2014年1月20日月曜日

分岐階型理論と還元公理についてのメモ

べ、別に論理学に興味があるわけじゃないんだからねっ!Stewart Shapiroの本で気になった箇所をまとめてみただけなんだから!

まずはフレーゲによる自然数の構成:

もしnが、0に対して成立しかつ後続の関係に関して閉じているすべての概念Fに対して成立するならば、nは自然数。すなわち

Nn≡∀F[F0∧∀d∀d'((Fd∧d' is a successor of d) ⇒ Fd') ⇒ Fn]

これをラッセルは集合の言葉に移植する:

もしnが、0を元として含みかつすべての元に対し後続する元をも含むようなすべての集合に含まれるならば、nは自然数。すなわち

Nn≡∀F[F∋0∧∀d∀d'((F∋d∧d' is a successor of d) ⇒ F∋d') ⇒ F∋n]

ただしここでFはtype 3の集合(なぜなら0はtype 2の数として定義され、異なる階型の要素を同じ集合の中に混ぜてはいけないから)。ラッセルのこの定義は、定義されるべき当の対象を元として含む集合への言及を含んでいるから、非可述的。ラッセル(とホワイトヘッド)は非可述的定義を受け容れないから、循環を回避するために彼らは階型をさらにorderに分ける。

type 1の集合が、もし集合への言及なしに定義可能であるならば、その集合はorder 0の集合で、「可述的集合」と呼ぶ
type 1の集合が、それ自身可述的ではないものの可述的集合への言及のみによって定義可能であるならば、その集合はorder 1。
type 1の集合が、それ自身order 1ではないもののorder 1の集合への言及のみによって定義可能であるならば、その集合はorder 2。

同様の階層分けがすべての階型に対して成り立つ。これがプリンキピアの分岐階型理論(ramified type theory)。この理論に従えば、先の自然数の定義における「すべての集合」というフレーズは、type 2の集合のあるorder内に限定しないといけない。すなわち、「もしnが、0を元として含みかつすべての元に対し後続する元をも含むようなすべての可述的集合に含まれるならば、nはtype 2 order 1の自然数」、「もしnが、0を元として含みかつすべての元に対し後続する元をも含むようなすべてのorder 1の集合に含まれるならば、nはtype 2 order 2の自然数」、という風に。

しかしこのように定義された各orderの自然数が同一の自然数である必然性がない。また、階層性の制約がいくつかの数学的手法の定義を不可能にするらしい(数学的帰納法とか)。この困難を解消するために、ラッセルとホワイトヘッドは還元公理(axiom of reducibility)を提案する。「すべての階型におけるすべての集合Cについて、Cと同じ要素を持つ可述的集合C'が存在する」というのが還元公理の主張。こうして自然数の定義における「すべての集合」を「すべての可述的集合」に限定し、階層性の制約を無視することができる。しかしこれが批判者らからアドホックの誹りを受けることになる。

2014年1月10日金曜日

【書評】 James Ladyman & Don Ross / Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized

Ladyman, James, Don Ross, et al. 2007. Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized. Oxford: Oxford University Press.

科学哲学者James Ladymanと、経済学や脳科学周辺で学際的な研究を行っているDon Rossらによる、Ontic Structural Realism (OSR)のマニフェスト的著書。第1、5章にはDavid Spurett、第4章にはJohn Collierがそれぞれ執筆に加わっている。

OSRとは、平たく言えば、「個物は存在せず、存在するのは関係(構造)だけである」という考え方である。これは一見突飛に聞こえるかもしれないが、OSRを支持するのには穏当な動機がある。それは、自然科学の成果を真摯に受け止め、形而上学の議論に取り入れなければならない、というものである。Ladymanらによれば、現代物理学が明らかにする世界像を真摯に受け止めるならば、従来の、自己同一的な個物の存在を議論の前提とする形而上学は保持できない。実際、哲学者の多くが、細かい粒子同士が衝突したり、相互作用したりすることによってマクロな物体が構成されていると信じているが、Ladymanらはそうした世界観を"microbangings"の世界観、そしてそれに基づく哲学を"philosophy of A-level chemistry"と呼んで揶揄している。

本書の第1章は、英米で現在主流の分析形而上学に対する痛烈な批判から始まっている。曰く、分析形而上学は「人類の知へ貢献することは何もなく」、その実践者は「才能を浪費している」(p.vii)。というのも、分析形而上学の論者たちは、表向きは「自然主義」を標榜していようと、専ら科学的にはありえない前提の中で議論を進めており、その成否如何を経験ではなく直観に頼っているからである。そんな営みはもはや「客観的真理の虚心な追求と見なすことはできず、廃止するべきである」(p.vii)。以前から分析形而上学に対して不信の念を抱いていた私にとって、Ladymanらの批判は実に的確に思われ、痛快だった。

第1章で破壊的な作業が終わった後、第2章以降で建設の作業が始まる。第2章は実在論論争を主軸にしたスタンダードな科学哲学的議論。Bas van Fraassenの構成的経験論を取り上げる辺りは正直ちょっとダルいが、全体の論旨は中々面白い。第3章以降は、形而上学というよりはもはや物理学の哲学といった様相を呈している。個々の論点をすべて追うのは大変だが、議論の大筋は非常に明快である(ただし、執筆陣が異なるためか、第4章を除く)。また、関連文献が豊富なのも嬉しい。

以下、本書を読んだ上での気になった点をいくつかまとめておきたい。

【形而上学の位置付け】

本書は、形而上学を自然化する試みであるから、形而上学をどういう風に捉えるかが議論の前提として重要である。Ladymanらは、形而上学を既成の各科学の成果を綜合する営み、つまりそれぞれの科学からは区別された自律的な活動と見なしている。しかし、自然主義の精神に照らせば、むしろW. V. O. Quineのように哲学と科学を識別不可能なものと捉えた方がいいのではないか、と私には思われる。またLadymanらは、科学と非科学、および各科学分野の境界を画定するための基準として、研究費が下りそうか否か、というのを採用している(p.33)が、これはかなり説得力を欠く。この二点は次のように関連している。すなわち、Ladymanらは形而上学を、各科学が一旦成立してから遅れてやってくる世話役のように捉えている。しかし科学史を振り返ってみれば、fruitfulな科学はむしろ形而上学的思弁と協働しているのが分かる(この歴史解釈には異論があるかもしれないが、私の読みはそうである)。そして各科学の境界も、こうした思弁の中で徐々に出来上がっていく。

一旦科学の成果が出揃うまで待てという制約は窮屈過ぎるように思われるし、哲学と科学との間に余計な弁別を導入している。これは、自然主義の精神に適っているとは言い難いのではないか。これがLadyman & Rossに対する私の最も大きな不満点である。すなわち、既存の科学を固定化しようとするモメントが強すぎるのである。

【Real Patternsについて】

Ladyman & RossのOSRにおいて不可欠な役割を担うのが、Real Patterns (RP)の理論である。RPと言えばもともと、哲学者Daniel Dennettが同名の論文の中で、人間の志向状態——「信じる」や「欲する」といった——の存在論的身分を明らかにするために粗描した理論である。[1] ただし、Dennettの理論は人間の志向状態に留まらず、存在者一般に関する理論であって、志向状態はその一例に過ぎない。そういう意味で、RPは一つの存在論である。Dennettの論文では必ずしも明確ではないものの、RPによれば、存在する一切のものは「パターン」である。[2] パターンとはデータの規則性である。あるデータにパターンが存在するためには、そのデータが圧縮可能でなければならない。例えば、0と1が交互に32回繰り返すデータは、「0と1を32回交互に繰り返せ」と命じるプログラムに圧縮可能である。他方で、0と1の全くランダムな羅列は、圧縮不可能である。つまり、前者にはパターンがあるが後者にはパターンがないのである。さて、パターンには、実在するパターン単なるパターンとがある、というのがDennettやLadyman & Rossの共通の主張である。しかし、DennettとLadyman & Rossとでは、あるパターンが実在するパターン、つまりRPであるための必要十分条件が異なる。以下、この点を敷衍してみたい。

まずDennettの定式化を見てみよう。

[A] pattern exists in some data—is real—if there is a description of the data that is more efficient than the bit map, whether or not anyone can concoct it. [3]

なお、ここで言われている「ビットマップ」とは、圧縮率0のデータ記述である。さて、ここで重要なのは、何を以てあるデータの記述を「効率的」(efficient)と見なすか、である。パターンの実在性の要件が問題になっているのであるから、効率性をデータの「圧縮率」と解すことはできない。というのも、効率性が単に圧縮率の問題であるなら、ノイズの混入を犠牲にいくらでも圧縮率を上げることができ、パターンが存在するか否かが客観的な事実ではなく記述者の都合のみによって決まることになってしまうからである。それではRPの要件として不適格である。ではDennettの考えはどうであろうか。彼はパターンがリアルであるための必要条件として、「成功する予測をもたらす」ことを考えているようである。RP論文の中で彼は、もしあるパターンに賭けることによって儲けることができるならば、そのパターンはリアルである、と述べている。したがって、先の定式化におけるデータ記述の「効率性」を、「予測が上手くいくこと」と解釈することによって、彼のRPの二つの(一見異なるように見える)特徴付けを同一視することができる。

しかし、単に予測を促進するというだけではまだRPの条件として弱い。つまりこれではまだ十分条件とは言えない。というのも、Dennettは別の論文の中で次のような議論を展開しているからである。[4] すなわち、我々は温度計に対して志向姿勢(ある対象を、志向的な主体と見なすデータ記述の様式)を採ることが可能である(例えば「温度計は部屋が25度であることを望んでいる」、「温度計は今部屋が20度であると思っている」、などと解釈することによって)が、チェスを指す高性能コンピュータに対しては、我々は、予測力を削ぎ落とさないためには志向姿勢を採らざるを得ない。言い換えれば、我々はチェスの試合においては「志向姿勢」というデータ圧縮の様式を放棄することができないのである(さもないと相手の次の一手を読む能力を大幅に失ってしまう)。ここで言われている「圧縮の放棄不可能性」——あるいは「さらなる圧縮の不可能性」と読み換えても良い。もし予測力を削ぎ落とすことなくさらなる圧縮が可能であるならば、当該圧縮は放棄可能であるから、対偶を取って「圧縮が放棄不可能」⇒「さらなる圧縮が不可能」。逆に「さらなる圧縮が不可能」⇒「圧縮が放棄不可能」も明らかに成立する——は、単に「成功する予測をもたらす」よりも強い条件である。

問題は、「誰にとって放棄不可能」であるか、である。これはあるパターンがリアルであるための十分条件は何か、という問題である。この点についてDennettの記述は一貫していない、というのがLadyman & Rossの本書における指摘である(p.206)。というのも、DennettはRP論文の前半では「物理的に可能などんな計算機によっても放棄不可能」という条件を想定しておきながら、同じ論文の後半では「我々人間によって放棄不可能」であることを想定しているようだからである。ある箇所では、放棄不可能性を記述者のノイズ許容度にさえ相対化させてしまっている、とLadyman & Rossは指摘する(p.206)。これでは放棄不可能性の条件がないのと実質的に等しい。Ladyman & Rossに言わせれば、圧縮の放棄不可能性を、恣意的に制限された状況における、恣意的に選ばれた計算機(特定の人間集団のような)の推論力に相対化させてはならない(p.208)。彼らによれば、このような解釈は道具主義を招く。パターンがリアルであるための十分条件としてはむしろ、「物理的に可能などんな計算機によっても放棄不可能」とするべきである、と彼らは言う。Dennett自身の最初のRPの定式化における、"whether or not anyone can concoct it"というフレーズも、このように解釈しない限り首尾一貫しないだろう。というのも、この一節は「どんな人間や計算機も未だ発見していないRPが存在し得る」ということを含意しているからである。

以上の考察を踏まえて、Ladyman & Rossは独自の用語法に基づいた新たなRPの必要十分条件を次のように与えている(p.233)。

[A] pattern x → y is real iff
(i) it is projectible; and
(ii) it has a model that carries information about at least one pattern P in an encoding that has logical depth less than the bit-map encoding of P, and where P is not projectible by a physically possible device computing information about another real pattern of lower logical depth than x → y.

もし私の理解が正しければ、ここでパターンが写像「x → y」と見なされているのは、ある計算機によるパターンの予測計算によってパターンが再帰的に定義されているからである。xが観測されるパターンであり、yは、xをシミュレートする計算機が出力するxについての予測計算の結果である。y自身もまたパターンであり、これをさらに別の計算機がシミュレートして、それについての予測計算の結果zを出力する。実在性の関係は推移的なので、x→y、y→zがリアルであればx→zもまたリアルである。定義を構成する基底ケースは、xが何であるか言えず、ただ「指をさす」ことしかできない状況だそうである(p.226)。以上より、xが何であるか言えない「物自体」のケースから始まって、xを観測するy、yを観測するz、という風に次々とRPが構成されていく。x → yがprojectibleとは、平たく言えばxをシミュレートしなかった場合よりも高い確率でxを正しく予測できる、ということである。要するに、Dennettの論文にあった「成功する予測をもたらす」という条件をより精緻にしたものである。条件(ii)にあるlogical depthとは、Charles Bennettによって提案された複雑さの指標である。[5] この条件が述べているのは、「物理的に可能などんな計算機によっても、さらなる圧縮が不可能」という条件と実質的に同じことである。以上により、Ladyman & RossはRPの必要十分条件を与えている。

本書におけるLadyman & Rossの中心テーゼは、この世界に存在する一切は、上のように定式化されたRPである、というものである。パターンとはデータにおける関係の構造であるから、このパターン一元論こそがOSRに相当する。こう考えれば、上のようなややこしい定義を導入しなければならなかった必然性も見えてくる。すなわち、パターンは個物ではないので、それを観測する計算機から切り離して考えることができない。ゆえに、観測されるパターンと観測するパターンとの関係から、再帰的に「パターン」を定義するしかないのである。結局、存在する一切はパターンということで、パターン同士がお互いを計算し、お互いの振る舞いを予測しようとしている、という世界像が帰結する。Ladyman & Rossはこの世界像をRainforest Realismとも呼んでいる。これは、存在論はなるべく小さい方が良いという意味で「砂漠」を勧めていたQuineの比喩にあやかったものである。Ladyman & RossのOSRは、存在論的還元主義とアトミズムに立脚するQuineの砂漠とは対照的に、観測の粗さの様々なスケールでの多様な実在を認める熱帯雨林だというわけである。

さて、私は次の疑問を提起してみたい。すなわち、Ladyman & Rossの熱帯雨林は彼らが言うほど果たして緑豊かであろうか?上でみたように、Ladyman & Rossは圧縮の放棄不可能性を人間の計算力に相対化するDennettによるRPの定式化(以下、RP1)を「道具主義的」と見なして批判している。これは、あるパターンがリアルであるか否かが、(彼ら曰く)客観的な事実ではなく恣意的ないし偶然的な要素によって決まることになってしまうからである。しかし、結果として「物理的に可能などんな計算機によっても圧縮が放棄不可能」であることを要求するLadyman & Rossの定式化(以下、RP2)の方が道具主義的であるように私には思われる。というのは、RP2の必要十分条件は厳し過ぎるからである。彼らの基準をクリアするパターンに保証されるリアルさの度合いは確かに強いけれど、基準から漏れるものがあまりにも多いのではないか。例えば、RP1では、心に関する消去主義はアプリオリに偽である。なぜなら、志向状態についての語りは我々人間にとって放棄不可能だからである。しかし、RP2に従えば、消去主義は経験的に検証するべき主張である(p.207)。言い換えれば、将来的に志向状態についての語りよりも効率的な——projectibleでかつlogical depthが低い——圧縮が発見されれば(神経生理学的な記述であれ何であれ)、志向状態についての語りは放棄可能になる、というわけである。これが道具主義でなければ一体何であろうか。ゆえに、OSRは実在論である以上、DennettのRP1の方がその定式化に適しているように思われる。RP2に基づくLadyman & RossのOSRは、熱帯雨林実在論と言いつつも、その内実、基礎物理学が明らかにするパターン以外のパターンに正当な実在性を付与していないのではないか(彼ら自身によるその否認にも関わらず。本書pp.242-243参照)。結局、彼らの実在論は熱帯雨林というよりは精々、永久凍土なのではないか、という疑念を持たざるを得ない。

【最後に】

以上、私はLadyman & Rossの立場を散々批判的に扱ってきたけれど、裏を返せば、それだけ批判する価値があるということである。私は、彼らのある種ラディカルとも言える自然主義の精神には強く共鳴するし、OSRについても、まだまだ曖昧な点や難点もあるとは言え、非常に興味深く魅力的な考え方だと思っている。だからこそLadyman & Rossとの差別化を図ることによって自分の考えを明確化し、理解を深めることができる。この分野の今後の動向にも是非注目していきたい。[6]



[1] Dennett, Daniel. 1991. "Real Patterns." The Journal of Philosophy 88 (1): pp.27-51.

[2] Rossが、"it's real patterns all the way down"というスローガンを私信でDennettに伝えてみたところ、熱の込もった賛同を得たという。本書p.228参照。

[3] Dennett, op. cit., p.34.

[4] Dennett, Daniel. 1971. "Intentional Systems." The Journal of Philosophy 68 (4): pp.87-106.

[5] Bennett, Charles. 1990. "How to Define Complexity in Physics, and Why." in Wojciech Zurek ed., Complexity, Entropy and the Physics of Information, pp. 137-48. Boulder: Westview.

[6] 早速、今年の3月にOSR提唱者の一人、Steven Frenchの新著The Structure of the WorldがOxford University Pressから出版されるようである。