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2013年6月22日土曜日

マイケル・ポランニー『暗黙知の次元』について

以下の文章は、マイケル・ポランニー『暗黙知の次元』の読書会のために用意したレジュメである。担当箇所はpp.79-91。頁番号は、特に断りのない限り、全て高橋勇男訳(ちくま学芸文庫)のもの。



【背景―暗黙知的構造の拡張】

マイケル・ポランニーの「暗黙知」(tacit knowing; tacit knowledge) [1]と言えば、「言葉に表せない・明示化できない知識」だとよく説明される。もちろんこれは全く正しい。実際、本書の第一章は専ら暗黙知のこの側面の考察に割かれている。しかしそれは他方で暗黙知の一側面、認識論におけるその顕現に過ぎない。暗黙知概念そのものの射程はもっと広い。というのも、『暗黙知の次元』におけるポランニーの企ては、暗黙知的構造の及ぶ範囲を人間の認識・知覚から世界そのものへと広げることだからである。第一章では、人間の認識・知覚の暗黙知的構造が考察の対象であった。そこでポランニーは「内在化」(interiorization)、ないし「身体化」(in-dwelling)という概念を提示し、ある事物を近位項として機能させることによって、我々が自らの身体を世界の方へと開いていく様子を描いていた。この延長線上に第二章の存在論の議論がある。ここでポランニーは、職人の技を理解するという事例を挙げ、次の仮定を置く:「他のすべての暗黙知の事例においても、包括する行為の構造と、その行為の対象たる包括的存在の構造は、一致する」(p.63; 原文傍点)。この仮定は、暗黙知概念を認識・知覚の領域から存在論の領域へ拡張する上で、議論の鍵となるアイデアであるように思われるものの、正直言って非常に理解しづらい。具体的に言えば、ポランニーは一体どのような世界観に基づいてこのような仮定を置いているのか、いまいちピンと来ないのである。この問題は後で取り上げることにして、とりあえず長い前置きを終えて自分の担当箇所に移りたい。

【境界制御の原理】

第二章の前半でポランニーは、すべての生命現象を物理学と化学の法則によって説明しようとする生物学者を批判するという論脈で、「境界制御の原理」(the principle of marginal control)という概念を提示していた。システムの下位レベルの諸要素の振る舞いに境界条件を付与することによって、上位レベルに一定のパターンが出現するが、こうした境界条件の付与を「境界制御」と呼んでいるのである。そしてポランニーの主要論点は、具体的な境界制御の決め方、すなわち上位レベルの組織化原理は、下位レベルからは論理的に独立であり、したがって後者だけからは出現しえない、ということである(pp.79-80)。ポランニーは、下位レベルに存在しない組織化原理が上位レベルで出現するこうした過程を「創発」(emergence)と呼び、非生命からの生命の誕生にそのパラダイムを見ているのである(pp.78-79)。

【進化論の神学的書き換え】

アンリ・ベルクソンの「エラン・ヴィタール」(生命の跳躍)とも共鳴するこうした創発概念に基づき、ポランニーは、進化論の大胆な書き換えに着手する(p.82)。彼によれば、現行の進化論が前提とする自然淘汰説は、新種の個体群の出現は説明できても、新種の個体の出現を説明できない(p.83)。ある一個の人間の発生の系譜を太古の原形質まで遡って考えたとき、その発生の因果連鎖には、自然淘汰に欠かせない「逆境」(adversity)の要素が存在しない、と言うのである。議論が簡潔過ぎて決して分かりやすいとは言えないが、少なくともポランニーが考えている進化が、ランダムな突然変異と淘汰の積み重ねではないことは明らかであろう。彼からすれば、生物学の専門家たちが想定するこうした進化概念では、新奇性や自律性の出現を説明できないのである。ポランニーにとって進化とはむしろ、科学活動におけるのと全く同じような「発見」のプロセスなのである(pp.85-86)。これはおそらく、メタファーでも単なる擬人化でもなく、文字通り、意味獲得に関わる暗黙知的構造が、生命が誕生する原初の創発から、人間の認識・知覚に至るまで、貫いて伏在しているということなのだろう(ところでこの同一視こそが、私が上で挙げた問題に繋がる)。ここで、下位レベルの組織化原理が未決定のままに開いている境界条件を埋めるという跳躍的作用が、近位項から遠位項に向かって意味を見出す認識の運動に対応するのだろう(とはいえこの対応関係も本書の記述ではあまり明確とは言えない)。そして太古の原形質に始まるこの宇宙論スケールの進化のプロセスの頂点に位置するのが人間の知能、とりわけその道徳感覚である(p.86, pp.89-90)。これは露骨なほど明らかにキリスト教的な立場である。[2] 少々長くなるが、この点について参考になるので、ポランニーの主著『個人的知識』(Personal Knowledge)の結びの言葉を引いておこう:

われわれの知る限り、人間に体現されている宇宙の微小な諸断片は、可視的世界における思考と責任の唯一の中心である。もしそれが真実ならば、人間の心の出現は、いまのところ世界の覚醒の究極的な段階であり、それに先んじたすべての物事、生きることと信ずることのリスクを引き受けた無数の中心の格闘は、すべて、さまざまに異なる経路をとりながらも、現在、われわれがここまで達成している目標を追求してきたように思われる。それらは、すべてわれわれの血族である。というのは、これらすべての中心、すなわち、われわれ自身の存在をもたらし、その多くがすでに消滅した異なる経路を生み出した、無数に多くの他の中心の存在をもたらした、すべての中心は、究極的な解放に向かっての同一の努力に従事しているように見えるからである。われわれは、そこで、ひとつの宇宙の場を、短命で限定され危険に満ちた機会を各中心に与えて、それらが考えもおよばない完成に向かって前進するようにと命じた、ひとつの宇宙の場を思い浮かべてもよいかもしれない。そして、それはまた、——私はそう信ずるが——キリスト教徒が神を礼拝するときの在り方でもあるのだ。[3]
 
非キリスト教徒の近代人にとって、このような記述を理解するのは容易ではないだろうし、共感することはほぼ不可能だろう。しかし、この壮大な形而上学が荒唐無稽に見えるとすれば、それは偏に、我々近代人が人間と自然を切り離して考える習慣に囚われているからだ、とポランニーなら言うかもしれない。そしてこの点が再び、私が冒頭に挙げた問題に繋がる。すなわち、いかなる世界観に基づいてポランニーは、認識論・知覚論の次元における暗黙知と、存在論の次元における創発とを同一視しているのか、という問題である。

 【主体と客体の融即】

暗黙知と創発を巡るポランニーの議論を初めて読んだとき、私には非常に奇妙に感じられた(今読み返してもやはり奇妙である)。その理由は、彼が主体と客体の区別に無頓着であるからだと思われる。暗黙を論じているのだから、当然、その「知」を所有しているのは誰なのか、という主体の問題が出てくる。人間の認識・知覚を論じている限り、主体性の在処ははっきりしている。すなわち個人である。しかし議論が創発に移り、暗黙知と創発が同一視された途端に、語られているのは誰の暗黙知なのか、訳が分からなくなる。私は以前、ポランニーを一種の観念論者として解釈していた。つまり、個人が所有する暗黙知の及ぶ範囲が、身体から、例えば歩き慣れた道といった境界事例を通して、究極的には世界全体とぴったり一致する、といったような描像である。しかしこのような解釈ではポランニーの記述を整合的に解釈することが難しいことに気付いた(例えば、生命誕生の瞬間には当然、それを認識する人間主体が存在しなかった)。そこで辿り着いたのが、ポランニーにとってはあらゆる生命(そして非生命?)が、視点や状況に応じて主体であったり客体であったりする、という一種の汎心論的見方である。暗黙知と創発の具体的な対応関係は相変わらず曖昧であるものの、少なくともこの解釈にはシンプルさの利点があるように思うが、如何だろう。ところで本節のタイトルに挙げた「融即」という言葉は、ポランニーに影響を与えたらしいフランスの社会哲学者・文化人類学者レヴィ=ブリュールに由来する。未開部族の観察から彼は、個人が自らの感情や動機を外界の事物と共感的に同一視する作用に注目し、これを「融即」(participation)と名付けたのである。[4] こうした関連から、ポランニーの暗黙知と創発の同一視が含意する主体と客体の問題を考えてみるのも興味深いかもしれない。



[1] tacit knowingもtacit knowledgeもともに「暗黙知」と訳されるため、邦訳ではこの区別が難しくなる。ポランニーが使うのは専らtacit knowingの方であるが、このことから、彼の暗黙知概念は動名詞であるから「知識」のことではない、と結論するのは早計である(実際このような主張をしばしば目にする)。というのも『暗黙知の次元』の冒頭で彼は次のように断っているからである:「私は“知る”(knowing)という言葉を常に、実践的な知識と理論的な知識(practical and theoretical knowledge)の両方を包含するものとして使う」(原著p.7; 高橋訳では文意が伝わりづらくなっているので、敢えて拙訳を用いた)。

[2] ポランニーはユダヤ人の家庭に生まれているものの、熱心なキリスト教徒である。1919年にはカトリックの洗礼を受けており、後年プロテスタントの立場に傾倒していったようである(William T. Scottによるポランニーの伝記Michael Polanyi: Scientist and Philosopherを参照)。また、『個人的知識』は英語圏ではキリスト教神学者への影響が絶大であり、ポランニー体系の研究や解説の多くがキリスト教神学の論脈においてなされているそうである。

[3] マイケル・ポランニー『個人的知識』(長尾史郎訳,ハーベスト社,1995年)。今手元に本がないので頁番号は不明。

[4] リュシアン・レヴィ=ブリュール『未開社会の思惟』(山田吉彦訳,岩波文庫,1991年)

2012年4月18日水曜日

金子邦彦、『生命とは何か : 複雑系生命科学へ』

以下の文章は、金子邦彦『生命とは何か―複雑系生命科学へ』の個人用まとめ書きである。



【第5章 複製系における情報の起源】

「まず、遺伝情報とは何かということをDNAやRNAなどの特定の分子にこだわらずに定義しなければならない。情報は当然ながら、いくつかの可能性のなかからの選択を意味する。……その意味で、とりうる細胞状態の選択を与えるのが、「情報を担う」分子の役割である。さらに「遺伝」情報であることを考えると、それは次世代に伝わっていかなければならない。」 (p.147) つまり、ある化学成分が遺伝情報を担うためには

(1) 細胞内のある成分が他の成分の振る舞いに強い影響を与えるというコントロール特性
(2) 分裂後の次世代の細胞に成分が伝わり、保持されるという保存特性

が要請されるが、これらがどうやって出現するのかというのが本章の問いになる。

少数コントロール

合成速度の異なる相互触媒系からなるプロト細胞を考える。速く増殖する分子Xとゆっくり増殖する分子Yという、触媒活性をもった二種類の分子種が互いに触媒するネットワークを形成しているとする。この両分子を含むプロト細胞が分裂するごとに分子Yの数が減っていくが、0になってしまうとプロト細胞は増殖能を失う。そこで、こうしたプロト細胞が増えていき、競合して淘汰されていく状況を考えると、残った細胞は、最低でも1個は分子Yを含んでいるはずである。こういう状態は分子数の時間発展から言えば稀な状態であるが、ゆらぎによって一旦そうした初期状態が達成されると、そのまれな初期状態が選択され維持される。こうして遺伝情報の要件である「状態の選択」と「その保持」が生まれる。

さて、 分子Yが構造変化を起こしてその活性を変化させたとする。すると、Yの活性の変化はプロト細胞の増殖に大きな影響を与える。他方、Xのようにたくさんある分子が構造変化を起こした場合を考える。細胞内にあるすべてのX分子が同じように活性を変える確率はほとんど0であろう。この構造変化はゆらぎからくるランダム事象であるから、ある分子は活性を高める方向に、別のものは低める方向に、という形で、平均としては活性の変化は小さくなるであろう。こうして、互いに触媒し合う分子では、数の少ない方がそのプロト細胞の性質に対して支配的な影響を持つ。このような「少数コントロール」の構造により、数の少ない方の分子が「遺伝情報」のためのコントロール特性を持つに至る。

力学系の言葉で言えば、変化の時間スケールが長い(つまりリャプノフ指数が0に近い)変数は、その初期の変化が長く残るので、その変数が他の変数に影響を与えている限り、それは他の変数に対するコントロールパラメータの役割を果たすようになる、という風に言える。

進化可能性について

このような、少数の部分が他をコントロールするという構図は、その少数の部分の変異が大きく影響するので、「進化可能性」をもたらす。少数分子が変異したプロト細胞の増殖速度はもとのとは異なってくるが、細胞のレベルの競合により、あまり増えられないプロト細胞は淘汰されるから、増殖能が高いものが残っていく。要するに少数分子が(良い方向に)変化したものは、その活性を維持し、さらには進化していく可能性がある。このメカニズムを利用して、この少数分子を保存する機構が進化してくるだろう。いったんこの少数分子が保持されるようになれば、今度はその分子に関係して作られる分子も残りやすくなるから、多くの反応がその少数分子に関係していくことになる。つまり、その少数分子に情報がコードされるようになる。そして今度は、その情報を利用してますます少数分子の保護機構が進化し、少数分子の保護と少数分子への情報コード化の共進化が起こる。かくして、今日的な意味での「遺伝情報」が実現し、代謝と遺伝情報の分離が完成する。

「細胞などの複製単位のなかでDNAが少数であるからこそ、自然選択が働き、遺伝情報が統計法則から守 られ、その細胞は進化可能性を持つ。」 (p.172) もし多数の情報分子が存在すれば、独立の変異が大数の法則によって均され、自然選択があまりかからなくなる。有害変異が集団に溜まってしまい、自己複製能は減衰するだろう。

一般的に生命の起源を考える場合、遺伝情報が先か複雑な代謝が先かという問題がある(本書で挙げられている例で言えば、M・アイゲン(Eigen)のハイパーサイクル理論が前者の代表であり、F・ダイソン(Dyson)のいいかげんな複製系(loose reproduction system) が後者の代表である)。金子氏によれば、前者の立場には安定性に関して問題があり、後者の立場では情報が明示できないという問題点があるが、本書で展開されている少数コントロールの原理はその両者の問題点を克服する解を提唱している。



【第7章 細胞分化と発生過程の安定性】

同一多様化理論」(Isologous Diversification Theory):同じ状態を持った細胞が、細胞内部の状態のダイナミクスによって、小さなゆらぎを増幅させ、異なった状態にいたり、その一方で細胞間の相互作用により互いの状態を安定化し、いくつかの離散的なタイプを形成する。

本章の主題は細胞分化であるが、この理論は細胞の分化に限られるものではない。一般に、その内部に非線形のダイナミクス(細胞の場合は触媒反応系)を持った複数のユニットがあれば、そのダイナミックスとユニット間の相互作用によって、各ユニットが同じ状態を維持するのが不安定になる(細胞の場合は、栄養の競合などによって)。その結果、各ユニットが分化して、異なる状態を持つようになる。

力学系の研究では、同一のユニットが互いに影響を及ぼし合うだけで、そこにカオスのように小さな差を増幅する運動があると、そのユニットは異なった位相で振動するグループに分かれる場合があることが、すでに明らかにされている。この現象をクラスター化と呼ぶ。



【第10章 表現型と遺伝子型の進化】

第7章で取り上げられた同一多様化理論が、本章では細胞ではなく個体に適用され、種分化の理論として展開される。さらに、長い時間スケールの増殖と淘汰、つまり進化に対して、この分化の意義を考える。

(1) 通常の種では、遺伝子型も表現型もある(比較的狭い)範囲で分布している。この種がある状況で強く相互作用するようになったとする(この原因は環境変動でも個体数密度の増加でも栄養の不足でもいい)。そこで第7章の機構で、表現型の分化が生じる。この段階では(ほぼ)同じ遺伝子型を持った個体が異なるタイプの表現型の2グループに分離している(この段階では各グループの子孫は親と同じグループになるわけではなく、表現型はあくまで相互作用によって分かれている。一方で、この段階ですでに2グループの表現型は十分離れており、互いの存在で互いを安定化するという「共生」関係にある)。

(2) 次に、遺伝子に変異が入っていき、淘汰がかかっていくとどうなるかを考える。遺伝子は表現型の変化の仕方を与えているので、それぞれのグループに応じて遺伝子がどう変化した方が増殖しやすいかというのは変わってくるであろう。例えば、グループAはある方向に、グループBは逆の方向に変異を起こした方が子孫を残しやすくなる。すると遺伝子にはランダムな変異が起こってもグループAその方向に、グループBは逆の方向に、ますますシフトしていくだろう。つまり、突然変異と淘汰を経て、表現型の違いが遺伝子型の差異に固定されていく。

(3) この結果、遺伝子型と表現型の1対1の対応関係が回復して、遺伝子型でも表現型でも異なる2種が分離する。

雑種不稔性

有性生殖を行う生物で、分離した種の定義は、2つのグループが交配してできる「雑種」が子孫を残せなくなる、というものである(これを雑種不稔性という)。2つのグループができ始めると、それぞれのグループは互いの作るニッチに特化して成長できる。この両者はその成長を行うように遺伝子型と表現型が適合している。これに対して中間のパラメータを持った個体はどちらの表現型をとってもこの両者に適わず、成熟条件に到達できなくなってしまう。つまり、この理論では交配のえり好みを仮定しなくても自然に 雑種は子孫を残せなくなる。ゆえに、この分化の過程を種分化と呼ぶことができるのである(なお、本章の理論は無性生殖にもあてはまる。このとき「種」と呼ばれるのは、表現型の状態が離散的に区別され、子孫はそれぞれの範囲で再帰的に生まれるような集団である)。

えり好みの進化

各グループは同じグループ内で交配していれば不稔でない子孫を作れるのだから、でたらめに交配しているのは明らかに無駄である。そこで、この段階で相手の表現型を見て交配するかどうかを決めるえり好みが進化してくるのは必然のなりゆきであろう。こうして、2種の分化はますます安定する。

異所的種分化について

しばしば種分化では場所が違うから分かれたという異所的種分化説明がなされる。確かに、異なる種が異なる場所に住んでいる例は非常に多いが、しかし場所が違うというのが種分化の「原因」かどうかはよくわからない。本章の理論では、2グループの空間的分離は、種分化の原因ではなく帰結である。子孫は親と同じ位置で生まれるから同じグループの個体は近くにいるケースが多いだろう。一方で交配は近くの個体とまず起こりやすいから、2グループの空間的分離に拍車がかかる。これは、環境条件が場所に対して全く一様な場合でも起こる空間的な分化である。

断続均衡進化説

本章の理論では、いったん相互作用が強くなって表現型の分化を起こす条件が満たされれば、そのあとは非常に速く種分化は進行する。相互作用の条件である環境や個体数の変化自体は連続的であって激変しなくても、それがある値になって条件を満たすと種分化は開始し急速に進む(あるパラメータになると分岐する力学系を想起されたい)。これは、S・J・グールド(Gould)とN・エルドリッジ(Eldredge)の断続均衡進化説の見方と一致する。

動的共固定化

本書で金子氏は、あるレベルでの違いが別のレベルでの違いに変換され、互いに強化され、固定される現象を動的共固定化(dynamic consolidation)と呼んでいる。これは本章の、表現型の分化が遺伝子の違いに固定されるケースだけでなく、第9章で説明された、細胞状態の分化の空間的パターンへの変換にも当てはまる。状態の分化が空間的なパターン(化学物質の濃度勾配)を作り、そのパターンがさらに状態の分化を強めるという正の相互フィードバックが働き、分化も形態形成も安定された。それによって各細胞は位置情報を持ち、安定したパターン形成が可能になった。また、第5章の遺伝機能を担う分子と代謝機能を担う分子の分離と固定化も動的共固定化のケースである。

最後に、表現型の可塑性と相互作用が遺伝的進化を促すという本章のような主張は、しばしばラマルク的な進化を導入しているようにみられがちであるが、本章で提案されている理論は、遺伝子型から表現型への1方向の流れを仮定した正統的ダーウィニズムの範囲内にある。



【第11章2節 ゆらぎによる応答】

一般に、生物は様々な環境に適応して生き延びる。細胞に関して言えば、外部の情報がシグナル伝達系を通して遺伝子発現系へと影響を与え、その発現パターンをスイッチさせてその環境で必要なタンパク質を作るようになる、と通常考えられている。しかし、バクテリアや微生物の実験において、生物はめったに起こらない環境や、これまで遭遇したことのないような環境条件に対してもそこそこ適応できることが見出されてきた。これほど多様な環境条件のすべてに対して、シグナル伝達系を用意しているとはなかなか想定しがたい(これは人工知能におけるフレーム問題と全く同じ問題だろう)。

細胞の化学変化は分子的なゆらぎから逃れられないが、遺伝子発現もその例外ではない。そこで、このノイズによって細胞の状態はアトラクターからずらされるが、それぞれのアトラクターごとに細胞の成長速度が異なるとすれば、成長速度の低いアトラクターからはノイズで容易に飛び出し、いったん成長速度の高いアトラクターに到達すれば、そのままそこに留まると予想される。言い換えれば、ノイズによって成長速度の大きいアトラクター、つまり環境に適応した遺伝子発現状態が選択される。シグナル伝達系がなくても適応が生じると予想されるのである(実際、本節で紹介されているように、大腸菌を用いた実験によって、細胞分裂以前に、つまり淘汰を経ることなく、適応したアトラクターの選択が起きることが確認されている)。

まとめると、まず細胞は、多くの環境に対しては成長とノイズ(いずれも細胞ならば常に成り立つ)によるアトラクター選択で対応し、そのうちしばしば出会う環境に対しては進化を通してその環境に即応できるようにシグナル伝達系を発展させてきた、と考えることができる。

「進化はすでにあるものをチューンアップさせるのには長けているけれど、そもそも生存できないものをよくしていくことはできない。」 (p.374)

これは本書の議論全体に当てはまる考え方だと思う。

2012年3月28日水曜日

【メモ】 津田一郎、『カオス的脳観 : 脳の新しいモデルをめざして』

「局所的な整合性と大局的な整合性の間に不整合が生じるときにフラストレートしたパターンが出現する。現在までの物理学で研究されてきた自己組織化過程は それを解消し論理階型を上げていく論理をその内部に持ってはいない。それに対して、生物のような情報系はそのような論理を自らの内部に構築しなければならないことが頻繁に起こる。」 (p.9)

「漸近的に3次元体積がゼロになり、2次元面上の運動より圧倒的に複雑になる運動は、2次元面がカントール集合のように重なった多様体の上の運動としてのみ理解される。多様体の厚み方向は無限個の面の断面が複雑なフラクタル構造を持つように埋め込まれ、0と1の間の次元を生み出す。」 (p.34)

「力学系のカオスは……圧縮できない無限列と圧縮可能な無限列との集合体である、ということができる。特に圧縮可能で周期的な無限列は、力学的に不安定であるので観測にはかからない。観測されるのは、圧縮できない非周期的な無限列と圧縮できる非周期的な無限列の有限部分である。」 (p.43)

「一般に2^n周期解と2^n+1周期解の近傍の様子は、見る尺度を変えてみれば等価であることがわかる。それぞれの周期解の近傍の様子を再帰的に決定する写像の関数が得られる。ちょうどカオスがでるところは、この繰り込みの操作の不動点に対応する。富田[和久]によれば、この操作はゲーデルの不完全性定理の証明の手続きとメタレベルで同型である。」 (p.44)

「アルゴリズム情報理論を使えば、不完全性、非決定性、ランダムネスはみな等価な概念としてとらえることができる。」 (p.47)

「知識体系に貯蔵されたなんらかのテンプレート(記憶の中に固定された知識やルール)との一致をみいだしたとき、我々は少なくとも問題の一部に秩序を発見したという。」 (p.52)

「初期状態の精度⊿Xと[力学系の]内的時間Tの間には、⊿XTAの不確定性関係が存在する。この不確定性関係が、初期条件と力学法則の従属関係を規定しているのである。このようにして、カオス力学系においては、初期条件を力学法則と独立には決めることができないのである。」 (p.57)

軌道に関する情報とは、二つの接近した軌道を分離して認識できるかどうかということである。このとき、
力学系の定常解が不動点や極限周期解(リミットサイクル)のような安定解である場合、情報は時間の進む方向に圧縮されていくことになる。観測者の間の情報の流れは位相空間の体積が縮む方向である。カオスのような軌道不安定性をもつものの場合、時間の進む方向と逆方向に情報は圧縮される。このことはカオスは情報を生み出すということの別の表現である。 (p.153)

「膨張宇宙の中では、時間の後に位置する世界にいる住人が常により分離された世界にいることになる。このことは、宇宙定数を我々は未来になればなるほど、細かい桁まで知るようになるということを意味する。これは観測技術の向上とは関係ないレベルの話である。むしろ宇宙定数自身の時間発展に関係する。観測技術が全く同じだとして、過去の宇宙に住んでいた人は、我々よりも粗っぽい数値しか認識できなかったであろう。これと関連して、現在、無理数と考えられている数は過去の宇宙においては、有理数であった可能性がある。もっと過去には整数であったろう。現在、計算不可能であると考えられている数も過去の宇宙では計算可能であったであろう。実数の存在は宇宙の膨張によって認識可能になったのだと考えることができるように思われる。すると、計算不可能性であるカオスは、遠い過去の宇宙では存在しなかったことになるのではないか。カオスは宇宙の進化と共に我々の前に現れたのではないだろうか。」 (pp.153-4)

「自己の確立は、反応拡散系で表現されるような自己組織過程を通じてなされるのではなく、情報的な自己言及過程を通じてなされる。」 (p.163)

「“解釈”ということが[脳の]研究プロセスにおいて、、物理学にみられるような第二義的な問題ではなく、まさに必須の第一義的な作業になるのである。この解釈の作業において、先行的理解になるのが[デビッド・]マーの言う計算論のレベルの考察である。つまり、“脳は何をしているのか”である。」 (p.194)

“動的脳観”の力学系の言葉による表現:
「自由度の大きな力学系がある。あるときは、ある部分的な自由度が活性化されそれが支配的になるが、またあるときは別の部分的な自由度が活性化されそれが支配的になる。このようなことが時空間の様々なスケールで起こりうる。そして、支配的になる自由度の再編成は、系(システム)の過去の全履歴に依存する。」 (p.202)

2012年2月12日日曜日

脳の研究における解釈学について

『ダイナミックな脳』での津田一郎氏の解釈学的行為の考え方について、ツイッターで、「相手が自分と類似した生命である場合とそうでない場合の違い(程度の差なのか、本質的な差なのか)についってもっと敷衍して欲しかった」と述べたが、再度読み込んでみて、彼が言わんとしていることをある程度汲み取れた気がするので、ここにまとめておきたい。

まず、「動物の知覚は解釈過程であらざるを得ない」ということについて。新しい感覚情報の知覚は必然的に何らかの先行的理解を要請する。これはハイエクが『感覚秩序』において展開している知覚論とそっくり重なる。すなわち、我々が何らかの対象を知覚するとき、我々が知覚しているのは自己同一的な実体としての対象そのものではなく、常にその対象が位置づけられる関係の構造(類似性、差異性)である。そして、こうした新しい情報を位置づけるための既存の文脈として先行的理解が要請される。そういう意味で、知覚とは常に解釈過程である。津田氏はハイデガーを引いて、次のように言う。すなわち、「何かを理解するために解釈が必要なのではなく、逆説的だが、解釈を行うために理解が必要なのである。」(p.20) ある神経細胞あるいは神経細胞集成体の果たす機能はシステム全体の文脈に依存してしか決定されないという津田氏の指摘は、この事態の生理学的レベルでの表現であろう。

ただ、津田氏の言う解釈学的行為はディルタイが定義したような解釈学とは異なる。ディルタイは自然科学的な方法に対抗して、生きていくものが従わなければならない歴史性を扱う人文社会科学の規範を与えようしたが、津田氏の言う解釈は、意味の共有といった次元の話ではなく、単にある状況へのコミットメントである。「解釈とは、コミットメントのことだ。なにかの状況にコミットする(参画する)ことそのものだといってよい。」(p.26) それは認知主体が環境に勝手に付与してかまわないし、またコミットメントの過程でそれが別段収束しなくてもいい。このコミットメントのためにこそ先行的理解が必要なのである。

さらに、この状況へのコミットメントの中にこそ、我々は何らかの意志、つまり生命の存在を見出すのではなかろうか。「意味の共有に向かって努力することが解釈学的行為ではない。むしろ、意志の存在の確認作業が解釈学的行為なのだ。」(p.29) しかしここに一つ問題が現れる。すなわち、知覚が物としての世界を扱う場合と、認知主体と類似した生命を扱う場合との間に、何らかの本質的な違いはあるのかという問題である。これが冒頭に掲げた問題である。この問題に関して津田氏は「不完全な情報」と「不定な情報」を区別している。不完全な情報は、解釈学的行為による補完によって完全な情報になり得る。つまりこの場合、知覚世界を客観的実在の世界と見なすことによって、解釈者の外に置かれている。静的な世界像を扱う限りこれで問題にならない。他方の不定な情報は、相手が生命であって、その行為を解釈しなければならないときに問題になる。つまり、この場合相手の行為に対する解釈に一意的な解は実在の側にそもそも存在しない(このような解釈はおそらくハイエクの言うような心的構造の類似性に基づいていて、したがって一人称的な内観を不可避にする。その意味で、解釈対象が生命である場合とそうでない場合の差は本質的であると言える。ただこれは明確な境界が存在するという意味ではない)。この事実を以て、郡司ペギオ幸夫氏らはあらゆる観測行為を「暗闇の中の跳躍」として徹底的な懐疑に付す。かくしてウィトゲンシュタインやクリプキの言う言語ゲームにすべての解釈が回収されてしまう。それに対して津田氏は、認知主体の外に客観的な世界が存在するという「先行的理解の第一原理」を、認知のための一種のア・プリオリな形式として設定する。「この第一原理に行為論のある種の本質を押し込めたつもりでいる」(p.22) 津田氏のこの態度は、世界の実在を内側からプラグマティックに肯定する私のプラグマティック実在論の態度に似ている。

蛇足になるが、物体の空間移動に対する連続性の概念およびその普遍性が、「先行的理解の第二原理」として保障される。「空間における物体の身体を使った変換に対して、視覚情報の中から不変な構造を抜き出す能力を脳は備えている。……この先行的理解が物理学の基礎になっているのかもしれないというポアンカレ氏の意見に賛同する。」(p.17) それ以外にも「自己中心座標と物体中心座標の間に変換が存在する」や「世界の境界は内部から見れば正曲率を持つ」といった、いくつかの基本先行的理解が要請される。これらの先行的理解は認知のための一種のア・プリオリな形式であるが、絶対的なものでは決してなく、あくまで幼児期の体験によって形成されるものと考えられる(それを引き起こすコードが遺伝子に組み込まれているということはあるだろうが)。

最後に、解釈の二重性について。これまで、「知覚は常に解釈過程であらざるを得ない」という事態を見てきた。これに加えて、脳研究の方法自体も解釈学を援用しなければらないと津田氏は主張する。つまり、研究対象に内在する解釈学的行為と、研究自体の方法としての解釈学的アプローチという二重性が主張される。しかし津田氏の著作を読む限り、この両者の関係(両者は独立なのか繋がっているのか)はあまり明らかではない。ただ、「全体、システムとして働くものものの機構を理解していく方法は解釈学的にならざるをえない」(p.54)、「相互作用する相手との関係の中でなければそのものの性質、表現、行為は決まらない……その関係の構築の裏打ちをしていると思われるのがカオスなのだ。関係的にダイナミックということだ。その関係性の境界は決定不能だという意味でもある。しかも、オットー・レスラー氏、松野孝一郎氏、郡司幸夫氏や池上高志氏に従えば、われわれはインターフェイスにおいてのみリアリティー、いや木村敏氏の言葉を使って、アクチュアリティーを感じることができる。これは、複雑なシステムの中でなにかをしなければならないもの全てが出会う必然だ。[原文改行]脳という複雑システムを研究する脳科学者は、こういう意味でまさに内在的な立場でしか研究を進めることができない。だから、脳研究は解釈学的にならざるをえないのだよ。」(p.54-55)という記述を見れば、解釈の二重性における両者は結びついているように見える。