It may be that by this anticipation we obtain a false value; we know, however, that a continued anticipation must lead to the true value, if there is a limit at all." (Hans Reichenbach, Experience and Prediction p.353)
→ n個の集団の中からある性質Aを持った個体がm個観測されたとする。このとき、性質Aを持った個体の比率を表すためにm/n = h(n)と置く。ライヘンバッハの言う"principle of induction"によれば、母集団の個体数をnからsに増やしたとすれば、h(s)はh(n)近傍の小さな領域に収まることを我々は期待するはずである。もし大きく外れれば、今後h(s)の近傍に収まることを期待する(信念改訂)。あるfrequencyが常に維持されるという、確実な根拠はもちろんない(ライヘンバッハはこれを"blind posit"と呼んでいる)。しかし、確率の頻度説の性質より、もしm/nが性質Aを持った個体全体の割合を表しているならば、取る母集団のサイズを大きくすればするほど、任意のεに対して、観測されるA個体の割合とm/nの差がε以下に収まるような、母集団の選択sequenceが必ず存在する(sequenceが収束する)。この原理が成り立つためにはもちろん、統計的極限が予め存在していなければならない。
"the instances excluded from being subjects of reasoning would not be experienced in the full sense of the word, but would be among these latent individuals of which our conclusion does not pretend to speak." (CP 6.42)
"man has a certain Insight, not strong enough to be oftener right than wrong, but strong enough not to be overwhelmingly more often wrong than right, into the Thirdnesses, the general elements, of Nature. An Insight, I call it, because it is to be referred to the same general class of operations to which Perceptive Judgments belong. This Faculty is at the same time of the general nature of Instinct," (CP 5.173)
【プラグマティズム】
However, the interest of the [pragmatic] principle does not hinge upon a concern with useful methodological advice. Rather, the fact that this is good advice - if Peirce is correct - reveals important truths about meaning and reality. (p.235)
That there are truths about the actual world which will never be discovered [カエサルがルビコン川を渡るとき何回くしゃみしたかとか] need not conflict with Peirce's claim that rational inquirers are fated to reach a stable consensus on all questions about the nature of reality. Reality is the mode of being of laws and general principles. Peirce makes no corresponding claim about existence, which is the mode of being of individuals and states of affairs that involve them. (p.291n)
[Peirce] claims that a sensation of tone, for example, can be seen as a kind of hypothetic inference; the idea is that through unconscious inference, a sequence of distinct vibrations of the eardrum are unified into a single experience, the sensation unifying a manifold of vibrations just as a hypothesis unifies a variety of data. This suggestion that we think of sensations as analogous to predicates is supported by rejecting the nominalist assumption that sensations are wholly singular representations. If an image or representation is wholly singular, Peirce believes that for any property p, the situation represented would either be represented as one in which p was realized or as one in which it was not. The state of affairs would be determinate. The 'generality' of sensory images is revealed in their vagueness: for example, we can see a speckled surface without seeing it as having a definite number of speckles; our sensation is applicable to a variety of distinct states of affairs so is implicitly general. (pp.34-35)
"And what do we mean by the real? It is a conception which we must first have had when we discovered that there was an unreal, an illusion; that is, when we first corrected ourselves. Now the distinction for which alone this fact logically called, was between an ens relative to private inward determinations, to the negations belonging to idiosyncrasy, and an ens such as would stand in the long run. The real, then, is that which, sooner or later, information and reasoning would finally result in, and which is therefore independent of the vagaries of me and you. Thus, the very origin of the conception of reality shows that this conception essentially involves the notion of a COMMUNITY, without definite limits, and capable of a definite increase of knowledge." (C. S. Peirce, "Some Consequences of Four Incapacities," Collected Papers 5.311)
Adoption of any method of fixing belief presupposes that one finds it unsatisfactory that one's beliefs are inconsistent: if the predictions based upon my theories clash with experience, I am prompted to reassess my theories. One explanation of why we find inconsistent beliefs unsatisfactory is that they cannot all be true; 'but here already is a vague concession that there is some one thing to which a proposition should conform'. Unless I accept the realist hypothesis, it is unclear what motivation I have for removing inconsistencies or doubting what clashes with experience. (...) The general strategy, I hope, is clear: starting from a characterization of the aim of inquiry as the settlement or fixation of belief, Peirce hopes to derive a statement of the 'propositions of the logical question' from a consideration of how certain methods of inquiry simply cannot be adopted. Simply asking 'How should I conduct my inquiries?' reveals my acceptance of propositions which help me to answer the question. (p.49)
Peirce distinguishes the acritical elements of our practice - those which cannot be subjected to logical criticism - from those which are subject to logical criticism. The importance of these acritical elements becomes clear when we notice that a rough paraphrase of Peirce's theory of truth would be that a statement is true if and only if none of its perceptual consequences clash with experience. The notions of 'consequence' and 'clash with experience' seem to be used in formulating the doctrine. If consequence is to be explained in terms of the preservation of truth [演繹的推論の帰結のこと] and if a statement clashes with experience if its known to be perceptually false, then the presence of these notions in the definition introduces circularity. The circularity seems particularly acute when we note that Peirce allows that our perceptual beliefs are fallible, and may be corrected in light of subsequent experience. (...) However, we should note here that he claims that both perceptual judgements and deductive reasoning are acritical, i.e. we cannot control the ways that we conduct them. Our logical self-control is restricted to assessing our practices of ampliative reasoning - induction and abduction. Thus, in controlling our practice of reasoning, we employ rules that attempt to find hypotheses which make coherent sense of our experience, while respecting the criteria of coherence embodied in our practice of deductive reasoning. (p.71)
→ もし真理が、経験との衝突がないことよって定式化され、また、知覚経験が真であったり偽であったりするならば、循環定義になってしまう。なぜなら、「真の知覚経験から導かれる言明は真である」、「偽の知覚経験から導かれる言明は偽である」といったような定式化は、真偽の概念を予め導入してしまっているからである。この困難は、パースにおいては、知覚経験(知覚判断)をacriticalとすることによって回避されている。知覚経験(知覚判断)は前批判的であり、真であったり偽であったりしない。ただし、acriticalだからといって、incorrigibleではない。これはabuductionと同様である。パースにとって、acriticalな判断と統御可能な判断の差はグラデーションをなしており、我々が統御できるのは、reasoningの意識的な部分のみである。
【パースの"remarkable theorem"】
The best known systems of modern quantificational logic provide counterexamples tp Peirce's '[remarkable] thoerem'. Within these logics, we can define triadic predicates in terms of dyadic ones using axioms of the form
(Rxyz≡(x)(y)(z)(Ew)(Txw & Syw & Uzw))
For example, we might define a relation R which a bears to b and c just in case there is someone of a is the aunt, b is the brother and c is the father. (p.98)
→ しかしイギリスの論理学者A. D. Kempeなどの研究を通して、パースはこのような困難の存在を知っていった。パースは、このような困難が生じるような形式的言語の採用を峻拒する。
Peirce insists that 'the combination of concepts is always two at a time' (CP 1.294). He does not permit triple bonding. (p.99)
If we form a complex conception out of two conceptions of valencies μ and ν, by linking λ bonds of one with bonds of the other, the number of unsaturated bonds in the resulting complex conception is given by
(μ + ν - 2λ) (CP 3.484)
(...) The formula has its highest value when λ=1, and it is a simple matter to verify that
(μ + ν - 2)
can equal three or more only when either μ or ν is equal to at least three. Hence, so long as all our devices for forming complex conceptions fit this rule, it is not possible to reduce triadic relations to dyadic ones. However, tetradic relations can be reduced to complexes of triadic ones, for
(3 + 3 - 2) = 4. [右辺が左辺に還元される]
And in fact, all tetradic relations can be represented as constructed in this manner. (pp.99-100)
Now we have two options. We can dismiss Peirce's result as a quirky feature of an eccentric logic which has no philosophical interest, or we can accept that the restrictions that he places upon acceptable definitions are natural and well motivated, in which case the familiar counter-examples to his theorem can be discounted. (p.100)
→ 後者の選択肢を取るとして、パースがその使用を擁護するような言語に着目の対象を限定する十分な根拠を提示するには、どうすればいいか。
One possibility would be to argue that the reduction of triadic predicates to dyadic ones effected by using triple bonding is not genuine. If it could be shown that we could reduce a triadic predicate to a combination of dyadic ones by using a conception which had to be thought of as triadic, or even tetradic, the reduction would be of little interest. For example when we define the triadic relation R in terms of the three dyadic relations T, S, and U, we have to think of R as standing in the tetradic relation of 'resulting-by-triple-bonding' from T, U, and S. Hence, the definitional procedure does not show that tetradic [or triadic] relations are dispensible. On the other hand, if we think of a relation resulting by double bonding from two other relations we only have to use a triadic relation: the concepts we use in effecting the reduction are not at odds with the reductive claims that are made. Thus, the Peircean logic employs only those definitional resources that can be used in a genuine reduction of the valency of relations. This thought has some intuitive appeal, but it is difficult to find a clear sense in which (for example) a triadic or tetradic conception is exercised in the use of a statement like our axiom for the triadic relation R in the notation of familiar first order logic. (p.100)
→ もう一つの可能性は、認知の理論に訴えることである。例えば、ある二項関係Rを表象する記号Sがあるとすると、ここでの関係の結合は、必ずdouble bondingになる。これが、知覚活動を扱う限りにおいて、概念の結合をdouble bondingに限定する根拠になりうる。しかしこの場合、パースの定理の普遍性が損なわれるように思われる。
【カテゴリー論】
For the Wittgensteinian, our ability to speak for all [i.e., in a 'universal voice'] in mapping the grammar of our language is something we cannot justify, it marks a point where rational justification has come to an end. Yet, as Cavell notes [in "Aesthetic Problems in Modern Philosophy"], our ability to speak for all in this way is a necessary condition of our being able to speak at all. Similarly, for Peirce, we demand the right to go by what we find ourselves wanting to say in phenomenological inquiry; we cannot justify our claim that our 'intuitions' have universal validity. But unless they could do so, common language and the rational control of deliberation would not be possible at all. (p.110)
"In point of fact, a syllogism in Barbara virtually takes place when we irritate the foot of a decapitated frog. The connection between the afferent and efferent nerve, whatever it may be, constitutes a nervous habit, a rule of action, which is the physiological analogue of the major premiss. The disturbance of the ganglionic equilibrium, owing to the irritation, is the physiological form of that which, psychologically considered, is a sensation; and, logically considered, is the occurrence of a case. The explosion through the efferent nerve is the physiological form of that which psychologically is a volition, and logically the inference of a result." (CP 2.711)
【知覚論】
Central to Peirce's response to these difficulties [上記の真理の定義の循環性のこと] is the claim that the fundamental form of reference to existing objects involves the use of demonstrative expressions, indicies, in perceptual judgments. Subsequent inquiry may lead us to revise our conception of the object of a given perceptual judgment, but this subsequent inquiry is still anchored to reality through that perception. (p.154) → 指示対象の保存。バスカーの言う知識のintransitive dimensionに対応?
"Abductive inference shades into perceptual judgment without any sharp line of demarcation between them; or, in other words, our first premises, the perceptual judgments, are to be regarded as an extreme case of abductive inferences, from which they differ in being absolutely beyond criticism. The abductive suggestion comes to us like a flash. It is an act of insight, although extremely fallible insight. It is true that the different elements of the hypothesis were in our minds before; but it is the idea of putting together what we had never before dreamed of putting together which flashes the new suggestion before our contemplation." (CP 5.181)
"When you look at it you seem to be looking at the stairs from above. You cannot conceive it otherwise. Continue to gaze at it, and after two or three minutes the back wall of the stairs will jump forward and you will now be looking at the under side of them from below, and again cannot see the figure otherwise. After a shorter interval, the upper wall, which is now nearer to you, will spring back, and you will again be looking from above. These changes will take place more and more rapidly, the aspect from above always lasting longer, until at length, you will find you can at will make it look either way." (CP 7.647)
"The perceptive judgment, and the percept itself, seems to keep shifting from one general aspect to the other and back again" (CP 5.183). These phenomena, Peirce claims, function as the "true connecting links between abductions and perceptions" (CP 5.183). → かくしてパースは知覚と知覚判断の二元論を解消する。一般的なアスペクトを切り換えるごとに、階段の「見た目」が変わるということは、一般性が知覚そのものに潜んでおり、知覚判断だけが変わっているわけではないことを示している。知覚にも解釈が常に混入しており、abductionと同様incorrigibleではない。しかし同時に、知覚(知覚判断)はacriticalである。知覚のこのacriticalな部分を指してパースはpercipuumと呼ぶ: "The percipuum, then, is what forces itself upon your acknowledgment, without any why or wherefore, so that if anybody asks you why you should regard it as appearing so and so, all you can say is, 'I can't help it. That is how I see it.'" (CP 7.643) percipuumを捉えることはacritical abductionである。パースは、acriticalとcontrollableの間のケースを例示することによって、その差がグラデーションをなしていることを論証している。そして、知覚のacriticalな部分(percipuum)とclashしないように信念体系を調整するのが科学的推論の役割ということになる。したがって、clash with experienceに訴える真理定義は、循環を含まない。また、そもそも信念を改訂することができるのは、indexが個物を指示しており、指示対象は信念改訂の前後を通して保存されているため。
Talk of the percipuum - fusing the percept and perceptual judgement into a whole - is an attempt, I suggest, to prevent those problems [もし知覚判断には一般性が関わっており、知覚そのものには一般性が含まれていないのだとしたら、我々がただ好き勝手に実在に対して一般的概念を宛がっているという唯名論が帰結してしまう、という問題。この場合、三性は実在ではなく我々の認知活動に属することになる] arising by rejecting an oversimple dichotomy of cognitive processes. If we can prescind the firstness of our perceptual experience from the rest (or prescind its secondness), it does not follow that we can find distinct cognitive processes: the percept-perceptual judgement distinction reflects imposing a crude cognitive model on the phenomenologically rich complex of the sensory and the conceptual which is the 'given' of perceptual experience. Thirdness is given in the percipuum, it is perceptually experienced. Our acritical judgements report what we see; they involve general classifications; and our reports of shifts in general aspect show that there are sensory manifestations of thirdness in the percipuum. (p.166)
"being at all is being in general." (CP 5.349; 3.93n)
if the specimens form a kind or natural class, they will vary continuously along some dimension. (p.175)
→ 普遍者(一般的なクラス)と連続性との関連。よく分からない。
【帰納とアブダクション】
"By saying that we draw the inference provisionally, I mean that we do not hold that we have reached any assigned degree of approximation as yet, but only hold that if our experience be indefinitely extended, and if every fact of whatever nature, as fast as it presents itself, be duly applied, according to the inductive method, in correcting the inferred ratio, then our approximation will become indefinitely close in the long run; that is to say, close to the experience to come (not merely close by the exhaustion of a finite collection)" (CP 6.40) → 宇宙の片隅のunrepresentativeなサンプルであっても、その外側の(潜在的)宇宙に触れることさえできれば、推論は訂正されるし、触れなければ、それは十分長期ではない、ということになる。
"The procedure described may be called the method of anticipation; in choosing h(n) as our posit, we anticipate the case where n is the "place of convergence." It may be that by this anticipation we obtain a false value; we know, however, that a continued anticipation must lead to the true value, if there is a limit at all." (Hans Reichenbach, Experience and Prediction p.353)
→ n個の集団の中からある性質Aを持った個体がm個観測されたとする。このとき、性質Aを持った個体の比率を表すためにm/n = h(n)と置く。ライヘンバッハの言う"principle of induction"によれば、母集団の個体数をnからsに増やしたとすれば、h(s)はh(n)近傍の小さな領域に収まることを我々は期待するはずである。もし大きく外れれば、今後h(s)の近傍に収まることを期待する(信念改訂)。あるfrequencyが常に維持されるという、確実な根拠はもちろんない(ライヘンバッハはこれを"blind posit"と呼んでいる)。しかし、確率の頻度説の性質より、もしm/nが性質Aを持った個体全体の割合を表しているならば、取る母集団のサイズを大きくすればするほど、任意のεに対して、観測されるA個体の割合とm/nの差がε以下に収まるような、母集団の選択sequenceが必ず存在する(sequenceが収束する)。この原理が成り立つためにはもちろん、統計的極限が予め存在していなければならない。
"the instances excluded from being subjects of reasoning would not be experienced in the full sense of the word, but would be among these latent individuals of which our conclusion does not pretend to speak." (CP 6.42)
"man has a certain Insight, not strong enough to be oftener right than wrong, but strong enough not to be overwhelmingly more often wrong than right, into the Thirdnesses, the general elements, of Nature. An Insight, I call it, because it is to be referred to the same general class of operations to which Perceptive Judgments belong. This Faculty is at the same time of the general nature of Instinct," (CP 5.173)
【プラグマティズム】
However, the interest of the [pragmatic] principle does not hinge upon a concern with useful methodological advice. Rather, the fact that this is good advice - if Peirce is correct - reveals important truths about meaning and reality. (p.235)
That there are truths about the actual world which will never be discovered [カエサルがルビコン川を渡るとき何回くしゃみしたかとか] need not conflict with Peirce's claim that rational inquirers are fated to reach a stable consensus on all questions about the nature of reality. Reality is the mode of being of laws and general principles. Peirce makes no corresponding claim about existence, which is the mode of being of individuals and states of affairs that involve them. (p.291n)
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