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2020年7月4日土曜日

物理を学びたい人文学徒のための読書案内

人文系の学科に籍を置く大学生・大学院生や,現在大学に所属してない方など,物理のフォーマルな教育を受ける機会がない(あるいはなかった)方で,大学レベルの物理を学びたいと思っている方は多いと思う.しかし,カリキュラムを組んでくれる先生や,どのように学習を進めればいいのかについて情報交換してくれる友人・先輩がいない環境で,ゼロから物理を学ぶのは非常に難しい.知識がない状態では,あるトピックについて学ぶ上でどのような予備知識が要求されるのか分からないし,選んだ教科書が自分の知識レベルに合っているかどうかを判別することも難しいからだ.その結果,自分の知識レベルでは太刀打ちできない本を読もうとして,結局挫折することになる(私もそのような経験を何度かした).

この読書案内は,物理をこれから学ぼうと思う人が直面するこの最初の大きなハードルを乗り越える一助になればと思って書いた.もちろん人文系の学生に限らず,物理を学びたい社会人や,理工系の学生にも参考にして頂けると思う.私自身の来歴について少し述べておくと,私は学部時代から今に至るまで哲学を専攻しているが,物理にもずっと興味があり,暗中模索しながら(そして友人や先輩の助けを借りながら)大学レベルの物理とそれに必要な数学を独学してきた.アメリカの大学院では物理を副専攻に選んで授業もいくつか受けたが,ほとんど独学で身に付けたと言っていいと思う.今は物理学の哲学に関心を持っていて,今後本格的に研究を進めようと思っている(まだこの分野での業績は何もないが).[*] なので,私はあくまで物理に強い関心を持つ哲学徒であり,プロの物理学者ではないことをあらかじめ断っておきたい.

数学の予備知識について一言.この読書案内は,少なくとも,数II・Bまでの高校数学を履修済みの方を念頭に置いて作成している.人文系の学生で数IIIや数Cを履修していない方は多いと思う(私は高校時代理系だったので一応どちらも履修していたが).では大学物理を学ぶ前にまず数IIIと数Cを勉強するべきかと言えば,必ずしもそうではない.大学の初年次で勉強する数学は,高校数学で学んだ内容をより厳密な立場から再び論じ,そこからより発展的な内容に繋げていくという性格を持っているので,いきなり大学数学から入っても問題ないと思う.ただ大学数学が抽象的で難しいと感じたら,まず数IIIや数Cの教科書を読んでみるのもいいかもしれない.

以下に挙げる本は,私自身が物理を勉強する上で参考になった本であり,もちろん人によって合う・合わないはあると思う.


【物理に必要な数学】

物理を学ぶに当たって必ず身に付けておくべきなのが,微積分と線形代数である.どちらから勉強を始めてもよいが,すぐに物理に入りたいなら,まず微積分から始めるのがいいだろう(量子力学までは一応線形代数なしでも理解できるので).以下では,私が物理を勉強する上で役に立った微積分と線形代数の本を挙げる.


小林昭七『微分積分読本』(全2巻)裳華房.
説明の分かりやすさに定評のある微積分のテクスト.第1巻では1変数,第2巻では多変数の微積分がカバーされている.本書はあくまで「読本」で,演習問題が付いていないことに注意.第1巻の冒頭近くに登場するε-N論法やε-δ 論法が難しいと感じたら,まず論理学の教科書で量化子の取り扱いに慣れておいた方がいいだろう(お勧めは下に挙げている嘉田勝『論理と集合から始める数学の基礎』である)


小形正男『キーポイント 多変数の微分積分』岩波書店.
良書の多い「理工系数学のキーポイント」シリーズの一冊.このシリーズの他の本と同様,数学的厳密さにはそれほどこだわらず,直観的なイメージを掴むことに重点を置いた本.私にとっては上に挙げた小林『微分積分読本』の第2巻よりも参考になった.


佐野理『キーポイント 微分方程式』岩波書店.
これも「キーポイント」シリーズの一冊.小林『微分積分読本』では微分方程式が登場しないので,この本で補うといいだろう.下に挙げる山本『新・物理入門』を読む前に,本書の第1章で変数分離形の微分方程式の解き方を抑えておこう.


Tom M. Apostol, Calculus, 2nd Edition (2 Vols.) Wiley.
私の最も好きな微積分の教科書.タイトルは Calculus だが,線形代数や確率論もカバーされていて,理工系学部の最初の二年くらいでやる数学が一通り網羅されている.歴史に関する記述が豊富で,歴史的順序と同様に,微分の前に積分が扱われているのが特徴.数学的厳密さと幾何学的直観のバランスが良い.ただ1冊目に読むには少しハードルが高いかもしれない.


川久保勝夫『線形代数学(新装版)』日本評論社.
線形代数への入り口として最適な一冊.説明が懇切丁寧で,行列と行列式,抽象的ベクトル空間,固有値と固有ベクトル,内積空間,正規行列の対角化といった標準的な内容がすべてカバーされている.大学数学に慣れるために,微積分をやる前にこれを読んでおくのもいいかもしれない.数Cを履修していなくてもいきなりこの本から読み始めても問題ない.


【高校物理】

山本義隆『新・物理入門(増補改訂版)』駿台文庫.
初学者にこの本を勧めるのは鬼畜と思われるかもしれないが,やはりこれを勧めないわけにはいかない.私にとって高校物理は,天下り的に与えられた公式を意味も分からず丸暗記し,それに機械的に数値を当て嵌めるだけのつまらない科目だった.その私を,物理の面白さに目覚めさせてくれたのが本書である.私見では,物理には演繹科学と実験科学の二つの側面がある.いくつかの基本原理(仮定)から出発し,数学的な議論によって次々と法則的関係を導出し,それらの関係が(不思議なことに)実験や観察データと上手く合致する,というところに物理学の面白さがあると思う.山本『新・物理入門』は確かに簡単な本ではないが,公式がすべて基本原理から導出されているので,普通の高校物理の教科書では味わえない,物理の演繹科学としての側面を堪能できる.要求される数学力は,高校物理の参考書としては高いが,数IIIの微積分と,佐野『キーポイント 微分方程式』の第1章の内容を把握しておけば大丈夫だと思う.


【古典力学】

藤原邦男『物理学序論としての力学』東京大学出版.
山本『新・物理入門』を読み終わったら次はこれを読もう.歴史的な記述が豊富だったり,著者が自ら行った実験のデータがあったりと,一風変わった古典力学の教科書.表題にある通り,力学を通して物理学の面白さを伝えたいという著者の熱意が伝わってくる名著である.


高橋康『量子力学を学ぶための解析力学入門』講談社.
量子力学に入る前に読んでおきたい解析力学の教科書.「量子力学を学ぶため」という目的に特化されているので,決して網羅的ではないが,説明は分かりやすいし,著者の含蓄のある言葉が随所に散りばめられているのも良い.Legendre変換については説明不足なので,田崎『熱力学』の付録で補うのがいいだろう.


Cornelius Lanczos, The Variational Principles of Mechanics. Dover.〔邦訳:C・ランチョス『解析力学と変分原理』(一柳正和訳・高橋康監訳)日刊工業新聞社〕.
初版の刊行が1949年なのでかなり古い本である.著者のLanczosは,Einsteinとも交流のあった著名な数学者・物理学者.本書は,変分原理の立場から解析力学を統一的に解説するという趣旨の本で,この分野の古典的な教科書としての地位を確立している.良くも悪くも数学的なスタイルで書かれていて,具体例は(演習問題を除いて)ほとんど出てこない一方,他の教科書にはあまり見られない概念的・歴史的な話題が豊富なのが特徴.例えば,「d'Alembertの原理からその他の力学の変分原理をすべて導出できる」といった独自の(やや過激な?)視点があって非常に面白い.一冊目の教科書として読むと面食らうかもしれないが,前掲の高橋本などで一度解析力学を勉強したあとに,副読本として読むのが良いかもしれない.元々は,こちらの書評を読んだのがきっかけで本書に興味を持った.そこにある通り,本書のクライマックスである第8章「Hamilton-Jacobiの偏微分方程式」の冒頭には,『出エジプト記』の言葉が掲げられている:「靴を脱げ.汝の立てるは聖なる地である」.力学の究極形態であるHamilton-Jacobiの理論は,神々しいまでに美しい理論であり,まさしく聖なる空気に満ちている.こうした理論的様式美に対する陶酔感,そして17–18世紀的な合理主義の精神が,本書の随所に表れている(特にp. 341での実証主義者Machに対する手厳しい評価は興味深い).実際的な計算よりも概念的な理解に主眼を置いている本なので,物理学徒や数学徒はもちろん,哲学徒にもお勧めできる.日本語訳はあるが,残念ながら今は入手困難となっている.ぜひとも復刊を望む.


【相対性理論

Robert Resnick, Introduction to Special Relativity. Wiley.
大学の1・2年次では,初等力学と並行して電磁気学を学ぶのが普通だと思うが,電気と磁気の関係を理解するには特殊相対論のLorentz変換を知っておいた方がいいので,電磁気学に入る前に特殊相対論を勉強しておくのがお勧めである.特殊相対論は,概念的な難しさはあるが,要求される前提知識は古典力学と高校レベルの代数学だけなので,早いうちに履修してしまうのがいいと思う.本書は英語ではあるが非常に分かりやすい,標準的な内容のテクストである.電磁気学を学んでいないなら,最後の第4章「相対論と電磁気」だけ飛ばして,電磁気学を勉強した後にまた戻って読んでみるのがいいだろう.


James J. Callahan, The Geometry of Spacetime: An Introduction to Special and General Relativity. Springer. 〔邦訳:James J. Callahan『時空の幾何学―特殊および一般相対論の数学的基礎』(樋口三郎訳)森北出版 .〕
数学科の学生向けに書かれた特殊・一般相対論のテクスト(著者は数学者).タイトルにある通り,相対論を徹底的に幾何学的観点から扱っているのが特徴.例えば特殊相対論に入る前にMinkowski幾何学にかなりの紙数が費やされているし,一般相対論の準備として微分幾何学(の必要な部分)が丁寧に解説されている.実際,本書は微分幾何学の入門書としても使えるように書かれているようだ.こうした幾何学的アプローチの利点として,他書ではただの抽象的な数式として与えられがちな概念を,明快に視覚化できるという点がある.例えばLorentz変換が双曲回転に相当することを踏まえておくと,相対論に特徴的なFitzgerald収縮や時間遅延を,座標系の回転による効果として直観的に理解できる.また,特殊相対論から微分幾何学への橋渡しの役割を果たす本書の第4章は非常にユニークで,特殊相対論の枠組みの内部で加速運動を扱うことで,「曲がった時空」という概念の必要性を自然に導いている.本書は数学徒向けに書かれているので,物理学書にありがちな暗黙の物理的仮定や論理の飛躍を極力排した,きわめてクリアな記述になっている.今まで何冊か一般相対論のテクストに目を通してみたが,その中で一番分かりやすいと思う.要求される前提知識は線形代数・微積分と多少の古典力学だけで,一般相対論に必要な微分幾何学は一通り解説されている.相対論の科学史的・実験的背景についてはやや手薄なのと,相対論の帰結としての宇宙論などはカバーされていないので,そこは他書で補いたいところ.また本書を読む前に前掲のResnick本などで特殊相対論を一度は勉強しておくことをお勧めする.『時空の幾何学』というタイトルで出ていた日本語訳は長らく絶版だったが,2021年に復刊された.


Tim Maudlin, Philosophy of Physics: Space and Time. Princeton University Press.〔邦訳:ティム・モードリン〔『物理学の哲学入門空間と時間』(ジミー・エイムズ監訳・谷村省吾解説)勁草書房〕.
私が日本語訳に携わっている本なので手前味噌になってしまうが,こちらも紹介しておきたい.表題に「物理学の哲学」とある通り,空間・時間にまつわる基礎的・概念的(要するに哲学的)な問題を,物理理論をベースにして扱った本であるが,相対性理論の解説書としても非常に優れている.実際,物理や数学の背景知識を特に持たない人文系の学部生向けに,本書の内容をもとに空間・時間の哲学の講義を行ったところ,反応はかなり良かったように思う.以下,私が本書に寄せた「訳者まえがき」から少し抜粋しておく:「著者のMaudlinは,語り口の明晰さもさることながら,分析の鋭さと視点のユニークさが際立つ哲学者である.本書でもこれらの特性は存分に発揮されており,特に双子のパラドックスの議論(第4章)や,抽象的ブーストと物理的ブーストの議論(第5章)は刮目に値する.本書は数式をなるべく使わず,物理と数学を明晰な言葉で概念的に説明しているが,議論のレベルの高さや話題の選び方において,巷の啓蒙書とは一線を画す本格的な入門書であると言える.また,入門書にありがちな「中立的」なスタンスを取らず,あえて著者自身の見解を前面に出した論争的なスタイルで書かれているのも,本書の特徴の一つである.その点でも,著者に同意するにせよしないにせよ,思考を触発する刺激的な本である.」


【電磁気学】

Edward M. Purcell, Electricity and Magnetism, 3rd Edition. Cambridge University Press. 〔第2版邦訳:Edward M. Purcell『電磁気』(飯田修一訳)丸善出版〕.
電磁気学教育の名著.学部レベルの標準的な教科書では,電気と磁気をそれぞれ独立した現象として扱って,最後のあたりになってようやく「実は電気と磁気は同じものの二つの現われなんですよ」というような解説がよくなされる(例えば英語圏で人気のGriffithsはそう).それに対して本書では,かなり早い段階で特殊相対論が導入され,磁気の性質がすべてCoulomb力,Lorentz変換,そして座標変換に対する電荷の不変性の結果として導かれているので,電気と磁気の深い結び付きが際立って見えてくる.前提知識として特殊相対論は要求されるが,必要なベクトル解析はすべて解説されているし,説明も非常に丁寧で論理的である.原著第3版では演習問題への解答や,曲面座標での微分演算子についての付録などが追加されていて助かる.原著第3版の邦訳はないが,第2版の邦訳は「バークレー物理学コース」シリーズの『電磁気』(飯田修一訳;丸善出版)として出ている.なお,第2版では(Purcell本人のこだわりで)CGS単位系が使われているのに対して,第3版では(標準的な)SI単位系に変更されている.


【量子力学】

前野昌弘『よくわかる量子力学』東京図書.
量子力学の教科書ではおそらくこれが一番易しい.量子力学の教科書は大きく分けて,公理的なアプローチで書かれている本と,前期量子論から始まる歴史的なアプローチで書かれている本があるが,本書は後者である.数学的な議論スタイルが肌に合う人(私もそうだが)は,公理的なアプローチで書かれている清水『量子論の基礎』から始めた方がいいかもしれない.なお,この本に限らず,量子力学を学ぶための前提知識として,線形代数と解析力学は必須である.また本書では付録に簡単な解説があるが,Fourier変換も知っておいた方がいいだろう(Fourier変換については,「EMANの物理学」にあるFourier解析についての一連の記事が分かりやすくまとまっている:https://eman-physics.net/math/contents.html


清水明『新版 量子論の基礎―その本質のやさしい理解のために』サイエンス社.
入門レベルの量子力学の教科書の中では個人的に一番好き.量子論の基礎的・概念的な部分が,公理論的な立場から懇切丁寧に解説されている.あくまで「基礎」なので,応用例はほとんど出てこない(出てくるのは井戸型ポテンシャルと調和振動子くらいで,水素原子の波動関数の計算も出てこない).Bellの不等式がカバーされているのと,ブラケット記法で書かれているのは嬉しい.


David Bohm, Quantum Theory. Dover. 〔邦訳:D. ボーム『量子論』(高林武彦・井上健・河辺六男・後藤邦夫訳)みすず書房〕.
最初に刊行されたのは1951年なのでかなり古い教科書だが,今も十分読む価値のある名著.David Bohmといえば,彼独自の量子力学の解釈であるBohm解釈(軌跡解釈)で有名だが,本書は正統派のコペンハーゲン解釈の立場から書かれている.とはいえ,「思考と量子プロセスとのアナロジー」といった,のちのBohmの哲学を思わせる独創的な着想も見られる.


J. J. Sakurai, Modern Quantum Mechanics, 3rd Edition. Cambridge University Press. 〔邦訳:J. J. サクライ『現代の量子力学 第3版』(桜井明夫・常次宏一訳)吉岡書店〕.
難しいことに定評がある量子力学の教科書だが,第2章までは(WKB近似の箇所を除いて)それほど難しくないと思う(角運動量を扱った第3章あたりから辛くなる).冒頭の,Stern-Gerlach実験から量子力学の特徴を浮き彫りにさせる箇所は非常に明快だし,時間発展演算子が満たすべき性質からSchrödinger方程式を導出するといった感動的な議論が詰まっているので,最初の二つの章だけでも読む価値があると思う.経路積分,Aharonov-Bohm効果,EPR論証,同種粒子の置換対称性といった哲学的含意のある話題が扱われているのも嬉しい.


Tim Maudlin, Philosophy of Physics: Quantum Theory. Princeton University Press.〔邦訳準備中〕.
こちらも私が日本語訳にかかわっている本なので手前味噌になってしまうが,せっかくなので紹介しておきたい.本書は前掲のMaudlin本の続巻に当たる本で,表題の通り量子論を主題としている.量子論の哲学が取り組むべき問題は「解釈問題」であると言われることが多いが,本書では,そもそも標準的な量子論のフォーマリズムはあくまで「予測のためのレシピ(一連の処方箋)」にすぎず,「物理理論」とは言えないというスタンスが貫かれている(ここにはもちろん,「物理理論」とはどのようなものであるべきかについてのMaudlin独自の見解がある).そのため,量子論の哲学(あるいは量子基礎論)が取り組むべき課題は,既存の完成した理論の「解釈」ではなく,量子現象をうまく説明する厳密な物理理論を構築することだとされる.そこで,そのような物理理論の具体的な候補として, Ghirardi–Rimini–Weber (GRW)の自発的収縮理論,パイロット波理論(Bohm力学),そしてEverettの多世界理論の三つの理論が取り上げられている(標準的ないわゆる「コペンハーゲン解釈」は,「物理理論」の基準を満たしていないとして最初から排除されている!).空間・時間を扱った第1巻に比べて数式はやや多めだが,主眼はあくまで概念的な理解に置かれており,記述はきわめて明晰である.Bellの定理に関するよくある誤解や,量子状態についてのいわゆる「認識的」な解釈を排除するとされるPBR (Pusey–Barrett–Rudolph)定理など,普通の量子論の教科書ではあまり見られない話題が取り上げられているのが嬉しい.ただ,本書を読む前に,前掲の清水本などの普通の教科書で,標準的な量子論を一度勉強しておくことをお勧めする.


【熱力学・統計力学】

田崎晴明『熱力学―現代的な視点から』培風館.
日本の物理学の水準を向上させることにおそらく貢献している名著.熱力学の体系を構築する中心部分はもちろん,化学への応用(第9章)も素晴らしい.強磁性体を扱った第10章は,同著者の『統計力学〈2〉』の第11章「相転移と臨界現象入門」を読んでからの方が分かりやすいと思う.付録にある凸関数やLegendre変換の解説は重宝する.


田崎晴明『統計力学』(全2巻)培風館.
「ラノベ」と評する向きもあるようだがそんなことはない.同著者の『熱力学』よりは難しいと思う.とはいえ本書もやはり名著で,読むだけで世界が広がる感覚がある.特に第2巻の量子理想気体の章は感動的ですらある.著者が「はじめに」で述べているように,熱力学が壮麗な構築物(おそらく人間が作ったのではない構築物)だとすれば,統計力学はむしろ生き生きとした雑多な「文化」のようなもので,本書はその一端を垣間見せてくれる.


清水明『熱力学の基礎 第2版』(全2巻)東京大学出版会.
初版では1巻本だったが,第2版では大幅に加筆修正が施されて2巻本になった.本書は,表題の通り熱力学の理論構造を基礎から徹底的に解説した教科書であるが,前掲の田崎『熱力学』とはかなり異なったアプローチで書かれている.田崎本が操作論的な立場で(つまり系に対してどのような操作を行うかを中心にして)書かれているのとは対照的に,本書は,いくつかの要請(特にエントロピーが満たすべき性質についての要請)から出発する公理的なアプローチで書かれている(その点では,同著者による『量子論の基礎』と同様である).そのため,一次相転移がある場合などでも破綻しない,かなり一般的な形で理論が展開されている.ただその反面,物理的にややイメージしづらいエントロピーという量を出発点にしている点,そして(特に第1巻では)具体的な物理現象や実験があまり取り上げられず,一般論が延々と続くといった点で,初学者には少し厳しいかもしれない.それに対して田崎本は,日常的により馴染みのある「温度」を出発点にして理論を構成しており,また具体的な現象や実験も豊富に取り上げられているので,(一般性は犠牲になるものの)直観的には分かりやすいと思う.そのような事情もあり,個人的には,まず一冊目に田崎本を読んでから,二冊目以降に清水本を読むのがいいのではないかと思う(もちろんこれはあくまで好みの問題である).とはいえ,本書の「はじめに」で著者が述べているように,熱力学は,古典力学や電磁気学や量子論などと比べても,非常に難しい理論構成を持った理論である.そのため,どんなに優れた本であったとしても,一冊の教科書を読んだだけでは深い理解を得るのは到底無理で,何冊か読んでようやくその全体像が見えてくるところがある(かく言う私は,熱力学を理解できたという実感はまだまだ湧かないが).本書の特に嬉しいポイントは,第12章ではLegendre変換が,そして第17・18章では相転移がかなり詳しくかつ丁寧に解説されている点.熱力学の立場からの相転移の解説としては,田崎本よりも詳しく,分かりやすいと思う.またLegendre変換については,田崎『熱力学』の付録とは異なる流儀(幾何学的解釈)で解説されているので,どちらも読んでおくことをお勧めする.なお,清水先生は昨年(2024年)に『統計力学の基礎』も上梓されている(私は未読).


【複雑系】

Steven H. Strogatz, Nonlinear Dynamics and Chaos: With Applications to Physics, Biology, Chemistry, and Engineering. CRC Press. 〔邦訳:ストロガッツ『非線形ダイナミクスとカオス』(田中久陽・中尾裕也・千葉逸人訳)丸善出版〕.
私がもともと物理を勉強しようと思ったきっかけは,複雑系に神秘を感じたからなので,どうしてもこの分野の本も紹介しておきたい(「複雑系って何ぞや?」という方には,蔵本由紀『新しい自然学―非線形科学の可能性』をお勧めしたい).本書は非線形力学とカオスへの入門書として定番のテクストである.説明は直観的で分かりやすく,この分野のトピックを一通り俯瞰できるので,一冊目に最適だと思う.ただ数学的結果の多くが証明されておらず,天下り的に与えられているのが残念(特に解の存在と一意性の定理や,Poincaré-Bendixsonの定理の証明は付録などに載せれば良かったのにと思う).数学的に厳密な議論については,Hirsch-Smale-Devaneyの『力学系入門』で補うのが良いかもしれない.著者のCornell大学での講義「非線形力学とカオス」がYouTubeに公開されているので,英語が苦でなければ併せて視聴するといいだろう:https://www.youtube.com/playlist?list=PLbN57C5Zdl6j_qJA-pARJnKsmROzPnO9V


金子邦彦『生命とは何か 第2版 複雑系生命科学へ』東京大学出版.
物理学書ではなく,物理学者によって書かれた生命科学の本.遺伝子の起源,細胞分化,形態形成,種分化,ゆらぎによる環境への応答といった現象を,力学系理論・数理モデルを通して理解するといった趣旨の内容.学部生の頃に読んで感銘を受けた.生物学の背景知識がなくても分かりやすく読める.金子先生は最近『普遍生物学』と『細胞の理論生物学』という本も新しく出されている(後者は共著)ので,そちらも読んでおきたい(私は未読).


【数理論理学】

論理学は必ずしも直接物理学に必要なわけではないが,数学を勉強する上で論理学の知識は役に立つ(例えば多重量化が分からない状態でε-δ論法を理解するのは難しいと思う)し,哲学をやろうと思う人にとっては論理学は必須である.また量子論理や,物理学への計算可能性理論の応用など,物理学と論理学の興味深い繋がりも色々ある.


嘉田勝『論理と集合から始める数学の基礎』日本評論社.
数理論理学への入門書というわけでなく,数学を学ぶすべての人が知っておくべき基礎的な素養をまとめた本である.日本語の解説が非常に練られていて明晰である.これから論理学を学ぼうと思う人にとって一冊目に最適.物理学や哲学を学ぶ者にもお勧め.


丹治信春『論理学入門』ちくま学芸文庫.
著者の『タブローの方法による論理学入門』を文庫化したもの.元のタイトルにあるように,タブロー法による命題論理,述語論理への入門書.タブロー法は視覚的なので私は好きだし,論理学への入門にも一番良いアプローチだと思う.初学者を述語論理の健全性・完全性とLöwenheim–Skolemの定理まで導いてくれる好著である.


H.-D. Ebbinghaus, J. Flum, Wolfgang Thomas, Mathematical Logic, 2nd Edition. Springer.
中級レベルの数理論理学のテクスト.記述はこの上なく明晰で,補題や定理が有機的な繋がりを持って展開されている.Part A(I~VIII)では一階論理の完全性,コンパクト性,Löwenheim–Skolemの定理といった標準的な内容がカバーされている.Part B(IX~XIII)では発展的なトピックが紹介されていて,(XIII以外)章ごとに内容が独立しているので,興味を持った章だけを読むことができる.IXでは一階論理と算術の決定不能性やGödelの不完全性定理などのlimitativeな結果が,XIIとXIIIではEhrenfeucht–Fraïssé gameやLindströmの定理といったモデル理論の発展的な話題が取り上げられている.


照井一成『コンピュータは数学者になれるのか?―数学基礎論から証明とプログラムの理論へ』青土社.
タイトルから受ける印象に反して,高度な話題が凝縮された硬派な啓蒙書.細かいところを気にせずラノベ感覚で読むのがいいだろう.学習意欲を駆り立ててくれる好著である.

2014年11月30日日曜日

Pancomputationalism in the Light of Peirce's Cosmogony

Warning: the following is highly speculative. Take with several grains of salt.

There is an idea gaining support among physicists recently called pancomputationalism (e.g. Gerard 't Hooft, Seth Lloyd, David Deutsch), according to which the universe is literally a giant quantum computer computing its own evolution. In this view, the laws of physics can be understood as algorithms which produce patterns, and these patterns in turn act as algorithms and produce further patterns, and so on ad infinitum. The initial algorithms are products of randomness, of quantum fluctuations in the early universe, which spread themselves via entanglement and reinforced themselves via the positive feedback feature of gravity. (Of course a theory of quantum gravity is here assumed to precede the beginning of the universe.) So physics is nothing but the study of information, of patterns of computation.

Now computation is only another word for the semiotic process. So we are led to Peirce's doctrine of pansemiosis, according to which the universe is an "argument, " inferring its own evolution through deduction, induction, and abduction. It need hardly be mentioned that the above description of pancomputationalism bears striking resemblances with Peirce's cosmogony. Quantum fluctuations are Firstness, the chaos form which the universe sprang, and the infectious nature of quantum entanglement corresponds to Thirdness. (Where Lloyd says that "information tends to spread, " Peirce writes that "ideas tend to spread". These are doubtless two expressions of the same fact). Secondness, the category of individuation, may be understood in terms of decoherence. In the near future, perhaps physics and semiotics will converge towards a single discipline, into a Physics conceived as Semiotics.

What is information?
Information is the anticipation of a certain outcome based on a correlation. A possesses information about B if an observer is able to make a prediction about B, with a probability higher than 1/2, on the basis of A. For example, a footprint in the snow (a sign) possesses information about the animal that made it (its object), if an observer is able to make a hypothetical judgment about the latter on the basis of the correlation that is assumed to exist between the sign and its object. The correlation is "assumed" only in the case that there is a real tendency for the hypothesis of the sort to be borne out in experience, and only in such a case will there be a flow of information, in which the observer is "infected" by the correlation. So information is essentially a Triadic concept, involving two correlated states and an interpreting agent.

2014年7月3日木曜日

異なる次元を持つ物理量同士の乗除がよくて、加減がいけない理由

異なる次元を持つ物理量同士の掛け算や割り算はよくて、足し算や引き算がいけないのは、物理学を習った人なら誰もが知っているだろう。例えば長さ÷時間=速度だが、長さ+時間というのは意味を成さない。しかし、このルールは大概、直観的に正しいものとして提示されるだけで、その論拠が示されることは殆どない(少なくとも初等的な教育では)。長さ+時間が「意味を成さない」とは一体どういうことだろうか?

まず準備として、「単位」(unit)と「次元」(dimension)という二つの概念を区別しておきたい。例として、m、km、parsecなどはそれぞれ別の単位であり、これらはすべて同じ「長さ」という次元を持つ。次元が同じで単位が異なる二つの物理量は、スケールを変換する関係式を利用して単位を揃えることができる(例えば1km = 1000mという関係を利用すれば、1km+100mの単位を揃えて1100mと書くことができる)。

さて、「林檎と蜜柑の足し算」というシンプルな例から始める。「林檎」と「蜜柑」をそれぞれ別の次元の単位と見なし、それぞれの個数の合計を考える。異なる次元を持つ物理量同士の足し算はできないと思われるかもしれないが、何のことはない。「果物」という、「林檎+蜜柑」の次元を持つ新しい単位を導入して、数値同士を足した結果に付与すればいい。例えば1林檎+1蜜柑=2果物、という風に。この新しい単位は全く問題なく使えるし、現に我々は日常生活の中で使っている。この例を見れば、異なる次元を持つ物理量同士の加減を排除する理由はないように見える。確かに、アプリオリに排除する理由は全くないが、上の議論をあらゆる物理量に一般化できない理由がある。

上の林檎と蜜柑の例と全く同じように、

a [m] + b [s] = c [x] …… ①  (a、b、cは何らかの数値、mはメートル、sは秒)

と置いて、新しい単位xを導入する。このxがどのような単位であるかは分からないが、長さ+時間の次元を持つもの、という風に約束しておく。さて、c[x]で表される上の量を、b[s]のスケールをμsに変えて表すとすればどうなるか。このときb[s] = 106・b[μs]である。同様にa[m]もcmに変換する。すなわちa[m] = 100a[cm]である。スケール変換後の量c[x]をc'[x']と置く(x'はxと同じ次元を持つがxとは別の単位である)。すなわち

100a [cm] + 106・b [μs] = c' [x'] …… ②

これら二つの式を用いて、個々のケースにおいて、c[x]とc'[x']をそれぞれ求めることができる。例えばa = b = 1の場合、c = 2、c' = 102+106と求まる。[1] しかし、a、bが分からない状態で、cを直接c'に変換することはできない。時間と長さのスケールの変換の仕方によっては、写像f:c→c'を具体的に求めることができる場合もあるが(例えばa、bが一律に10倍であればcも10倍)、一般的には不可能である。a[m]、b[s]の値が分からないとc'[x']の値は求まらないわけだから、c'[x']は①式で定めたスケールに依存していることが見て取れる。

では乗除の場合はどうであろうか。

a [m] ・ b [s] = c [y] …… ③

という掛け算を考える(割り算の場合も同様)。 yは長さ・時間の次元を持つ単位である。上の足し算の場合と同じように、a[m]とb[s]のそれぞれのスケールをcm、μsに変換し、変換後の量c[y]をc'[y']と置く。すると

c' [y'] = 100a[cm] ・ 106・b [μs] = 108a・b [cm・μs] = 108c [cm・μs] …… ④

③④式より、c[y] (= c'[y']) = 108c[y'] という単位間の変換式が得られ、a、bの値が分からなくても、直接cをc'に、あるいはc'をcに変換できることが分かる(ここではc'=108c)。つまりc'[y']の値(およびc[y]の値)はスケールの取り方に依存していない。

以上まとめると、異なる次元を持つ物理量同士の加減の場合、新しい単位を導入して加減の結果を表すことは可能だが、この新しい単位における値は、最初のスケールの取り方に依存してしまい、そのスケールにおけるそれぞれの要素の値が分かっていないと、別のスケールにおける結果の値を求めることができない。対して乗除の場合、新しく導入された単位はスケールの取り方に依存せず、ある変換式によって異なるスケール間を簡単に往復できる。スケールの取り方に依存しない、というのは恣意性を排除する上で重要である。物理学の法則が、メートルや秒といった特定の単位の取り方に依存していてはまずい。F = maという関係は、どのような単位で測定しようが成り立たなければならない。物理学では、これを対象や法則のスケール不変性(scale invariance)という。そしてスケール不変性が成り立つためには、異なるスケール間を行き来できる変換式が存在しなければならないのだ。

なお、最初の林檎と蜜柑のケースでは、「果物」という新しい単位が、特定のスケールに依存しているが、これはさほど問題にならない。なぜなら、日常観察される離散的な個物の場合、1、2、3、という風に数える単位系が自然であり、あまり恣意性がないからである。


[1] 我々は異なる次元同士の加減に慣れていないので、この求め方は一見変に見えるかもしれないが、等式の両辺の次元が等しいことを念頭に置いて、a+b [m+s] = c [x]、という風に数値と単位を分けて考えれば良い。ただ単位を、通常の代数法則を満たし、数値と同等の身分を持つ記号として扱うならば、もちろんax+by = (a+b)(x+y)といったような関係は成り立たない。これを以て、異なる次元を持つ物理量同士の加減を禁止する論拠と見なすことも可能だろうが、ここでは約束として、単位を数値と同等の記号としては扱わない。というのも、単位を数値と同等の記号と見なすことを正当化するのは、以下において説明するスケール不変性の議論の結果であるように思われるからである。少なくとも、単位が数値と同等の記号と見なされるべきであることは、決して自明ではない。

2014年4月14日月曜日

On Uchii Soshichi’s “Monadology, Information, and Physics Part 1: Metaphysics and Dynamics”

Dr. Uchii Soshichi's paper "Monadology, Information, and Physics" (released recently in preprint: http://philsci-archive.pitt.edu/10599/) explicates his informational interpretation of Leibniz's Monadology. This interpretation attempts to reconstruct Leibniz's dynamics, and the metaphysics upon which it is founded, using the terminology of contemporary information theory. The gist of Dr. Uchii's paper is that such reconstruction is a fruitful approach towards attaining a general understanding of Leibniz's system. Part 1 deals with Leibniz's dynamics and metaphysics, and Part 2 with space and time, though it is uncertain how many parts there will be in all. Here I will only take up Part 1. The paper's abstract and preliminary overview may at first seem erratic, in that Dr. Uchii does not so much argue for his interpretation as simply assert it in the form of analogy, but the reader who follows the ensuing discussions will gradually find Dr. Uchii's reading to be convincing. While it need hardly be said that Leibniz did not know concepts such as "transition function" and "recursion," Dr. Uchii's paper gives compelling evidence that Leibniz indeed had in mind, albeit in perhaps a vague and incomplete form, something that corresponds neatly to these concepts. In what follows, I would like to address some points of concern, and then conclude with a few remarks on the fruitfulness of reading contemporary concepts into the thought of great minds of the past.

Deriving Vis Viva from Solicitatio

My first concern deals with a technicality I was unable to understand. In Section 5, where Dr. Uchii discusses Leibniz's distinction between vis viva (living force) and vis mortua (dead force), he takes up the concept of solicitatio, or "infinitely small urge (to motion)." Apparently, solicitatio is an infinitesimal increment of velocity, the accruement of which gives rise to macroscopic acceleration. Now, Dr. Uchii expresses the solicitatio of a falling body by dx, speed by x, and from these, attempts to derive the vis viva (macroscopic acceleration) of the body. For the sake of brevity I shall quote the entire paragraph in question, replacing x and dx with v and dv respectively (pp.16-17):
Accumulation of solicitatio increases the amount of speed, as we have already seen in Figure 2. And the body continues to fall with increasing speed. Thus, the solicitatio needs time to increase the speed, and the body needs time also, for falling with the increased speed (thus, square of time!). So let solicitatio be expressed by infinitesimal dv, speed by v (which increases with time); then, in order to obtain the living force of the body, we have to consider some quantity that depends on the square of time, and that quantity is nothing but the distance the body has fallen; in short, the square of speed, the crucial quantity, is obtained, technically by an integration of product of solicitatio and (infinitesimal) distance. Since Leibniz often ignores constant factor, he uses "v2" for expressing living force, in the letter to de Volder. Of course this corresponds to the kinetic energy of classical mechanics (in the standard notation, mv2/2).
In classical mechanics, kinetic energy is derived by integrating the product of applied force F and infinitesimal distance dx (or dot product in the case of two or more dimensions), i.e. by the operation ∫ Fdx. Using p to denote momentum, this can be rewritten thus: ∫ dp/dtvdt = ∫ vdp = mvdv. We can therefore see that vis viva is none other than the accruement of the product of velocity v and solicitatio dv (though Leibniz writes v2 instead of v2/2). Multiply this by mass m (derivative passive force) and we get kinetic energy mv2/2. Now what I don't understand is why Dr. Uchii writes that "the square of speed, the crucial quantity, is obtained, technically by an integration of product of solicitatio and (infinitesimal) distance." This sounds as though solicitatio were force F rather than infinitesimal increment of velocity dv. And why does he say that the quantity to be derived is "the distance the body has fallen?" Clearly, distance is not energy. What is going on here?

Does Infinite Recursion Give Rise to a Universal Monad? 

An important concept in Dr. Uchii's informational interpretation of Leibniz's system is recursion, by which is understood the iteration of a certain program. Of particular significance is the notion of nested recursion, i.e. the application of a program to itself, in such a way as to give rise to a nested hierarchy of programs, "going down from the single dominant program (corresponding to entelechy) to subprograms, which again controls respective subprograms, and ad infinitum" (p.1). According to Dr. Uchii, although Leibniz never used words such as "recursion" or "recursive function," he was well aware of the recursive structure of both the organization of monads and the phenomenal world (p.33). And the function that is iterated in this recursive structure is that which dictates the elastic collision of bodies (pp.43-48).

Now my concern is this: if recursion—the nested hierarchy of programs—is infinite, then how can there be a single dominant program, above which there is no further program controlling it? Just as the microorganisms in the human body may be considered subprograms under the human entelechy, the human entelechy should be a subprogram within the macrocosm of society, which in turn is embraced by the ecosystem, the solar system, and so on ad infinitum. Do each of these comprehensive programs each correspond to an entelechy? If so, then wouldn’t there be an all-embracing entelechy, a kind of world-soul under which all other monads in the universe are subprograms? This seems to be the logical consequence of the view articulated by Dr. Uchii, but is this the view of Leibniz?

On the Fruitfulness of Reading Contemporary Concepts Into the Thought of Past Thinkers

Reading Dr. Uchi's paper, one may be compelled to ask: what is the point of reading contemporary concepts into the thought of a past thinker? Of course, it helps us to gain a multi-faceted understanding of the thinker in question, but should this be considered an end in itself, or are there further reasons why we should interpret past thinkers in light of new ideas? While Dr. Uchii focuses on understanding Leibniz's system as an end in itself, I can think of one reason why contemporary readers should be interested, apart from a sort of antiquarianism: we can gain insights relevant to today's science. It is simply amazing how far geniuses like Leibniz are able to probe into the depths of reality, and there is no reason to think that we have fully plundered the repertory of fruitful ideas that these giants have spun out of their immeasurable minds. Relationist and information-based interpretations of quantum theory, relationist dynamics, digital physics, background-independent approaches to quantum gravity: these are all areas where the pioneering work of Leibniz will serve as a guide light. Seeing how his system can be translated into the language of today's science should aid us in reconsidering our deep-seated intuitions of fundamental concepts, such as space and time.

Perhaps I am getting ahead of myself, as this is only Part 1 of Dr. Uchii's paper. His follow-up is eagerly awaited.

P.S. [04/14] My first concern was found to be based on a misreading on my part. Dr. Uchii's claim is not that energy=distance (of course), but that kinetic energy is to be derived by integrating force by path length (which, in the case of a falling body, depends on the square of time). Also, contrary to what I wrote, for Leibniz solicitatio actually is a kind of force.

2014年1月10日金曜日

【書評】 James Ladyman & Don Ross / Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized

Ladyman, James, Don Ross, et al. 2007. Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized. Oxford: Oxford University Press.

科学哲学者James Ladymanと、経済学や脳科学周辺で学際的な研究を行っているDon Rossらによる、Ontic Structural Realism (OSR)のマニフェスト的著書。第1、5章にはDavid Spurett、第4章にはJohn Collierがそれぞれ執筆に加わっている。

OSRとは、平たく言えば、「個物は存在せず、存在するのは関係(構造)だけである」という考え方である。これは一見突飛に聞こえるかもしれないが、OSRを支持するのには穏当な動機がある。それは、自然科学の成果を真摯に受け止め、形而上学の議論に取り入れなければならない、というものである。Ladymanらによれば、現代物理学が明らかにする世界像を真摯に受け止めるならば、従来の、自己同一的な個物の存在を議論の前提とする形而上学は保持できない。実際、哲学者の多くが、細かい粒子同士が衝突したり、相互作用したりすることによってマクロな物体が構成されていると信じているが、Ladymanらはそうした世界観を"microbangings"の世界観、そしてそれに基づく哲学を"philosophy of A-level chemistry"と呼んで揶揄している。

本書の第1章は、英米で現在主流の分析形而上学に対する痛烈な批判から始まっている。曰く、分析形而上学は「人類の知へ貢献することは何もなく」、その実践者は「才能を浪費している」(p.vii)。というのも、分析形而上学の論者たちは、表向きは「自然主義」を標榜していようと、専ら科学的にはありえない前提の中で議論を進めており、その成否如何を経験ではなく直観に頼っているからである。そんな営みはもはや「客観的真理の虚心な追求と見なすことはできず、廃止するべきである」(p.vii)。以前から分析形而上学に対して不信の念を抱いていた私にとって、Ladymanらの批判は実に的確に思われ、痛快だった。

第1章で破壊的な作業が終わった後、第2章以降で建設の作業が始まる。第2章は実在論論争を主軸にしたスタンダードな科学哲学的議論。Bas van Fraassenの構成的経験論を取り上げる辺りは正直ちょっとダルいが、全体の論旨は中々面白い。第3章以降は、形而上学というよりはもはや物理学の哲学といった様相を呈している。個々の論点をすべて追うのは大変だが、議論の大筋は非常に明快である(ただし、執筆陣が異なるためか、第4章を除く)。また、関連文献が豊富なのも嬉しい。

以下、本書を読んだ上での気になった点をいくつかまとめておきたい。

【形而上学の位置付け】

本書は、形而上学を自然化する試みであるから、形而上学をどういう風に捉えるかが議論の前提として重要である。Ladymanらは、形而上学を既成の各科学の成果を綜合する営み、つまりそれぞれの科学からは区別された自律的な活動と見なしている。しかし、自然主義の精神に照らせば、むしろW. V. O. Quineのように哲学と科学を識別不可能なものと捉えた方がいいのではないか、と私には思われる。またLadymanらは、科学と非科学、および各科学分野の境界を画定するための基準として、研究費が下りそうか否か、というのを採用している(p.33)が、これはかなり説得力を欠く。この二点は次のように関連している。すなわち、Ladymanらは形而上学を、各科学が一旦成立してから遅れてやってくる世話役のように捉えている。しかし科学史を振り返ってみれば、fruitfulな科学はむしろ形而上学的思弁と協働しているのが分かる(この歴史解釈には異論があるかもしれないが、私の読みはそうである)。そして各科学の境界も、こうした思弁の中で徐々に出来上がっていく。

一旦科学の成果が出揃うまで待てという制約は窮屈過ぎるように思われるし、哲学と科学との間に余計な弁別を導入している。これは、自然主義の精神に適っているとは言い難いのではないか。これがLadyman & Rossに対する私の最も大きな不満点である。すなわち、既存の科学を固定化しようとするモメントが強すぎるのである。

【Real Patternsについて】

Ladyman & RossのOSRにおいて不可欠な役割を担うのが、Real Patterns (RP)の理論である。RPと言えばもともと、哲学者Daniel Dennettが同名の論文の中で、人間の志向状態——「信じる」や「欲する」といった——の存在論的身分を明らかにするために粗描した理論である。[1] ただし、Dennettの理論は人間の志向状態に留まらず、存在者一般に関する理論であって、志向状態はその一例に過ぎない。そういう意味で、RPは一つの存在論である。Dennettの論文では必ずしも明確ではないものの、RPによれば、存在する一切のものは「パターン」である。[2] パターンとはデータの規則性である。あるデータにパターンが存在するためには、そのデータが圧縮可能でなければならない。例えば、0と1が交互に32回繰り返すデータは、「0と1を32回交互に繰り返せ」と命じるプログラムに圧縮可能である。他方で、0と1の全くランダムな羅列は、圧縮不可能である。つまり、前者にはパターンがあるが後者にはパターンがないのである。さて、パターンには、実在するパターン単なるパターンとがある、というのがDennettやLadyman & Rossの共通の主張である。しかし、DennettとLadyman & Rossとでは、あるパターンが実在するパターン、つまりRPであるための必要十分条件が異なる。以下、この点を敷衍してみたい。

まずDennettの定式化を見てみよう。

[A] pattern exists in some data—is real—if there is a description of the data that is more efficient than the bit map, whether or not anyone can concoct it. [3]

なお、ここで言われている「ビットマップ」とは、圧縮率0のデータ記述である。さて、ここで重要なのは、何を以てあるデータの記述を「効率的」(efficient)と見なすか、である。パターンの実在性の要件が問題になっているのであるから、効率性をデータの「圧縮率」と解すことはできない。というのも、効率性が単に圧縮率の問題であるなら、ノイズの混入を犠牲にいくらでも圧縮率を上げることができ、パターンが存在するか否かが客観的な事実ではなく記述者の都合のみによって決まることになってしまうからである。それではRPの要件として不適格である。ではDennettの考えはどうであろうか。彼はパターンがリアルであるための必要条件として、「成功する予測をもたらす」ことを考えているようである。RP論文の中で彼は、もしあるパターンに賭けることによって儲けることができるならば、そのパターンはリアルである、と述べている。したがって、先の定式化におけるデータ記述の「効率性」を、「予測が上手くいくこと」と解釈することによって、彼のRPの二つの(一見異なるように見える)特徴付けを同一視することができる。

しかし、単に予測を促進するというだけではまだRPの条件として弱い。つまりこれではまだ十分条件とは言えない。というのも、Dennettは別の論文の中で次のような議論を展開しているからである。[4] すなわち、我々は温度計に対して志向姿勢(ある対象を、志向的な主体と見なすデータ記述の様式)を採ることが可能である(例えば「温度計は部屋が25度であることを望んでいる」、「温度計は今部屋が20度であると思っている」、などと解釈することによって)が、チェスを指す高性能コンピュータに対しては、我々は、予測力を削ぎ落とさないためには志向姿勢を採らざるを得ない。言い換えれば、我々はチェスの試合においては「志向姿勢」というデータ圧縮の様式を放棄することができないのである(さもないと相手の次の一手を読む能力を大幅に失ってしまう)。ここで言われている「圧縮の放棄不可能性」——あるいは「さらなる圧縮の不可能性」と読み換えても良い。もし予測力を削ぎ落とすことなくさらなる圧縮が可能であるならば、当該圧縮は放棄可能であるから、対偶を取って「圧縮が放棄不可能」⇒「さらなる圧縮が不可能」。逆に「さらなる圧縮が不可能」⇒「圧縮が放棄不可能」も明らかに成立する——は、単に「成功する予測をもたらす」よりも強い条件である。

問題は、「誰にとって放棄不可能」であるか、である。これはあるパターンがリアルであるための十分条件は何か、という問題である。この点についてDennettの記述は一貫していない、というのがLadyman & Rossの本書における指摘である(p.206)。というのも、DennettはRP論文の前半では「物理的に可能などんな計算機によっても放棄不可能」という条件を想定しておきながら、同じ論文の後半では「我々人間によって放棄不可能」であることを想定しているようだからである。ある箇所では、放棄不可能性を記述者のノイズ許容度にさえ相対化させてしまっている、とLadyman & Rossは指摘する(p.206)。これでは放棄不可能性の条件がないのと実質的に等しい。Ladyman & Rossに言わせれば、圧縮の放棄不可能性を、恣意的に制限された状況における、恣意的に選ばれた計算機(特定の人間集団のような)の推論力に相対化させてはならない(p.208)。彼らによれば、このような解釈は道具主義を招く。パターンがリアルであるための十分条件としてはむしろ、「物理的に可能などんな計算機によっても放棄不可能」とするべきである、と彼らは言う。Dennett自身の最初のRPの定式化における、"whether or not anyone can concoct it"というフレーズも、このように解釈しない限り首尾一貫しないだろう。というのも、この一節は「どんな人間や計算機も未だ発見していないRPが存在し得る」ということを含意しているからである。

以上の考察を踏まえて、Ladyman & Rossは独自の用語法に基づいた新たなRPの必要十分条件を次のように与えている(p.233)。

[A] pattern x → y is real iff
(i) it is projectible; and
(ii) it has a model that carries information about at least one pattern P in an encoding that has logical depth less than the bit-map encoding of P, and where P is not projectible by a physically possible device computing information about another real pattern of lower logical depth than x → y.

もし私の理解が正しければ、ここでパターンが写像「x → y」と見なされているのは、ある計算機によるパターンの予測計算によってパターンが再帰的に定義されているからである。xが観測されるパターンであり、yは、xをシミュレートする計算機が出力するxについての予測計算の結果である。y自身もまたパターンであり、これをさらに別の計算機がシミュレートして、それについての予測計算の結果zを出力する。実在性の関係は推移的なので、x→y、y→zがリアルであればx→zもまたリアルである。定義を構成する基底ケースは、xが何であるか言えず、ただ「指をさす」ことしかできない状況だそうである(p.226)。以上より、xが何であるか言えない「物自体」のケースから始まって、xを観測するy、yを観測するz、という風に次々とRPが構成されていく。x → yがprojectibleとは、平たく言えばxをシミュレートしなかった場合よりも高い確率でxを正しく予測できる、ということである。要するに、Dennettの論文にあった「成功する予測をもたらす」という条件をより精緻にしたものである。条件(ii)にあるlogical depthとは、Charles Bennettによって提案された複雑さの指標である。[5] この条件が述べているのは、「物理的に可能などんな計算機によっても、さらなる圧縮が不可能」という条件と実質的に同じことである。以上により、Ladyman & RossはRPの必要十分条件を与えている。

本書におけるLadyman & Rossの中心テーゼは、この世界に存在する一切は、上のように定式化されたRPである、というものである。パターンとはデータにおける関係の構造であるから、このパターン一元論こそがOSRに相当する。こう考えれば、上のようなややこしい定義を導入しなければならなかった必然性も見えてくる。すなわち、パターンは個物ではないので、それを観測する計算機から切り離して考えることができない。ゆえに、観測されるパターンと観測するパターンとの関係から、再帰的に「パターン」を定義するしかないのである。結局、存在する一切はパターンということで、パターン同士がお互いを計算し、お互いの振る舞いを予測しようとしている、という世界像が帰結する。Ladyman & Rossはこの世界像をRainforest Realismとも呼んでいる。これは、存在論はなるべく小さい方が良いという意味で「砂漠」を勧めていたQuineの比喩にあやかったものである。Ladyman & RossのOSRは、存在論的還元主義とアトミズムに立脚するQuineの砂漠とは対照的に、観測の粗さの様々なスケールでの多様な実在を認める熱帯雨林だというわけである。

さて、私は次の疑問を提起してみたい。すなわち、Ladyman & Rossの熱帯雨林は彼らが言うほど果たして緑豊かであろうか?上でみたように、Ladyman & Rossは圧縮の放棄不可能性を人間の計算力に相対化するDennettによるRPの定式化(以下、RP1)を「道具主義的」と見なして批判している。これは、あるパターンがリアルであるか否かが、(彼ら曰く)客観的な事実ではなく恣意的ないし偶然的な要素によって決まることになってしまうからである。しかし、結果として「物理的に可能などんな計算機によっても圧縮が放棄不可能」であることを要求するLadyman & Rossの定式化(以下、RP2)の方が道具主義的であるように私には思われる。というのは、RP2の必要十分条件は厳し過ぎるからである。彼らの基準をクリアするパターンに保証されるリアルさの度合いは確かに強いけれど、基準から漏れるものがあまりにも多いのではないか。例えば、RP1では、心に関する消去主義はアプリオリに偽である。なぜなら、志向状態についての語りは我々人間にとって放棄不可能だからである。しかし、RP2に従えば、消去主義は経験的に検証するべき主張である(p.207)。言い換えれば、将来的に志向状態についての語りよりも効率的な——projectibleでかつlogical depthが低い——圧縮が発見されれば(神経生理学的な記述であれ何であれ)、志向状態についての語りは放棄可能になる、というわけである。これが道具主義でなければ一体何であろうか。ゆえに、OSRは実在論である以上、DennettのRP1の方がその定式化に適しているように思われる。RP2に基づくLadyman & RossのOSRは、熱帯雨林実在論と言いつつも、その内実、基礎物理学が明らかにするパターン以外のパターンに正当な実在性を付与していないのではないか(彼ら自身によるその否認にも関わらず。本書pp.242-243参照)。結局、彼らの実在論は熱帯雨林というよりは精々、永久凍土なのではないか、という疑念を持たざるを得ない。

【最後に】

以上、私はLadyman & Rossの立場を散々批判的に扱ってきたけれど、裏を返せば、それだけ批判する価値があるということである。私は、彼らのある種ラディカルとも言える自然主義の精神には強く共鳴するし、OSRについても、まだまだ曖昧な点や難点もあるとは言え、非常に興味深く魅力的な考え方だと思っている。だからこそLadyman & Rossとの差別化を図ることによって自分の考えを明確化し、理解を深めることができる。この分野の今後の動向にも是非注目していきたい。[6]



[1] Dennett, Daniel. 1991. "Real Patterns." The Journal of Philosophy 88 (1): pp.27-51.

[2] Rossが、"it's real patterns all the way down"というスローガンを私信でDennettに伝えてみたところ、熱の込もった賛同を得たという。本書p.228参照。

[3] Dennett, op. cit., p.34.

[4] Dennett, Daniel. 1971. "Intentional Systems." The Journal of Philosophy 68 (4): pp.87-106.

[5] Bennett, Charles. 1990. "How to Define Complexity in Physics, and Why." in Wojciech Zurek ed., Complexity, Entropy and the Physics of Information, pp. 137-48. Boulder: Westview.

[6] 早速、今年の3月にOSR提唱者の一人、Steven Frenchの新著The Structure of the WorldがOxford University Pressから出版されるようである。

2013年3月16日土曜日

【メモ】 アインシュタイン―物理学と形而上学 (細川亮一)

【第一章 第一節 運動と変換】

「私が光線を光速度c(真空中の光速度)で追いかけるとすれば、私は静止した、つまり空間的に振動している電磁場としてその光線を知覚するはずだろう。しかし経験に基づいても、マクスウェルの方程式に従っても、そのようなことがあるとは思えない」
(Paul Schilpp, Albert Einstein: Philosopher-Scientist, p.52)
→ アインシュタインの有名な光のパラドックスの思考実験。この思考実験から「光線を光速度cで追いかけることの不可能性」が導かれる、と解釈されるかもしれないが、この解釈は誤っている。光速度が限界速度であることは、経験からもマクスウェル方程式からも帰結しない。後者が教えるのは、光が電磁波であり、真空中を一定速度cで伝播することであり、前者が教えるのは、相対的に一様な並進運動をする座標系では同一の自然法則が成り立つ、ということ(相対性原理)である。問題はむしろ速度の合成にある。光をcより小さい速度で追いかけたとすれば、光はcより遅く伝播しているように見えるだろうか。このように問えば、cが光の限界速度であると仮定してもパラドックスが解消しないことが分かる。というのも、もし観測者がcより遅い速度で伝播する光を知覚できれば、その情報に基づいて自分が(静止座標系ではなく)一定の速度で一様な運動をする座標系にいると判断できてしまい、相対性原理を破ることになるからである。「光のパラドックスは、ガリレイ変換による速度合成の法則と光速度一定の原理との両立不可能性に由来する。」(p.26)

【第一章 第二節 ローレンツ理論との格闘】

「ただ一つの原理的な意味でこの理論[ローレンツの静止エーテルの理論]は満足させるものに思えなかった。この理論は一定の運動状態の一つの座標系(つまり光エーテルに対して静止している座標系)を、それに対して運動しているすべての座標系に対して特別視しているように見えた。……この堪え難いと感じられた原理的な困難に特殊相対性理論は負っている」(Collected Papers Vol. 7, p.373)

「静止エーテルが存在する、とは物理的に何を意味するのか。この仮定の最も重要な内容は次のように表現される。それに対してあらゆる光線が真空中で普遍的速度cで伝播するような一つの座標系(ローレンツ理論において『エーテルに対して相対的に静止している系』と呼ばれる)が存在する。このことは、光を放射する物体が静止しているか運動しているかに依存せず成立する。この命題を我々は光速度一定の原理と名付けよう」(Collected Papers Vol.3, p.430)
→ ローレンツの静止エーテルの理論が表現している物理的内容を、余計なエーテル仮説を消し去って純化すれば、光速度不変の原理になる。実際アインシュタインは、ローレンツのこの理論から、核心を剔出することによって光速度不変の原理に達したと思われる。

「特殊相対性理論が古典力学と異なるのは、相対性の要請によってではなく、真空中の光速度の一定という要請によってだけである」(Collected Papers Vol.6, p.285)

【第一章 第三節 ヒュームとマッハ】

「ヒュームの『人間本性論』を私は相対性理論を見出す直前に熱意と賛嘆の念をもって研究しました。この哲学的研究なしに私が解決に達しなかったかもしれないということは、大いにありうることです」 (Collected Papers Vol. 8, p.229)

【第二章 第四節 時間】

「例えば『列車が七時にここに到着する』と私が言う場合、『私の時計の短針が七を指すことと列車の到着が同時刻の出来事である』ということを意味する」(Collected Papers Vol. 2, p.278)

ここで重要なのは、時間を「時計の短針が七を指す」という出来事としていることである。このことによって、或る出来事(列車の到着という出来事)の時間(時刻)を語ることは、同じ場所での二つの出来事の同時刻性として捉え返される。時間の問題が出来事同士の関係という次元に置かれたのである。それによって、時間はそれ自身独立・自存の存在でなく、出来事同士の関係となる。時間の問題を二つの出来事の同時刻性へ還元することは、「時間は出来事の基準枠であり(座標という幾何学的な絶対性)、出来事から物理的に独立である(物理的な絶対性)」という絶対時間を否定する最初の決定的な一歩である。(p.74)

アインシュタインによる時間間隔の定義→
「一つの光線がA時間tAにおいてAから出発しBへ向かい、B時間tBにおいてBでAに対して反射され、t'AにおいてAに戻るとしよう。もしtB-tA=t'A-t'Bであるならば、定義として二つの時計は同調している」(Collected Papers Vol. 2, p.279)
→ もしtA-tB>t'A-tB、あるいは同じことだがtB>(t'A-tA)/2であれば、時計Bは時計Aより進み過ぎている。逆にtA-tB<t'A-tB、すなわちtB<(t'A-tA)/2であれば、時計Aが時計Bより進み過ぎている(これは二つの時計のテンポが合っていない、という意味では必ずしもない。テンポは同じでも、一方の時計が他方より常に一定の間隔だけ遅れている、ということもありうるからである)。

「我々はさらに経験に従って、2AB/(t'A-tA)=cという量が普遍定数(真空中の光速度)であると設定する」(ibid.)
→ AB(AとBの間の距離)は「ユークリッド幾何学の方法を使って剛体によって」(Collected Papers Vol. 2, p.277)測定できる。そして光速度は常に一定である。この二つの量を使って初めて時間間隔(t'a-tA)を、測定可能な量として定義できる。すなわち2AB/cである。

長さと時間の相対性→
「静止した剛体の棒が与えられているとする。この棒は、同様に静止した物差しによって測定されたとき、長さlである。我々は棒の軸が静止系のX軸に沿って置かれ、棒がその上を一様な並行並進運動(速度v)でX軸に沿って座標Xが増加する方向に運動していると想定する」(Collected Papers Vol. 2, p.290)
→ この場面設定で棒の長さが問われるが、(a)運動している棒とともに運動している観測者にとっての棒の長さ(運動系における棒の長さ)と、(b)静止している観測者にとっての棒の長さ(静止系において運動している棒の長さ)が一致しないことを見る。相対性原理より、(a)の長さはlである。問題は(b)の方。運動している棒の両端(AとB)に時計を取り付け、これら二つの時計がそれぞれ静止系の時計と(静止系のある瞬間において)合わせられていると想定する。時刻tAにおいてAから光線が出発し、時刻tBにおいてBで反射され、時刻t'AにおいてAに戻るとする。そして静止系において測定した運動している棒の長さをrABとする。

静止系から見ると、Aを出発した光線がBに着くまでに、Bは(tB-tA) *v[vは運動する棒の速さ]だけ進んでいる。それ故、光線はrAB+(tB-tA)*vの距離を伝播しなければならない。光速度=(光路/(時間間隔)であるから、c={rAB+(tB-tA)*v/(tB-tA)}。c(tB-tA)=rAB+(tB-tA)*v。(tB-tA)(c-v)=rAB。それ故、tB-tA=rAB/(c-v)。次にBで反射されAに戻る場合を考える。光線がAに戻る間に、Aは(t'A-tB)*vだけ、光線に向かって進んでいる。それ故、光線はrAB-(t'A-tB)*vの距離を伝播することになる。右と同様にして、t'A-tB=rAB/(c+v)。tB-tA=rAB/(c-v)とt'A-tB=rAB/(c+v)から、tB-tA≠t'A-tB。このことを「運動している棒とととも運動している観測者」(運動系)から見ると、Aの時計とBの時計は同調していないことになる。運動系から見て、二つの時計が同調しているとは、tB-tA=t'A-tBが成り立つことを意味しているからである。(p.78)

「自然法則の単純性が客観的な性格を持つこと、それが単に思惟経済の問題であるだけではないことを、私はあなた[アインシュタイン]と同様に信じます。極度の単純性と美を持った数学的形式へと自然によって導かれるとき、……それがである、つまりそれが自然の真正な性格を表現している、と人は信じざるを得ません。」(Werner Heisenberg, Der Teil und das Ganze pp.98-99)

【第二章 第五節 相対性原理と光速度一定の原理】

一般的な解説書において、相対性原理は(a)「自然法則はすべての規準系(慣性系)において同一の形で表される」とされ、光速度一定の原理は(b)「すべての規準系(慣性系)において真空中の光速度は同じ値を取る」と説明されている。(p.93)

光速度一定の原理を(b)とすることは、「すべての規準系において」という形で、相対性原理を密輸入している。(p.94)
→ (b)の定式化に従えば、光速度不変の原理だけからローレンツ変換を導けてしまう。

特殊相対性理論を特殊たらしめているのは何か。それは慣性系といった特殊な座標系への言及ではなく、二つの座標系の特殊な関係、すなわち「相対的に相互に一様な並進運動をしている」という関係である。(p.97)
→ (a)のように慣性系といった規準系への指示を含ませることは、相対性原理が慣性の法則を前提することになり、原理の次元を失うことになる。

相対性原理は規準系への指示を含まず、二つの座標系の関係とその同等性のみを語るだけだから、相対性原理だけでは規準系(自然法則が最も単純な形となる座標系、「電気力学」論文の言葉で表現すれば「静止系」)を決定しえない。では規準系はいかにして決定されるのか。光速度一定の原理こそが、規準系=静止系を決定する。(p.98)
→ 光速度不変の原理が、ローレンツの静止エーテル理論に由来することを想起せよ。つまり、「それに対してあらゆる光線が真空中で普遍的速度cで伝播するような一つの座標系」が世界に存在することを、光速度不変の原理は要請しているのである。

[厳密に言えば]特殊相対性理論は非慣性系(加速度系)に対しても妥当する。つまりある悲慣性系において成立する自然法則(それがいかに複雑な形であろうと)は、「その非慣性系に相対的に一様な並進運動を他の非慣性系」において同じ形で成り立つ。(p.301n)

ガリレイにおいて慣性の法則は理想化された実験(思考実験)によって導かれる。物体が斜面下方へ加速運動することと斜面上方へ減速運動することから、加速と減速の原因を取り除けば(つまり斜面ではなく水平な平面での運動においては)、物体は加速も減速もしない一定の速度で運動するだろう。しかしガリレイが想定している水平な平面は地球の表面(つまり球面)である。彼にとって加速は地球の中心へ向かう加速であり、中心を持った地球座標系を、つまり「上方・下方という空間の非等質性」を前提としている。さらにガリレイにおいて慣性の法則は加速・減速の原因がない極限事例、つまり加速度運動の法則の特殊な場合にすぎない。(p.103)

[ニュートンにおいて]慣性の法則は水平運動に限定されず一般化され、空間の等質性が認められている。一般化されえたのは、ガリレイの運動学が地上での現象に限定されていたのに対し、ニュートンの力学が天文学へと拡張され、地球座標系から自由になったからである。(p.103)

ニュートンは慣性の法則を第一法則とし、運動方程式を第二法則とした。これに対して、慣性の法則は加速度の法則の特殊な場合(外力がない場合)にすぎず、独立の法則として認める必要がない[のではないか]、という疑問が生じる。……しかしこうした理解は、地球座標系を自明視したガリレイと同様に、規準系の存在を自明視し、規準系の決定という問題を見ていない。つまり加速度の法則がいかなる座標系(規準系)において成り立つのか、という問いを忘れている。ガリレイの相対性原理における静止・運動は地球座標系に対する静止・運動であった。しかしニュートンの相対性原理における「静止している空間」は地球座標系に対する静止ではなく、絶対空間に対する静止を意味する。ニュートンは地球座標系から自由になることによって、規準系(時空座標)の決定という問題に直面する。だからこそ彼は絶対時間・絶対空間を導入したのである。(p.104)
→ オイラーは、慣性の法則は運動方程式の特別なケースに過ぎないことを数学的に示したが、彼には規準系の決定という核心的な問いが抜け落ちている。「我々は法則を持っているが、しかしいかなる枠に法則を準拠させるべきかを知らない」(The Evolution of Physics, p.222)

第一法則(慣性の法則)が決定する規準系(座標系)において、初めて第二法則(運動方程式)が成り立つのであって、第二法則の特殊な場合として慣性の法則が成り立つのではない。(p.104)

光速度一定の原理は静止系(規準系)を決定するだけでなく、同時に座標変換に対する不変量として座標間の変換の形を決定することによって、相対性原理に物理的な意味を与えるのである。(p.106)

ローレンツ変換を導くためであれば、ローレンツやポアンカレがしたように、マクスウェルの方程式を不変に保つ変換式を求めるという仕方でも可能である。とすれば変換に対する不変量をマクスウェルの方程式とするか、光速度一定とするかは、ローレンツ変換式を導出するという点に関しては違いがない。しかしマクスウェルの方程式は光速度一定の原理を含むが、光速度一定の原理はマクスウェルの方程式を論理的に前提していない。つまり光速度一定はマクスウェルの方程式より内包量が少ない。この点に光速度一定を不変量とすることの優位がある。(p.107)

Maxwell's equations imply the "Lorentz group," but the Lorentz group does not imply Maxwell's equations. The Lorentz group may indeed be defined independently of Maxwell's equations as a group of linear transformations which leave a particular value of the velocity - the velocity of light - invariant. (...) On this account it is to be expected that all equations of physics are covariant with respect to Lorentz transformations (special theory of relativity). Thus it came about that Maxwell's equations led to a heuristic principle valid far beyond the range of the applicability or even validity of the equations themselves. (Ideas and Opinions, p.346)

ここで着目したいのは「マクスウェル理論が放射のミクロ構造を提示しておらず、それゆえ普遍的に妥当しない」(Max Born, Physics in My Generation, p.104)という[アインシュタインの]認識である。この認識故に、アインシュタインはマクスウェル方程式を前提とすることができなかった。アインシュタインがマクスウェルの方程式ではなく光速度一定を不変量として選んだのは、マクスウェル理論が放棄され、光についての新しい理論(粒子であれ波動であれ粒子・波動の二重性であれ)が登場したとしても、光速度一定の原理が成り立つと考えたからである。ここに特殊相対性理論の原理理論であることの意味が読み取れる。(pp.107-108)

【第二章 第六節 原理理論としての特殊相対性理論】

相対性原理は相対主義のテーゼではなく、「自然法則の絶対主義」の宣言である。……「自然の法則がローレンツ変換に対して不変である」という「数学的に定式化された規準」を「個々の現象」(剛体の長さと時間という現象)が満たさなければならないが故に、ローレンツ収縮と時計の遅れが論理的に(演繹的に)帰結する。……つまり特殊相対性理論が要求する「自然法則の絶対主義」によって、「長さと時間の絶対性」(長さと時間が座標系に依存しない不変量であること)が打倒される。(p.122)

It will be recalled that a similar charge had been leveled, especially in the early 1920s, against the theory of relativity. This charge stemmed, at least to some extent, from a gross misinterpretation of the very name of the theory; it was claimed that, because all laws of physics are "relative" to the observer, they "depend" on the observer and that thereby the human element plays an integral part in the description of physical data - whereas, quite to the contrary, the very tensor calculus on which the theory is based vouches, so to say, for the "standpointlessness" of the laws formulated in the theory. (Max Jammer, The Philosophy of Quantum Mechanics pp.200-201)

【第三章 第八節 特殊相対性理論から一般相対性理論へ】

「これらの思想は言語の形式において生じるのではない。私が言葉で考えるのは極めて稀である。思想が生じる、そして私は後からそれを言葉で表現しようと試みる」(Einstein, quoted from Max Wertheimer, Productive Thinking, p.228n)

「書かれたり話されたりする仕方での言葉や言語は、私の思想のメカニズムにおいて何の役割も果たしていないように思われる」(Einstein, quoted from Gerald Holton, Thematic Origins of Scientific Thought, p.386)

「すでに獲得された認識の光の元では、幸運にも達成されたものがほとんど自明のように見える。そしてあらゆる聡明な学生はそれほど大きな苦労なしにそれを把握する。しかし予感に満ちた何年にもわたる暗闇での探究、それに伴う張りつめた憧憬、確信と消耗の交錯、そしてついに真理へと突き抜けること、こうしたことを知っているのは、自分自身でこれを体験した者だけである」(Mein Weltbilt, p.138)

【第四章 第十二節 人間精神の自由な創造】

「物理学者の最高の課題は、それから純粋な演繹によって世界像が獲得され得る最も一般的な基本法則を探し出すことである。こうした基本法則に通じる論理的な道はなく、ただ経験への感情移入(Einfühlung)に支えられた直観のみがある。方法論の不確実性をよりどころとして、理論物理学の任意に多数のそれ自体としては同等な体系が可能であると考えることができるだろう。この考えは原理的にも確かに正しい。しかし発展が示しているのは、すべての考え得る構成の中で唯一の構成がその都度他の構成より無条件に優越していることが明らかになる、ということである。対象の中に実際に沈潜した人は誰でも、知覚から理論の根本命題への論理的な道が通じていないにも関わらず、知覚の世界が論理的な体系を実際に一義的に規定する、ということを否定しないだろう」(Collected Papers Vol. 7, 57)

Newton, forgive me; you found the only way which, in your age, was just about possible for a man of highest thought - and creative power. The concepts, which you created, are even today still guiding our thinking in physics, although we now know that they will have to be replaced by others farther removed from the sphere of immediate experience. (Autobiographical Notes, pp.30-31)

絶対空間を想定すれば、その空間に対して静止している座標系(絶対静止系)が存在する。その座標系が慣性の法則が成り立つ座標系(慣性系K)である。確かに絶対空間そのものは観測不可能であるから、絶対空間に対して静止している座標系(慣性系K)をそれとして決定できない。しかし相対性原理によれば、その慣性系Kに対して相対的に一様な並進運動している座標系もKと同様に慣性系である。それ故慣性の法則が成り立つ座標系を決定できるとすれば、その座標系が絶対空間に対していかなる一様な運動をしているかを知りえないとしても、その座標系は慣性系である。つまり絶対空間は慣性系の存在を保証している。(p.215)

[I]nertia resists acceleration, but acceleration relative to what? Within the frame of classical mechanics the only answer is: inertia resists acceleration relative to space. This is a physical property of space-space acts on objects, but objects do not act on space. Such is probably the deeper meaning of Newton's assertion spatium est absoutum (space is absolute). But the idea disturbed some, in particular Leibnitz, who did not ascribe an independent existence to space but considered it merely a property of "things" (contiguity of physical objects). Had his justified doubts won out at that time, it hardly would have been a boon to physics, for the empirical and theoretical foundations necessary to follow up his idea were not available in the seventeenth century. (Ideas and Opinions, p.348)

加速度は絶対空間に対する加速度であり、絶対空間は加速度運動をする対象に作用する。絶対空間は慣性系における加速度に、運動の相対性に解消されない物理的な意味を与える。絶対空間は加速度運動への物理的な作用によって慣性系の優位を保証する。(p.216)

Physical concepts are free creations of the human mind, and are not, however it may seem, uniquely determined by the external world. In our endeavour to understand reality we are somewhat like a man trying to understand the mechanism of a closed watch. He sees the face and the moving hands, even hears it ticking, but he has no way of opening the case. If he is ingenious he may form some picture of the mechanism which could be responsible for all the things he observes, but he may never be quite sure his picture is the only one which could explain his observations. He will never be able to compare his picture with the real mechanism and he cannot even imagine the possibility of the meaning of such a comparison. But he certainly believes that, as his knowledge increases, his picture of reality will explain a wider and wider range of his sensuous impressions. He may even believe in the existence of the ideal limit of knowledge and that it is approached by the human mind. He may call this ideal limit the objective truth. (The Evolution of Physics, p.33)

→ クーンは『科学革命の構造』で「継起する諸理論が真理に絶えず近づき、ますます接近する」という観念を批判している。彼は言う: "There is, I think, no theory-independent way to reconstruct phrases like 'really there'; the notion of a match between the ontology of a theory and its 'real' counterpart in nature now seems to me illusive in principle." (Thomas Kuhn, The Structure of Scientific Revolutions, p.206) 実在は模写されるものではなく、逆に理論によって実在の像が構築される。ゆえに理論に依存しない実在の像などありえないし、理論が描く実在の像と実在その物との比較・対応など不可能である。しかしこの論点はいわゆる「新科学哲学」による新発見でも何でもなく、既にアインシュタインによってはっきりと認識されていた。物理的な実在を「閉じられた時計のメカニズム」になぞらえる上の引用がこれを明瞭に示している。アインシュタインにとって、理論と実在との比較・対応が不可能であるとするクーンの論点はそのまま認められる。しかし、この論点から、真理の「接近」説の否定を導きえないことは、アインシュタインの引用からも明らかである。クーンは、真理の「接近」説が真理の「対応」説を含むことを前提視しているが、その根拠が示めされていない。「「経験→理論→経験」の図式を使えば、真理の対応説がモデルとしているのは、「経験→理論」のレベルであり、「理論以前に経験に与えられた実在(あるがままの実在)」を模写する理論を真であるとする。しかし科学理論の真理は、「理論→経験」(つまり外的実証性)のうちに、そして理論そのものの性格(内的完全性)に求められる。」(p.332n)

「私のような人間の生における本質的なものは、何を思惟するか、いかに思惟するかにあるのであって、何を為すか、何をこうむるかにない」(Autobiographical Notes, p.32)

It has often been maintained that Galileo became the father of modern science by replacing the speculative, deductive method with the empirical, experimental method. I believe, however, that this interpretation would not stand close scrutiny. There is no empirical method without speculative concepts and systems; and there is no speculative thinking whose concepts do not reveal, on closer investigation, the empirical material from which they stem. To put into sharp contrast the empirical and the deductive attitude is misleading, and was entirely foreign to Galileo. (Foreword to Galileo's Dialogue Concerning the Two Chief World Systems, p.xviii)

この自由な思惟[経験から自由な思考実験、純粋思惟]が初めて、「運動する物体は、これを押す力が押すことができなくなるとき、静止する」という運動についての誤った考え(経験的な事実に直接由来する考え)を克服した。(p.225)
→ しかし純粋思惟も経験から完全に自由ではありえない。物理学の場合外的実証に晒されるという意味でのみなく、そもそも思惟の素材が経験に由来しないことはありえない、ということ。

【第五章 第十三節 自然のうちで自己を顕現する理性】

 「世界の理性もしくは世界の理解可能性についての宗教的感情に似た確信が、すべての洗練された科学的探究の根底にあることは確かである。経験可能な世界のうちで自己を掲示する卓越した理性についての、深い感情に結びついたあの確信が私の神概念を形成している。それ故普通の表現を使えば、それを汎神論的(スピノザ)と呼びうる。」(Mein Weltbild, p.171)

「私は存在者の調和の内に自己を掲示するスピノザの神を信じ、人間の運命と行動に関わり合う神を信じない。」(Carl Seelig, Albert Einstein: Eine Dokumentarische Biographie, p.187)

「科学は自然の究極的な神秘を解くことができない。それは結局我々が自然の一部であり、従って我々が解こうと試みている神秘の一部だからである。」(Max Planck, Where is Science Going?, p.217)

「たとえ[ニュートンの重力]理論の公理が人間によって定位されるとしても、そのような企ての成功は、それをアプリオリに期待するいかなる根拠もない客観的世界の高度な秩序を想定している。ここに我々の知識の発展とともにさらに強まる驚きがある。」(Breife an Maurice Solovine, p.114)

The speed of light c is one of the quantities which occurs as "universal constant" in physical equations. If, however, one introduces as unit of time instead of the second the time in which light travels 1 cm, c no longer occurs in the equations. In this sense one could say that the constant c is only an apparently universal constant. It is obvious and generally accepted that one could eliminate two more universal constants from physics by introducing, instead of the gram and the centimeter, properly chosen "natural" units (for example, mass and radius of the electron). If one considers this done, then only "dimension-less" constants could occur in the basic equations of physics. Concerning such I would like to state a theorem which at present can not be based upon anything more than upon a faith in the simplicity, i.e., intelligibility, of nature: there are no arbitrary constants of this kind; that is to say, nature is so constituted that it is possible logically to lay down such strongly determined laws that within these laws only rationally completely determined constants occur (not constants, therefore, whose numerical value could be changed without destroying the theory). (Autobiographical Notes, p.60)

→ アインシュタインにとっての理論の評価基準の一つは「内的完全性」であるが、それは、類似した構造を持った等価な諸理論の中から一つの理論が、論理的な観点から見て任意でない仕方で選ばれた場合に体現される。そしてある物理理論が論理的に任意でない仕方で構築されたとき、「自然はなぜこのようであって、別様ではないのか」、という問いへの答えになる。上の引用では、任意性のない理論とはいかなるものかについて述べられている。

「アメリカ人はまさに事実-人間であり、思想によって現実的なものを作り得ることを信じない。我々がヘーゲルを蔑視するように、アメリカ人は私流の理論物理学を蔑視する。」(Einstein, quoted from Ernst Strauss, "Assistent bei Albert Einstein" in Helle Zeit-Dunkle Zeit, p.73)

「今や彼[ベッソー]はこの奇妙な世界と別れて、私に先立って行きました。このことは問題ではありません。我々確信的な物理学者にとって過去と現在と未来の区別は、たとえ執拗であろうと、一つの幻想の意義しか持っていないのです。」(Einstein, quoted from Max Jammer, Einstein and Religion, p.161)

【第五章 第十四節 物理学は一種の形而上学である】

確かにアインシュタインの立場は実在論であるが、それがいかなる実在論であるかが問題である。「物理学は存在者を、知覚されていることから独立に思惟されるものとして概念的に把握しようとする努力である。この意味において物理学的に実在的なものが語られる」(Autobiographical Notes, p.80)。「知覚されていることから独立に」という言葉は、実在が直接に(知覚的に)捉えられるという素朴実在論を否定している。実在は「思惟されるもの」、つまり理性(人間精神の自由な想像としての物理理論)によって初めて把握される。それ故理論が構築する実在の像は、理論と独立な実在(いわゆる「形而上学的実在」)と比較することなどできない。この意味での真理の対応説は否定される。しかし物理理論から演繹された諸帰結が経験の多様性を包括すること(外的実証性)のうちに、理論の有効性(真理性)がある。……このようなアインシュタインの実在論(さらに形而上学)を、カント哲学に接近したパトナムの「内在的実在論」と比較検討することは、極めて興味深い作業となるだろう。」(pp.342-343n)

In short, I shall advance a view in which the mind does not simply 'copy' a world which admits of description by One True Theory. But my view is not a view in which the mind makes up the world, either (or makes it up subject to constraints imposed by 'methodological canons' and mind-independent 'sense data'). If one must use metaphorical language, then let the metaphor be this: the mind and the world jointly make up the mind and the world. (Hilary Putnam, Reason, Truth and History, p.xi)

In short, I suffer under the unsharp separation of Reality of Experience and Reality of Being. You will be astonished about the "metaphysicist" Einstein. But every four and two-legged animal is de facto in this sense metaphysicists. (Einstein, quoted from Gerald Holton, Thematic Origins of Scientific Thought, p.386)

→ Reality of Experienceは感性的経験の実在性、Reality of Beingは概念の実在性。この区別が形而上学的であるからことを知っていたからこそ、アインシュタインは自身が「形而上学的な原罪を犯している」(Paul Schilpp, Albert Einstein: Philosopher-Scientist, p.673)と語るのである。

「遥かに健全な精神を持っていた彼[カント]の先行者ヒュームを読むほど素晴らしいわけではないとしても、ともかくカントを読むことは非常に魅力的です。」(Albert Einstein, Hedwig und Max Born Briefwechsel 1916〜1955, p.25. cf. Collected Papers Vol. 8, p.346)

「剛体はその位置可能性に関して、三次元ユークリッド幾何学の物体のように振る舞う。その場合ユークリッド幾何学の命題は、実際上の剛体の振る舞いについての言明を含む。/このように補足された幾何学は明らかに一つの自然科学である。我々は幾何学をまさに物理学の最も古い部門と見なすことができる。」(Mein Weltbild, p.121)

「人間の真の価値は第一に、いかなる程度においていかなる意味において彼が自我からの解放に達しているか、によって規定されうる。」(Mein Weltbild, p.10)

「この領域において成果豊かな歩みを集中的に経験する者は、存在者の内に自己を顕現する理性に対する深い崇拝の念に囚われる。彼は理解の道を通って個人的な願望と希望の鎖から解放され、存在者の内に具現化されその究極の深みにおいて人間には近づきえない理性の偉大さに対する、心の謙虚な態度に至る。この態度は最高の意味において宗教的であると私に思われる。こうして科学は、宗教的動機を擬人主義的な残骸から純化するだけでなく、人生観を宗教的に超俗的にすることにも貢献する、と私に思われる。」(Aus meinen späten Jahren, p.47)

2013年3月2日土曜日

アインシュタインの特殊相対性理論に至るまでの流れ

  • 1881年 Michelsonによる干渉計の実験
  • 1887年 MichelsonとMorleyによる、より精密な干渉計の実験
  • 1892年 Lorentzが論文「地球とエーテルの相対運動」("Die relative Bewegung der Erde und des Äthers")で収縮仮説を発表
  • 1895年 Lorentzが著書『運動物体における電気的・光学的現象の試論』(Versuch einer Theorie der elektrischen und optischen Erscheinungen in bewegten Körpern)で、座標系に対してMaxwell方程式を不変に保つために、時間のずれを導入。しかし、彼はエーテル内部で運動する物体の収縮は現実に起こると考えたものの、時間のずれは実在するとは考えず、あくまで計算上の便法と捉えた。本当は電磁場の強度として現在の値を使うべきなのだから、エーテル内部を運動している効果はどこかに現れるはず、というのがLorentzの解釈だったように思われる。
  • 1904年 Lorentzが論文「光速度に達しない任意の速度で運動する系における電磁現象」("Electromagnetic phenomena in a system moving with any velocity smaller than that of light")を発表。本論文はLorentzの収縮仮説のいわば決定版。本論文の中でLorentzは、それまでは第一近似の程度、つまり真空中の光速度に対する運動物体の相対速度の比v/cが一次の量として現れる範囲に限っていたのに対し、二次の量(v^2/c^2)にも拡大。
  • 1905年6月5日 Poincaréが論文「電子の力学について」("Sur la dynamique de l'electron")を発表。Poincaréが本論文を書く上で、天啓を得るきっかけになったのは、上の1904年のLorentzの論文であると思われる。Lorentzはその論文(および1895年の著書)で、変換後の時間座標を現実の時間と対比して「局所時間」(Ortzeit)と呼んだが、彼はそれをあくまで計算のために便宜的に導入された変数と見做し、現実の時間とは別であると考えていたようである。Poincaréはこの解釈に反対し、そもそもMaxwell方程式では運動と静止が原理的に区別できない、つまりMaxwell方程式は相対性原理を満たしているのではないか、と考えた。しかし、この時点ではこの考えを厳密な理論としては展開していない。また、Lorentzが導いた座標系間の変数変換が「Lorentz変換」と初めて呼ばれるのは、Poincaréによる本論文においてであり、以後この呼称が定着する。
  • 1905年6月30日 Einsteinが論文「運動物体の電気力学」("Zur Elektrodynamik bewegter Körper")を発表。この時点でEinsteinが依拠しているのは専らLorentzの1895年の著書であって、まだ1904年の論文を読んでいない(1913年、Blumenthalによって編集された論文集『相対性原理』(Das Relativitätsprinzip)に、「電気力学」論文が再録されているが、そこにEinsteinが付けた註によって分かる)。本論文でEinsteinは、相対性原理と光速度不変の原理という(一見矛盾する)二つの原理から出発して、ガリレイ変換を書き換える(二つの原理が矛盾しているように見えるのは、我々がニュートン力学で知っている速度合成の法則、つまりガリレイ変換を前提にして考えているからであって、これを破棄さえすれば、二つの原理は矛盾しないことが分かる。相対性原理はガリレイ変換を必然的に含むわけではない)。

参考文献 

細川亮一 『アインシュタイン―物理学と形而上学』 創文社、2004年
吉田伸夫 『思考の飛躍―アインシュタインの頭脳』 新潮社、2010年

2013年2月26日火曜日

【メモ】 Programming the Universe: A Quantum Computer Scientist Takes on the Cosmos (Seth Lloyd)

グッとくる文章だけ引用。

The quantum-computational nature of the universe dictates that the details of the future are intrinsically unpredictable. They can be computed only by a computer the size of the universe itself. Otherwise, the only way to discover the future is to wait and see what happens. (p.4)

After the first controlled-NOT, the demon's bit is perfectly correlated with the state of the gas bit. That is, the demon now "knows" the value of the gas bit. More precisely, as far as the demon is concerned, the entropy of the gas bit is zero, because it is conditioned on the state of the demon's bit after the operation, a state the demon knows. (pp.95-96)

マックスウェルのデーモンの思考実験では、デーモンを物理的なシステムとすると、必ず気体の系と相互作用しなければならなず、相互作用の過程(ここではcontrolled-NOTの演算)の前後を通して、気体粒子に関する情報が必然的に(デーモンの中で)保存される、ということ。だからデーモンを含めた系全体として見れば、エントロピーは減少していない。

Even if the underlying laws of physics were fully deterministic, however, the computational ability of simple systems such as colliding spheres implies that to perform the type of simulation Laplace envisaged, the calculating demon would have to have at least as much computational power as the universe as a whole. Since, as we shall see, computational power requires physical resources, Laplace's demon would have to use at least as much space, time, and energy as the universe itself. (p.98)

The reason [that bigger things tend to behave more "classically" and less quantum-mechanically] lies not so much with the physical size of the objects as with its visibility. The bigger something is, the more interactions it tends to have with its surroundings, thus the easier it is to detect. In order to go through both slits at once and produce the interference pattern, a particle must pass through the slits undetected. (p.107)

All that is required to destroy the interference pattern is for some system, no matter how small, to get information about the position of the particle. (...) It is now clear why big things tend to show up in one place or another, but not both. Pebbles, people, and planets are constantly interacting with their surroundings. Each interaction with an electron, a molecule of air, a particle of light tends to localize a system. Big things interact with lots of little things, each of which gets information about the location of the big thing. As a result, big things tend to appear here or there instead of here and there at the same time. (p.108)

The process by which the environment destroys the wavelike nature of things by getting information about a quantum system is called "decoherence." (p.108)

The information about which slit the particle went through infects first the detector, then me. If I write you a letter telling you whether or not I heard a click, then when you receive the letter your relative state will reflect what happened: |Seth wrote me to say he heard a click> or |Seth wrote me to say he didn't hear a click>. Now you have become entangled with the particle, the detector, and me. After the measurement, the information about its outcome spreads to infect whatever it comes into contact with. (p.122)

because the behavior of elementary particles can be mapped directly onto the behavior of qubits interacting via logic operations, a simulation of the universe on a quantum computer is indistinguishable from the universe itself. (p.154)

To look at this from another angle, numbers produced by short programs are more likely to appear as outputs of the [programming] monkey's computer than numbers that can be produced only by long programs. Many beautiful and intricate mathematical patterns - regular geometric shapes, fractal patterns, the laws of quantum mechanics, elementary particles, the laws of chemistry - can be produced by short computer programs. (...) Algorithmically probable things are just those things that exhibit large amounts of regularity, structure, and order. (p.184)

この説明が実際の宇宙で意味を成すためには、コンピュータと猿のそれぞれの対応物が必要だが、Lloydによると、コンピュータは量子力学の法則、猿は量子ゆらぎに対応しているらしい。ということは、宇宙の発生(計算の始まり)に先立って存在していなければならないのは、量子力学の法則(あるいは重力を織り込んだ量子重力理論?)に限る、ということだろう。しかし上の引用では、量子力学の法則も、ランダムなゆらぎの結果生じるかのように書いてある。何が計算に先立っていて、何が計算の結果生じるのか、はっきりしてよLlyodさん!

2012年9月2日日曜日

【書評】 Arthur Fine / The Shaky Game: Einstein, Realism, and the Quantum Theory

Fine, Arthur. 1996. The Shaky Game: Einstein, Realism, and the Quantum Theory (2nd ed.). Chicago : University of Chicago Press.

本書の前半では、アインシュタインとシュレーディンガーの間で交わされた書簡やアインシュタインの未発表の草稿をもとに、通説とは大きく異なる、量子力学に対するアインシュタインの考え方が描かれている。後半では、アーサー・ファイン自身のNOA(自然な存在論的態度)という考え方が提示されている。NOAの適用範囲は量子力学に限られるものではないが、最後の第九章においてファインは、量子論にとって実在論が持ちうる意味についてNOAの立場から論じており、二つの(一応)独立したテーマを上手く繋げている。以下、各章の内容を簡単に紹介し、最後に気になった点を述べたい。

【第二章 若きアインシュタインと老いたるアインシュタイン】

第一章は序論に相当する短い章なので割愛する。第二章では、アインシュタインが終生量子力学に対して批判的な立場をとり続けたのは、彼が年老いていたために、量子力学の新しくラディカルな考え方をうまく把握することができなかったからだ、という通説に反駁する。ファインは、多くの科学者や科学史家によって仄めかされてきたこの通説を転倒させ、位置や運動量といった古典的な概念に拘泥するボーアら主流派の方が実は保守的だったのだと論じる。

In the end Einstein was more radical in his thinking than were the defenders of the orthodox view of quantum theory, for Einstein was convinced that the concepts of classical physics [momentum and position] will have to be replaced and not merely segregated in the manner of Bohr's complementarity. (p.24)

件の流言は、巣立とうとする量子力学を、20世紀の最も著名な科学者による鋭い批判から守るための神話だったと考えられる。アインシュタインは、量子力学を本質的に統計的なもの、つまり物理学のすべての基礎を提供する根本理論にはなりえないものとして見ていたが、それは、量子論の代わりに、一般相対論の枠組み(時空多様体とそれに沿った解析的方法)によって、量子論を統計的な近似として生じさせるような、全く新しい概念と理論的基礎を求めていたからである。

【第三章 アインシュタインの量子論批判 : EPRの由来と意義】

第三章では有名なEPRパラドックスが取り上げられる。1935年6月19日にアインシュタインがシュレーディンガー宛てに送った手紙から、このEPR論文は、アインシュタイン、ポドルスキー、ローゼンの三人による議論の末、ポドルスキーが一人で書き上げ、アインシュタインがその最終原稿を見る前に出版され、またアインシュタインが本質的と考えていた論点がポドルスキーの形式化(formalism)に埋もれてしまった、ということが明らかにされる。アインシュタインが示したかった論点はあくまで、彼が分離原理(Trennungsprinzip)と呼ぶ近接作用の原理が量子論の記述の完全性とは両立しえないということであって、いわゆる「隠れた変数」をめぐる議論や、位置と運動量の同時測定とすら関係がない。シュレーディンガーへの手紙の中でアインシュタインが提示している思考実験をファインは以下のようにまとめている。

全運動量の保存則を通して相関を保っている二つの粒子A、Bから成る系を考える。AとBが空間的に遠く離れた状態で、Aのある方向への運動量を測定する。Aについての測定結果と保存則を通してBの運動量を推論することができる。分離原理を仮定するならば、Bの運動量はAを測定する時点で成り立っていた(でないとAの測定によってBの運動量を作り出したことになってしまう)。さて、量子論の状態関数がA測定時におけるBの運動量について与える確率は1ではない。したがって、分離原理と量子論の記述の完全性は両立しえない。

つまりアインシュタインは、二つの両立不可能な変数ではなく、一つの変数の測定から得られる推論によって、コペンハーゲン解釈の主要な構成要素をなすボーアとハイゼンベルクの「擾乱」(disturbance)のドクトリンと、状態関数の完全性が両立しえない、ということを示したのである。EPR論文ではこの論点が埋もれてしまったとはいえ、ボーアはこの論文を受けて擾乱の学説を事実上撤回している(物理的な擾乱から一種の「意味論的」擾乱へとスイッチしている)。

また、最近では分離原理が量子論そのものやいくつかの実験結果と整合しないというベルらによる研究があるが、仮に分離原理を放棄しないといけないほどベルの議論が強力であったとしても(ファインはそれを否定する)、分離原理と量子論の完全性が両方成り立たないということも考えられるので、量子論の完全性が示されたことにはならない。

【第四章 アインシュタインの統計的解釈とは何か?あるいは、アインシュタインがためにベル(鐘)の定理は鳴るのか?】

第四章では、量子力学に対するアインシュタインの統計的解釈が取り上げられる。アインシュタインの統計的解釈を「プリズム・モデル」として解釈することによってファインは、ベルの不等式がアインシュタインの解釈を論駁したという通説を「希望的観測」として批判する。ファインは局所性の概念を「分解可能性(条件付き確率独立性)」、「ベル局所性」、「アインシュタイン局所性」という三つの定式化に整理し、アインシュタイン局所性は必ずしもベル局所性を含意せず、またベル局所性は必ずしも分解可能性を含意しないことを論じる。

まず、ベル局所性と分解可能性について。

In general, factorizability [conditional stochastic independence] has been offered as a mathematical expression of Bell-locality. The prism models demonstrate that is not correct. In particular, the failure of factorizability need not imply the failure of Bell-locality - as the prism models show. The results of Bell's theorem depend on factorizability. It follows that the Bell theorem does not imply the failure of Bell-locality. (p.60)

そしてアインシュタイン局所性とベル局所性について。

It [Einstein's formulation of locality] differs from Bell's just over what it is that is not supposed to be influenced at a distance. For Bell it is the outcomes of the measurements of certain quantum observables (like spin). For Einstein it is the "real, physical states." In his various writings Einstein says even less about the nature of these postulated real states than he says about his ensemble interpretation, and for good reason. He was urging others, and struggling himself, to build a new theory that would "discover" these states, i.e. invent them. Whatever these states are, they would indeed (in Einstein's conception, at least) determine the real physical variables and, most likely, the outcomes of measurement of these. But Einstein is very clear that, in his opinion, the quantum mechanical variables (the "observables") are the wrong ones. They are not the real physical variables, and that is why it is hopeless to try to complete quantum theory from within. Since these quantum variables are not real (i.e., do not correspond to the real properties of the object), there is no special reason to worry over nonlocal influences on measurement outcomes for them" (p.61)

【第五章 シュレディンガーの猫とアインシュタインの猫 : パラドックスの誕生】 

第五章ではシュレーディンガーの有名な猫の思考実験が取り上げられる。ここでのファインの論点は、観測問題と関連付けられることの多いシュレーディンガーの猫を、EPRの延長線上の、量子論の完全性をめぐる思考実験として解釈し直すことである。つまりシュレーディンガーの猫は、分離原理や局所性の仮定なしに量子論の不完全性を議論するための装置だということである。もともとシュレーディンガーは、波動関数を実在そのものの記述と考えていた(アインシュタインはこれを「シュレーディンガー解釈」と呼んでいる)が、シュレーディンガー自身もこのような立場に伴う困難に気づいていて、最終的には(Die Naturwissenscaftenに掲載された1935年の論文で)確率分布を実在の完全な記述と考える自身の元々の解釈を、猫の思考実験によって論駁し、アインシュタインの立場と軌を一にするようになっている。このことを象徴的に示す例としてファインは、1950年にアインシュタインがシュレーディンガーに宛てた手紙の中で、彼が犯してしまったちょっとした筆の誤りを紹介している。もともとはアインシュタインが自身の思考実験の中で利用したはずの「火薬」と、シュレーディンガーの猫の思考実験に登場する「青酸ガス」とを混同して書いてしまっているのである(つまり二人の思考実験は基本的に同じことを示そうとしていたのだ、という意味)。

ただ、町田茂による邦訳では、「微笑ましい書き間違い」とでも訳すべき"one delightful slip"が、「楽しそうな1枚」と訳されていて(129頁)、せっかくのオチが全く通じないようになってしまっている。町田訳にはこの他にも誤訳が多く、また全体的にも日本語が不自然なので、読む場合はなるべく原著と突き合わせて読むことをお勧めしたい。

【第六章 アインシュタインの実在論】 

EPR、アインシュタインの統計的解釈、そしてシュレーディンガーの猫はすべて量子論の「完全性」をめぐるテーマであり、「実在」の問題と密接に関わっている。第六章では実在論が明示的に扱われる。この章はまた、ファインのNOAの議論へと接続するための役割を果たす。ファインによれば、アインシュタインの実在論にとって枢要なのは観察者独立性と因果性(決定論)であり、二次的だが重要なのは空間・時間の枠組みと、それに伴う分離原理と一元論である(この点に関連して、アインシュタインがスピノザを敬愛していたという事実は興味深い)。

アインシュタインの実在論のもう一つの特徴は、通常「実在論」の名で呼ばれているオーソドックスな考え方とは異なり、真理対応説的な考え方をとらない点にある。これは、次のような記述からも明らかだろう。

The real is not given to us, but put to us (by way of a riddle) ... This obviously means: There is a conceptual model [Konstruktion] for the comprehension of the interpersonal, whose authority lies solely in its verification [Bewdhrung]. This conceptual model refers precisely to the "real" (by definition), and every further question concerning the "nature of the real" appears empty. (P.A. Schlipp, Albert Einstein: Philosopher-Scientist p.680)
It is basic for physics that one assumes a real world existing independently from any act of perception. But this we do not know. We take it only as a programme in our scientific endeavors. This programme is, of course, prescientific and our ordinary language is already based on it. (Albert Einstein, Letter to M. Laserna, Jan. 8, 1955)

ファインはアインシュタインの強調する「検証」の考え方と、ファン・フラーセンの「経験的十全性」(empirical adequacy)との親近性を指摘しているが、私はこれはミスリーディングだと思う。またファインはアインシュタインの実在論を「動機的実在論」(motivational realism)、つまり個人の科学的探究を支える心理上のスタンスとして解釈しているが、これははっきり言ってカリカチュアだろう。少なくともアインシュタイン自身がこのような解釈を聞いて賛同するとはとても思えない。これらの点については後述する。

【第七章 自然な存在論的態度/第八章 そして反実在論でもなく】

これら二章はファインの有名なNOA論文である。第七章の冒頭では実在論の「死」が宣言されるが、ここでファインの言う「実在論」は、真理対応説に基づく実在論である。他方でファインは反実在論を受け入れるかというと、そうではない。ファインによれば、反実在論も、科学や合理性や真理について何らかの統一的な「解釈」を施そうとする点において、実在論と共犯関係にある。ファインは、これら二つの相反する立場に共通する核として、我々の日常的・常識的な感覚とそれに基づく推論を挙げ、また科学と我々の日常知との連続性を強調する。ファインはこの「核」のことをcore positionと呼び、これに余計な添加物を付加しない、core positionそれ自身のみからなる立場としてNOA(Natural Ontological Attitude、自然な存在論的態度)を称揚する。第七章では主に実在論のプログラムが失敗を免れ得ない理由を論じ、第八章では様々な反実在論的立場(道具主義、パトナムの内部実在論、ローティの認識論的行動主義、ファン・フラーセンの構成的経験論など)を取り上げ、それらの問題を論じる。

【第九章 科学的実在論は量子物理学と両立できるか?】 

第九章ではNOAの立場から量子論と実在論の問題をまとめている。本書の結論に相当する章で、特に新しい内容はない。また、第二版に追加された「あとがき」についても割愛する。



【所感】

ファインの研究は、アインシュタイン理解の面においても、NOAの面においても、とにかく素晴らしいと思う。本書の前半を占めるアインシュタインの概念的伝記(conceptual biography)には説得力があり、また非常に魅力的なアインシュタイン像を提示している。NOAも、重箱の隅を突くような不毛な議論に陥りやすい現在の分析哲学に対する貴重な毒抜きの役割を果たすだろう。以下、本書で気になったところを二点取り上げたい。これら二点は密接に結びついている。

「動機的実在論」について

まず一つ目は、ファインがアインシュタインの実在論を「動機的実在論」として解釈している点である。ファインの魅力的なアインシュタイン像の中で、唯一この点だけがカリカチュア臭いのだ。ファインはアインシュタインが、理論と外界との「対応」ではなく、理論の経験的検証を重視していることを以て、ファン・フラーセンの「経験的十全性」の考え方との類似性を指摘しているが(pp.107-108)、アインシュタインの引用を見る限り、彼が言わんとしているのはむしろ、実在論への信仰自体が経験的十全性の範疇内にある、ということなのではないか。上で引用したLasernaへの手紙にあるように、アインシュタインにとって実在論は「前科学的」で、「我々の日常言語にすでに埋め込まれている」。ファインはおそらく、実在論が「非合理的」であることを以て、アインシュタインの実在論を個人の情緒の次元に還元しようとしているのであろう。ファインの次の引用はこれを如実に語っている。

In support of realism there seem to be only those "reasons of the heart" which, as Pascal says, reason does not know. Indeed, I have long felt that belief in realism involves a profound leap of faith, not at all dissimilar from the faith that animates deep religious convictions. I would welcome engagement with realists on this understanding, just as I enjoy conversation on a similar basis with my religious friends. The dialogue will proceed more fruitfully, I think, when the realists finally stop pretending to a rational support for their faith, which they do not have. Then we can all enjoy their intricate and sometimes beautiful philosophical constructions (of, e.g., knowledge, or reference, etc.) even though to us, the nonbelievers, they may seem only wonder-full castles in the air. (p.116n)

かなり狭い意味で「合理的」という言葉を理解するならば、実在論が一種の非合理的な信仰に基づくという考えには全く異論がない。しかし、非合理的=個人的とは限らない。ファイン自身も、"I too have regret for that lost paradise [correspondence to the external world], and too often slip into the realist fantasy"と述べているように(p.134)、またファインが引いているマッハの『感覚の分析』の一節にもあるように(pp.134-135)、実在への信仰は、我々人類にとってあまりにも「自然」な感覚なのではないか。アインシュタインが次のように語るとき、彼が言わんとしていているもまさにこういうことだと思う。

If you want to find out anything from the theoretical physicists about the methods they use, I advise you to stick closely to one principle: don't listen to their words, fix your attention on their deeds. To him who is a discoverer in this field, the products of his imagination appear so necessary and natural that he regards them, and would like to have them regarded by others, not as creations of thought but as given realities. ("On the Method of Theoretical Physics", in Ideas and Opinions pp.270-276)

これが、次の気になった点に繋がる。

NOAは本当に「自然」なのか

「自然な存在論的態度」を重視するという考え方には満腔の賛意を表したい。しかし、何が「自然」で何が「自然でない」のか、決して自明とは言えない。つまり、「自然な存在論的態度」を称揚する以上、「自然」と「不自然」の間に何らかの境界線を設ける必要があるが、この境界線をどこに引くべきかという問題が依然として残る。ファインはこの問題に関して少々無頓着であるように思う。NOAについて、ファインは次のように述べている。

All that NOA insists is that one's ontological attitude towards monopoles, and everything else that might be collected in the scientific zoo (whether observable or not), be governed by the very same standards of evidence and inference that are employed by science itself. (...) NOA tries to let science speak for itself, and it trusts in our native ability to get the message without having to rely on metaphysical or epistemological hearing aids. (p.150)

よろしい。しかし、どこまでが「科学」でどこからが「科学でない」のか。

On NOA's view science, as open, has no settled lines of demarcation. What counts as in or out is a judgment call depending on the community, place, time, and interests. These judgments are bound to change with varying circumstances, and they do. (p.179n)

ごもっともである。しかし、これを真剣に受け止めるならば、第九章で量子力学に対する様々な「解釈」の試み(ボーム力学、stochastic collapse理論、多世界解釈など)を批判する箇所(p.170)は、果たして妥当と言えるのかどうか疑問である。というのは、これら様々な解釈を試みている当の研究者たちは、自分は「科学」をやっているつもりで探究しているだろうから。「科学は開かれている」とする上の引用に反して、ファインの批判は、非合理的な「実在」への信仰と、合理的な科学の営みとを截然と切り分けることによって成立しているように思われる。

私の考え方とファインの考え方の根本的な違いは、core positionの領域内に、科学的探究の理想的極限としてのパース的な真理概念が含まれると考えるか否か、という点にあるように思う。ファインはこれを(アインシュタインの実在論の文脈で)否定している。

I should point out here that just as the "realist" idea of science making successively better approximations to reality is not part of Einstein's realism, neither is the pragmatist (especially Peircean) idea of defining reality (and truth) by reference to the ideal limit in which continued inquiry would (supposedly) finally result. (p.97)

しかし私は、アインシュタインの実在の考え方はむしろパースに近いのではないかと思う(今の私にこれを論証する能力はないが)。実在とは、我々がつねにすでに服してしまっている、前言語的で透明な「何か」であるはずだ。それは、真理対応説の論者たちのように言語化してしまったら、その時点で「我々」の側に回収され、本当の「実在」でなくなってしまうが、それでもなお我々の概念の背面にへばりついているものなのではないか。

真理対応説の論者たちのように、端的に「概念と外界との対応」を宣言するつもりはない。それは哲学的にあまりにも素朴過ぎる。ただ、実在への信仰は我々人類にとって放棄不可能なほど「自然」な態度なのではないか、と問うことには意味があるだろう。

2012年3月28日水曜日

【メモ】 津田一郎、『カオス的脳観 : 脳の新しいモデルをめざして』

「局所的な整合性と大局的な整合性の間に不整合が生じるときにフラストレートしたパターンが出現する。現在までの物理学で研究されてきた自己組織化過程は それを解消し論理階型を上げていく論理をその内部に持ってはいない。それに対して、生物のような情報系はそのような論理を自らの内部に構築しなければならないことが頻繁に起こる。」 (p.9)

「漸近的に3次元体積がゼロになり、2次元面上の運動より圧倒的に複雑になる運動は、2次元面がカントール集合のように重なった多様体の上の運動としてのみ理解される。多様体の厚み方向は無限個の面の断面が複雑なフラクタル構造を持つように埋め込まれ、0と1の間の次元を生み出す。」 (p.34)

「力学系のカオスは……圧縮できない無限列と圧縮可能な無限列との集合体である、ということができる。特に圧縮可能で周期的な無限列は、力学的に不安定であるので観測にはかからない。観測されるのは、圧縮できない非周期的な無限列と圧縮できる非周期的な無限列の有限部分である。」 (p.43)

「一般に2^n周期解と2^n+1周期解の近傍の様子は、見る尺度を変えてみれば等価であることがわかる。それぞれの周期解の近傍の様子を再帰的に決定する写像の関数が得られる。ちょうどカオスがでるところは、この繰り込みの操作の不動点に対応する。富田[和久]によれば、この操作はゲーデルの不完全性定理の証明の手続きとメタレベルで同型である。」 (p.44)

「アルゴリズム情報理論を使えば、不完全性、非決定性、ランダムネスはみな等価な概念としてとらえることができる。」 (p.47)

「知識体系に貯蔵されたなんらかのテンプレート(記憶の中に固定された知識やルール)との一致をみいだしたとき、我々は少なくとも問題の一部に秩序を発見したという。」 (p.52)

「初期状態の精度⊿Xと[力学系の]内的時間Tの間には、⊿XTAの不確定性関係が存在する。この不確定性関係が、初期条件と力学法則の従属関係を規定しているのである。このようにして、カオス力学系においては、初期条件を力学法則と独立には決めることができないのである。」 (p.57)

軌道に関する情報とは、二つの接近した軌道を分離して認識できるかどうかということである。このとき、
力学系の定常解が不動点や極限周期解(リミットサイクル)のような安定解である場合、情報は時間の進む方向に圧縮されていくことになる。観測者の間の情報の流れは位相空間の体積が縮む方向である。カオスのような軌道不安定性をもつものの場合、時間の進む方向と逆方向に情報は圧縮される。このことはカオスは情報を生み出すということの別の表現である。 (p.153)

「膨張宇宙の中では、時間の後に位置する世界にいる住人が常により分離された世界にいることになる。このことは、宇宙定数を我々は未来になればなるほど、細かい桁まで知るようになるということを意味する。これは観測技術の向上とは関係ないレベルの話である。むしろ宇宙定数自身の時間発展に関係する。観測技術が全く同じだとして、過去の宇宙に住んでいた人は、我々よりも粗っぽい数値しか認識できなかったであろう。これと関連して、現在、無理数と考えられている数は過去の宇宙においては、有理数であった可能性がある。もっと過去には整数であったろう。現在、計算不可能であると考えられている数も過去の宇宙では計算可能であったであろう。実数の存在は宇宙の膨張によって認識可能になったのだと考えることができるように思われる。すると、計算不可能性であるカオスは、遠い過去の宇宙では存在しなかったことになるのではないか。カオスは宇宙の進化と共に我々の前に現れたのではないだろうか。」 (pp.153-4)

「自己の確立は、反応拡散系で表現されるような自己組織過程を通じてなされるのではなく、情報的な自己言及過程を通じてなされる。」 (p.163)

「“解釈”ということが[脳の]研究プロセスにおいて、、物理学にみられるような第二義的な問題ではなく、まさに必須の第一義的な作業になるのである。この解釈の作業において、先行的理解になるのが[デビッド・]マーの言う計算論のレベルの考察である。つまり、“脳は何をしているのか”である。」 (p.194)

“動的脳観”の力学系の言葉による表現:
「自由度の大きな力学系がある。あるときは、ある部分的な自由度が活性化されそれが支配的になるが、またあるときは別の部分的な自由度が活性化されそれが支配的になる。このようなことが時空間の様々なスケールで起こりうる。そして、支配的になる自由度の再編成は、系(システム)の過去の全履歴に依存する。」 (p.202)

2011年6月12日日曜日

【書評】 新しい自然学 : 非線形科学の可能性 (蔵本由紀)

本書は複雑系の入門書である。「現代における科学的な知のあり方は相当にいびつなのではないか」という疑念を持つ著者は、「非線形科学」(nonlinear science)という分野にそのいびつさを是正する契機を求める。

従来の理論物理学はほとんど例外なく「孤立系」(isolated system)の記述に徹してきた。孤立系では外部とのエネルギーのやりとりがなく、それゆえ比較的単純な微分方程式によってその振る舞いを記述することができる。しかし、現実の現象に目を向ければ、そのような完全な「孤立系」を探す方がむしろ困難である。現実の力学系のほとんどは外部に開かれており、それゆえ複雑で予測困難なパターンを生じさせる。このような複雑な力学系を我々は「非平衡開放系」(nonequilibrium open system)ないし「非線形系」(nonlinear system)と呼ぶことが出来る。

非線形系とは、一言で言えばフィードバック制御機能を内在させたシステムである。フィードバックには正と負の二種類がある。外部から得られたフィードバック情報を頼りに、システム全体は絶えず自己修正していく。正のフィードバックによって変化が促進され、負のフィードバックによって変化にブレーキがかかる。これはシステム論で言うところの「サイバネティク・システム」(cybernetic system)にそのまま相当するだろう。このフィードバック機能が、現象を記述する微分方程式の中で「非線形項」(nonlinear term)として現れるのが、「非線形系」という呼称の由来である。(非線形項については、私もまだ完璧に理解していないので、今後も勉強して参りたいと思う)。

このような系はまた同時に、「散逸系」(dissipative system) でもある。システムが散逸的であるというのは、その振る舞いが時間に関して非可逆的であることを意味する。エントロピー増大則(これは熱力学第二法則と同値である)が示すように、自然(世界)は常にエントロピー(無秩序さの尺度)が小さい方向から大きい方向へ進む。つまり、秩序から無秩序へ、構造から無構造へ、攪乱から静寂へ至る流れは非可逆的である(例えば、一回割れたコップを元に戻すことは出来ないし、混ぜたミルクとコーヒーをそれぞれ分離して抽出することもできない)。ただし、エントロピー増大則が成立するのは「孤立系」のみという条件がある。つまり、エネルギーが外部に散逸する「散逸系」では、エントロピーがむしろ減少し、混沌から秩序が生成することが可能なのである。そこでは、微小な「ゆらぎ」(fluctuation)が正のフィードバックによって増幅され、構造の「自己組織化」(self-organization)が発生するのである。

【孤立分断的記述】

しからば、このような複雑な振る舞いをするシステムを記述するには、どのような科学描写が望ましいだろうか。しばしば反還元論者からなさられる主張として、「全体は部分の単純な総和ではない」というものがある。システムに全体として現れるパターンは、システムを構成する要素をいくら詳しく調べても見出すことが出来ないという主張である。それを無視した科学は「要素還元主義」的科学として批判される。しかし、と蔵本氏は言う。

しかし、私はこの種の議論に対しては次のことにたえず注意を払っておく必要があると思う。それは、科学における「孤立分断的記述」が「全体的記述」に安易に対比されてしまうということである。多少挑発的な言い方をすれば、科学描写であるかぎり創発的性質もまた孤立分断的に記述される以外にない。創発とは部分と全体との関係に関わる概念では必ずしもなくて、対象の切り出し方に関わる概念であると私は考えたいのである。つまり、対象を通常の意味での構成要素に分解して要素記述に集中することだけが分断的記述なのではない。(pp.35)

単なる「全体論」を唱えるだけでは、第二のオカルトに陥る危険性は免れ得ない。科学というものは本質的に「同一不変の構造」を見つけ出し、これを鋭利な刃物で切り出すものである。言い換えれば、科学という営みは、同一不変なもの以外の影響(これを「境界条件」(boundary condition)という)を無視(=制御)することによって、明晰判明さを手に入れる。制御される境界条件の程度によって、科学理論に階層性が現れる。例えば、最も単純な同一不変の構造以外のすべての境界条件を捨象するのが理論物理学であり、これに段階的に境界条件を付与していく(この作業は、下位レベルの法則=不変部分における「ブランク」=可変部分にデータを入力することによって行われる)ことによって、化学、生物学、という風に複雑性のレベルが上がっていく。このとき、記述・予測の精度がある程度犠牲になるのは避けられないが、いずれにせよ「孤立分断的記述」であることは科学であるための必要条件と言えよう。

【主語的統一と述語的統一】

蔵本氏によれば、科学が見つけ出す同一不変性には、二つの基本的カテゴリーがある。すなわち、「主語的統一」と「述語的統一」である。人間が物事を理解する時、その基本的なパターンは「何」が「どのように」あるかという形であろう。科学の言語に即して言えば、「原子」や「素粒子」などの個物の概念が主語であり、それらの関係性を記述する「微分方程式」や「法則」が述語に当たるだろう。蔵本氏は、近代西欧の科学的自然認識はあまりにも主語的統一を偏重していて、その側面だけ肥大化していると言う。日本は伝統的に述語的統一が優位な文化で、西欧文明は主語的統一が優位な文化を発達させてきたとしばしば言われるが、西欧世界に起源を持つ自然科学が、必然的に主語的統一を基軸としてきたのも十分頷ける。しかし、今や非線形科学の分野では、もっと豊かな述語的統一の契機が求められている、と蔵本氏は指摘する。それは、従来のように現象を「横」から切り取る(これが自然の階層秩序を作る)のではなく、「縦」に切り取ることを意味する。

自然の様々な異なる階層において、同一の普遍構造(関係性)が見られる、というのは珍しいことではない。その重要な一例は「対称性の自発的破れ」という概念である。対称性の破れは、物質科学のレベルでも、一分子のレベルでも、超微視的な量子論のレベルでも見られる普遍的な現象である。さらに、同じ物質科学のレベルでも、物質が液体から固体に変化する際の相転移である構造相転移から、磁気相転移や超伝導転移まで、すべて対象性の破れ現象である。これらは互いに縁が薄いと思われてきたものであるが、実はすべて共通の数学的構造を持っている。このような、共通の数学的構造(=関係性)に注目して同一不変性を切り出すのが、述語的統一による自然描写である。蔵本氏の言葉を借りれば、従来の主語的統一による自然描写が、顕在的な性質の近さに基づいているという点で「喚喩的」であるのに対して、述語的統一による自然描写は、物への密着性が弱く、それらに伏在する共通構造を探る点において「隠喩的」である。そして非線形科学は、「要素的同一不変性」から「関係的同一不変性」への重心の移動を要求しているのである。

以上が、本書の第Ⅰ章「科学描写の構造」までの議論の要約である。蔵本氏の文章はとにかく分かりやすい上に、「述語的統一」の重要性を説くその議論にも大いに納得させられた。また、創発を「境界条件」の制御に関わる概念と捉える考え方も、非常に面白いと思った。

続く第Ⅱ章「非線形科学から見る自然」では、具体的な自然現象をいくつか取り上げ、実際に非線形科学の知見から解説していくのであるが、ここでは割愛する。興味のある方は是非本書を手に取ってみて欲しい。

【言葉の魔術】

本書の第Ⅲ章「知の不在と現代」において、蔵本氏は科学哲学的な議論に足を踏み入れる。理論物理学の教授ということで、蔵本氏自身は科学哲学の知見に疎いと前置きしているが、はっきり言って彼の議論からは非凡なる哲学のセンスを感じる。

例えば「物理学と心」の問題について、蔵本氏は以下のように述べている。

日常の議論において、用語の定義をしつこく問う人はいやみである。しかしながら、意識とか実在とかのわけのわからない話ともなれば、「そのような問いでもってあなたは一体何を意味しようとしているのですか」と問い返すのが一番だと思う。これによって問題が180度方向転換し、あるいは問題の虚構性が明らかとなり、不毛な哲学的議論の多くが氷解する。素人考えだが、20世紀哲学における言語論的転回と大仰によばれることの主旨は、平たく言えばこのようなことではないかと想像する。要するに、「これまで無邪気に用いてきた言葉によって、何が意味されるかをまずじっくり反省しよう。よくよく考えてみれば、言葉の意味は言葉によって言い尽くすことはできないのではないか。最終的には、その言葉の無数の使用経験に支えられた暗黙の公共的理解しか残らないのではないか」ということである。ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」はこの事情を鮮やかに示すものではないかと思う。ともかく、心・意識というきわどい領域に接近しようとする科学者は、ありもしない問題にはまり込んでしまわないよう、十分な警戒心が必要だと思う。(pp.172-173)

全くその通りだよ。「クオリア」とか「実在」といった胡散臭い哲学的議論に対しては、常に眉に唾をつけまくってかかるべし。これが、ヴィトゲンシュタインが我々に与えてくれたはずの教訓であるが、残念ながら未だに多くの哲学者がその意味を理解できていないように思う。

あるいはこれを見よ。

科学の世界においても日常世界においても、「客観的存在」とよばれるものは、譬えていえばクロスワードパズルのマスに入るべき文字に似ている。縦のヒントから予想された文字の正しさが、横のヒントによって飛躍的に強化される。縦横に加えて、それらに直交するもう一つの次元を加えた三次元のクロスワードパズルを想像すれば、第三方向のヒントもまた、確認作業をおこなうまでもなく、きっとこの答えと整合するに違いない。自然現象の総体は、三次元ならぬ超高次元クロスワードパズルにおいて、さまざまな場所におけるさまざまな方向へのヒントの集団に譬えられるだろう。フロギストン(燃素)のように、科学史上で一時期はその存在を信じられながら、やがて捨てられる運命をたどったはかない存在も、上のモデルで解釈できるだろう。多数の独立なヒントと見事に整合する、マス中の文字に相当するものを、これまではあえて同一不変性をよび、客観的実在とはよばなかった。その理由の一つは、主観・客観の形而上学からできるだけ身を遠ざけておきかったからである。しかし、物心二元論の虚構性に捕捉される心配がなくなれば、これを客観的実在とよんでも差し支えない。それは単に、すでに述べたような意味で同一不変な事象のクラスを、約束事として客観的実在とよんだまでであって、それ以上の超越的意味をこの言葉にあたえているわけではない。科学としては、もちろんそれで十分である。(pp.177-178)

これは私の「プラグマティック実在論」を彷彿とさせる。主客二元論が虚構とまでは言わないものの、「客観的実在」には超越的な意味を付与せず、あくまで「もっともらしい」限りにおいてその実在を信じる、という私の立場に非常に近いものを感じる。

【自律分散システム:市場秩序の分析へ】

最後に蛇足として、私が特に興味のある分野へ話を繋げてみたい。すなわち、自律分散システムとしての市場秩序の分析である。例えば、以下の文章は興味深い。

最近、「自律分散システム」の工学、「創発システム」の工学などというものが注目されている。そこでは自然的になさられる境界条件の制御が、しばしば人為的な制御をはるかに凌駕する見事さを示すという事実にまず注目する。生命過程を彷彿とさせるような、柔軟性に富んだ高度な機能をもつ人工システムを設計するためには、境界条件の制御における人為性の度合いを減らし、むしろ自然的制御に任せる部分を多く取り入れることが有効であり、大きな可能性をもつという思想がそこにある。(pp.52)

これはまさに、ハイエクが市場秩序について言い続けたことそのものである。市場は、複雑なパターンを生成させる非平衡開放系であり、また我々の設計能力を遥かに凌駕する見事さを示す自律分散システムである。これからは、市場を複雑系として分析する研究がますます重要になってくるだろう。私も手始めに、複雑系経済学の日本における権威である塩沢由典の著書『市場の秩序学』に挑んでみたいと思う。