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2018年8月27日月曜日

【読書ノート】 William Seager, Natural Fabrications: Science, Emergence and Consciousness

"The creation of the magnetic field of a bar of iron by spontaneous symmetry breaking is thus a case of emergence which is unpredictable in principle. Similarly, the ratio of the relative strength of the four forces and the masses of the force carrying particles may not be set by nature but emerge through a random process. No matter how much one knew about the symmetric phase, it would be impossible to predict these values" (p. 23)
→ 強磁性体をCurie温度以上に熱すると強磁性が失われるが,それを徐々に冷却していくと再び強磁性が回復する.磁性体は同時に,特定の(当初とは異なる)磁気モーメントの向きを得るが,この向きを決定する法則はなく,ランダムに決まる.これは自発的対称性の破れの一例.強磁性を回復する前は,磁気モーメントの向きに関してすべての空間方向が対称的だが,強磁性の回復によってこの対称性が自発的に(ランダムに)破れる.初期宇宙において,一つの統一的な力から四つの基本的な力が分れていったのも,同様の過程によると考えられている.いずれの場合においても,対称性が破れる前の状態において,破れた後の状態に関わるパラメータ(強磁性体の場合は磁気モーメントの向き,四つの力の分岐の場合は力の相対的な強さや媒介粒子の質量)は原理的に予測できない.したがってこれは創発(正確には下で触れる通時的創発)の例である.

"Picture then the state of the universe when approximately 1 s old. Is there anything missing from our cosmological picture? Considered from the standpoint of the recognized scientific disciplines, almost everything. There is no chemistry (organic or even inorganic), no biology, no psychology and no sociology. Is this surprising? From a purely physical point of view, not at all. Conditions of the universe at this time are, by Earthly standards, very extreme. The temperature was something like one billion degrees and it was quite impossible for atoms to form. The formation of stable atomic nuclei was just becoming possible as the temperature dropped below 1 billion. There was then a small window of opportunity where density and temperature permitted the synthesis of hydrogen and helium nuclei (as described above). Thus it is a natural fact that the only science which applies to the universe at the age of 1 s is physics. As we move back in time closer to the big bang itself, we encounter more exotic, eventually frankly speculative, physics, but it’s physics all the way back. However, as we pursue time away from the big bang towards the present, we obviously enter the domain of application of all the other sciences. Thus, for example, chemical and biological entities and processes (such as molecules, bonding, living organisms and natural selection) must be in some sense emergent phenomena. A little more precisely, any phenomenon which appears in a system which heretofore did not exhibit it can be labeled diachronically emergent. The cosmological tale as we now conceive it must be a tale of diachronic emergence" (p. 23)
→ ビッグバンから1秒後の宇宙には当然,生物学や社会学の研究対象となるようなものはなく,すべて物理学の研究対象となるものである.つまり初期宇宙に適用可能な科学は物理学だけである.そこから時間が経つにつれて,化学や生物学といった他の科学が研究するような対象が徐々に生まれてくる.これも通時的創発である.通時的創発と対比される創発の形態として,共時的創発(synchronic emergence)も考えられる.上で触れたような宇宙の発展は,通時的創発だけでなく共時的創発も示している.というのも,初期宇宙に存在していた対象は,生物学的な性質(例えば自然選択によって進化するといった性質)を持っていなかったと考えられるが,120億年後には,そのような性質を持った対象が存在することが知られているから.

"The weird behavior of some quantum systems called entanglement, in which two systems that have interacted maintain a mysterious kind of connection across any distance so that interaction with one will instantaneously affect the state of the other, might appear to contradict the adjacency requirement of cellular automata. But, again, it is far from clear that this is a real problem for digital physics and for the same reason. The spatial distance separating the ‘parts’ of an entangled system which makes entanglement seem ‘weird’ need not be reflected in the underlying workings of our hypothetical universal CA. In fact, could it be that the phenomenon of quantum entanglement is trying to tell us that what we call spatial separation is not necessarily a ‘real’ separation at the fundamental level of interaction?" (p. 70)

"When we burn books, it looks as though we are destroying information, but of course the information about the letters remains encoded in the correlations between the particles of smoke that remains; it’s just hard to read a book from its smoke. The smoke otherwise looks universal much like the thermal radiation of a black hole. But we know that if we look at the situation in detail, using the full many-body Schrödinger equation, the state of the electrons evolves unitarily" (Luboš Motl, "Hawking and Unitarity").

"Although both the weather and the Solar System are chaotic dynamic systems, the timescale on which chaos reveals itself in the latter case is so long that we can preserve the illusion that the Solar System is easily predictable. The same would be true of the weather if we wished to use our models to make predictions for the next five minutes (though of course it will take longer than five minutes to get any ‘predictions’ out of our weather models). Predictability is a relative notion: relative to the timescales natural to human observers, relative the natural timescales of chaos of the systems in which we are interested and relative to the time it takes for our models to generate their predictions" (p. 104)

自然の階層構造

自然が階層構造を成していることは自明であるという前提でSeagerは議論を進めている:"If anything about the structure of nature seems obvious and irrefutable it is that nature possesses a hierarchical structure within which ‘higher level’ entities have properties lacked by ‘lower level’ entities" (p. 65). しかしこれは決して自明ではない.実際,自然が階層構造を成していることを否定する論者もいる (James Ladyman & Don Ross, Every Thing Must Go).ここでは「自然が階層構造を成している」という描像がどの程度の妥当性を持つか考えてみる.

私たちが「階層」と呼んでいるのは現象のパターンであり,自然をどのように階層に切り分けるかは,どのパターンに注目するかという観測者の視点から切り離せないように思われる.ただ,四つの基本的な力の到達距離と強さの違いが,観測者の視点に依存しない自然な階層を作っているのは事実である.例えば強い力の到達距離は10 -15 [m] くらいなので,それよりも大きいスケールではその影響を無視できる.また重力に比べて電磁気力の方が圧倒的に強いが,大きい物体では電磁気力は打ち消し合う傾向にあるので,天体のスケールまで行くと重力の影響だけを考えることになる.このように,原子核のスケール,電磁気力支配のスケール,そして重力支配のスケールという三つの自然な階層を区別できる(ただし電磁気力支配から重力支配への移行は滑らかである).

しかし私たちはスケールだけで自然を階層に切り分けているわけではない.例えば生物個体や生物集団に固有のスケールは存在しない.私たちが生物個体の階層を階層として同定するのは,生物に特有の振る舞いのパターン(自己増殖,エネルギー変換,恒常性維持など)に注目することによってである.また生物個体の階層が決まれば,生物集団の階層がそれに相対的に決まる.一般に,自然の中のどのパターンに注目するかという観測者の視点から独立に自然の階層構造が厳然と決まっているわけではないと思われる.この点を念頭に置く限り,「下位」レベルからの「上位」レベルの創発を考えることに特に問題はないだろう.

Conservative and radical emergence

Seagerは(通時的・共時的創発の区別とは別に),下位レベルの法則によって上位レベルの性質をすべて「原理的に」記述できるかどうかによって,創発を"conservative emergence" (CE)と"radical emergence" (RE)の二種類に分けている.記述できるのがCEで,記述できないのがREである.問題は,この世界にREが存在するかどうかだが,SeagerはREの存在を否定し,CEだけが存在するという立場を取っている.そして究極的には,世界のすべての現象は「原理的には」基礎物理学の法則によって記述できるという(「原理的には」って便利の良い言葉だなと思う.原理的に記述できるかどうかって一体どうやって判定するんだ?)

しかし私はSeagerの立場に懐疑的で,「原理的にも」(それがどういう意味であれ)基礎物理学によって記述できないような現象があるのではないかと考えている(そもそもSeager自身が取り上げている上記の対称性の自発的破れはREの例ではないのか?).Seagerを含む分析系の哲学者には,上位レベルの現象のモデルは,下位レベルのモデルの単なる「圧縮」だと考えている人が多い印象がある.つまり彼らは,上位レベルのモデルが,予測にとって実際的には有用だったり不可欠だったりするとしても,下位レベルのモデルから情報の一部を削ぎ落としただけのものだと考えている.因果構造の情報論的な分析から,実はそうではないと論じる面白い研究がある:Erik P. Hoel (2017) "When the Map is Better Than the Territory”(テクニカルでない解説としては,同著者の"Agent Above, Atom Below: How Agents Causally Emerge from Their Underlying Microphysics"を参照).それぞれのレベルにおける現象のモデルの因果構造を情報伝送路に見立てると,誤り訂正符号が情報伝送を効率化するのと同じ原理で,上位レベルのモデルは下位レベルのモデルを効率化するらしい.その結果,上位レベルのモデルが下位レベルのモデルよりも大きな情報量を持ち得る.これはとりもなおさず,下位レベルのモデルでは見えないような因果構造が,上位レベルのモデルに現われているということである.これはもちろん,下位レベルの法則によって記述できないような性質が上位レベルにあるということなので,REに相当する.ここで思い出すのが,「考え深い読者よ,政治的党派心のバイアスのかかったオッカム的な先入観——思考においても,存在においても,発展過程においても,不確定なものは,完全な確定性という原初的状態からの退化に由来する,という先入観を取り払いなさい」というPeirceの言葉である.上位レベルのパターンが下位レベルのパターンの単なる「圧縮」だというのは,Peirceの言うところのオッカム的な先入観なのではないだろうか.

下方因果

自己組織化や創発の議論でよく話題になるのが,いわゆる「下方因果」(downward causation / top-down causation)である.しかし,Seagerの本に触発されて下方因果についての研究をいくつか読んでみたところ,用語の使い方が曖昧で,議論が酷く混乱している印象を受ける.Menno Hulswitが指摘するように("How Causal is Downward Causation?"),原因と結果それぞれの存在様式(一般的な法則なのか,個別的な出来事なのか,何らかの実体なのか)にほとんど注意が払われていないことが,混乱を生み出す要因の一つになっているように思われる.また「下方因果」というときの因果性が,作用因なのか,それとも形相因・目的因的なものなのか,判然としないことが多い.

下方因果の捉え方として有望だと思われるものが二つある.一つは,下方因果の「原因」に相当するのは,下位レベルの法則に付加される「境界条件」だというMichael Polanyiの理論である(例えばKnowing and Being: Essays by Michael Polanyi, pp. 233–34).例えばある言語で発話される文章をいくつかの階層に分けるとすると,最下位には音韻があり,次に語彙があり,その次に文法規則があり,その次に文章作成のスタイルがある,といった具合である.音韻は,与えられた言語で許される音の組み合わせを規定するが,でたらめに音を並べただけでは単語にならないので,さらにその言語の語彙を指定する必要がある.語彙は音韻の規則を破ることなく,許される音の組み合わせを制限する.同様に,でたらめに単語を繋ぎ合わせただけでは文にならないので,単語の組み合わせ方に制限を加える文法規則がさらに必要である.このように上位レベルの規則は,下位レベルの規則を破ることなくそれに対して制限を加える「境界条件」になっているというのがPolanyiの理論である.生命の階層と,物理的・化学的な法則によって支配される非生命的物質の階層の間にも同様の関係があると彼は言う.この理論では,下方因果の「原因」に相当するのは,下位レベルの法則に付加される一般的な法則だということになる.しかし,こうした境界条件がどのように生じるのかはあまり明らかでない.

もう一つの捉え方は,下方因果は形相因・目的因的なもので,「原因」に相当するのは一般的な法則だというもの.Peirceの立場がこれに該当すると思われる.例えばスポーツ観戦で熱狂する群衆を考えると,群衆の一人一人のメンバーの振る舞いは,群衆全体の雰囲気の影響を受けるが,この影響は,「一般的な法則ないし習慣が個々の出来事を,共通のパターンに従うように方向付ける」という意味で目的論的な影響である.このような影響が可能であるためには,(単なる無知の表れではないという意味で)客観的な偶然が必要である.というのも,もし各要素の振る舞いがすべて決定論的に決まっているとすれば,目的論的な法則がそれを「方向付ける」余地はなくなってしまうから.目的論的な法則は,そこからの逸脱の可能性があって初めて成立する.

2013年8月31日土曜日

ハイエクの暗黙知理解について : コメントに対する返信

この記事は、私の過去の記事「設計主義のなにが問題なのか? ハイエクの知識論」に対して、匿名の方から寄せられたコメントに対する返事です。文章量が多くなってしまったので、別箇の記事として投稿することにしました。

匿名様のコメントは以下の通り:
 (2) その知識の大部分は「暗黙知」(tacit knowledge)であり、言語化・分節化できない。

 のところですが、この暗黙知解釈は、野中郁二郎さんの解釈ですが、間違っていますよ。ハイエク自身は、ポラニーについて、また、暗黙知については言及していないでしょ。ハイエクに添って、解説してほしいです。
  野中解釈は、暗黙知と明示知で、暗黙知なるものを実体化していますが、ポラニーが言ったのは、知るということ(知識が身につく)のプロセスにおいて、暗黙 の次元がある、ということです。暗黙知は、tacit knowingですから、knowingは動名詞です。暗黙の(語れない、分からない)作動なしに、知るということはない、といったのです。
 それから、
(3) 価格情報は、これら分散的・暗黙的な知識を集約的に表現する「指標」である。価格情報は知識の集約の結果であると同時に、新たな知識を形成する原因でもある。

 が省略されていますが、既存の経済学との対峙という意味では、これが重要ですね。できれば、説明していただきたいです。
以下、これに対する私の返信です。



コメントありがとうございます。仰る通り、この記事の内容は杜撰です。私が二年前に書いたものですが、今だったらこんな風に書きません。

まず、ハイエクの暗黙知理解について。私は、野中郁二郎氏を存じ上げませんが、どこかで見聞した通俗的な解釈を(それこそ暗黙的に)流用してしまったものと思われます。仰る通り、ハイエクに関してはこの記事の説明は的外れです。しかし、ハイエクがポランニーや暗黙知に言及していない、というのも誤解です。例えば論文「ルール、知覚、理解可能性」の中でポランニーの暗黙知理論が引かれています(Studies in Philosophy, Politics and Economics p.44)。

ただ、ハイエクの暗黙知理解とポランニーの暗黙知理解は大きく異なります。ポランニーにとっては、(その主著のタイトル『個人的知識』が示しているように)暗黙知はあくまで「個人」のものです。なお、少々脱線しますがポランニーにとって暗黙知は実体ではなく動名詞であるという貴方の指摘に関して、一点注意を促したいと思います。確かにポランニーは専らtacit knowingという言い方をしますが、彼はThe Tacit Dimensionの冒頭で次のように断っています:"I shall always speak of 'knowing,' therefore, to cover both practical and theoretical knowledge" (p.7)。つまり実践的と理論的双方の「知識」を包括的に指す言葉としてknowingを使用する、ということです。ポランニーの主眼が、知る行為の結果である知識よりも知る行為そのものに置かれていることは間違いないですが、必ずしも前者を排除しているわけではないでしょう。こうした、暗黙知の実体化を排除する見方はおそらく松岡正剛氏の解釈から来ているのだと推測しますが、この見方はポランニーの真意に沿うものではないと思います。松岡氏はパン生地をこねる職人の技能は暗黙知ではないと言い切っていますが、ポランニーははっきりと診断医(The Tacit Dimension pp.6-7)やピアニスト(同 p.18)の技能を暗黙知の例として挙げています。

では、ハイエクの場合はどうでしょう。ハイエクにとって暗黙的なのは知覚や行為を統御する「ルール」です。ここで重要なのは、(明示的)「知識」を保持しているのは個人であるが、「ルール」を保持しているのは個人ではない、という点です。ハイエクにとって知覚ルールや行為ルールは、複雑な環境に対して適切に振る舞う必要性から、長い年月をかけて進化してきたものです。こうしたルールは、進化の遅い段階で一部が成文法といった形で明文化されることはあっても、その本質においては暗黙的なもので、人間はこうしたルールに従うことによって、彼が(明示的に)知っている以上のことを知ることができる、とハイエクは述べています。言い換えれば、一人ひとりの人間は自分の周囲の限られた領域の事柄以外に関しては無知であるにも関わらず、こうした暗黙的なルールに従うことによって、彼は知らず知らずのうちに、彼の認識可能な範囲を超えた遠い場所や遠い過去の事柄に関する知識を有効に活用することができる、というわけです。これが可能なのは、(繰り返しになりますが)こうした認識可能な範囲を超えた知識の存在形態が「ルール」に他ならないからです。ハイエクのこうしたルール概念については、「ルール、知覚、理解可能性」(Studies in Philosophy, Politics and Economics pp.43-65)、「行為ルール・システムの進化に関するノート」(同 pp.66-81)、および「抽象的なるものの先行性」(New Studies in Philosophy, Politics, Economics and the History of Ideas pp.35-49)が参考になります。

したがって、ハイエクにとって、「暗黙知を明示化できない」という前提から直接「集産主義は不可能」という結論が導かれるわけではありません(だからこそ私が件の記事に載せた説明は的外れなんです)。ハイエクの議論を正しく図式化すれば、「文明の複雑化に伴って人間が暗黙的なルールに頼る度合いが増加する」→「一人ひとりの人間の認識可能な範囲がますます狭くなる」→「こうした大きな社会においては、分散した知識を一箇所に集めることができない(集産主義が不可能)」という風になると思われます。つまり、集産主義に対するハイエクの批判の要点は、明示化できない知識をむりやり明示化しようとしている、といったことではなく、あくまで知識の分散です。『自由の条件』の第二章がこの議論を分かりやすく表していると思うので、二節だけ引いておきます(原文ですみません、手元に翻訳はないのです):
While the growth of our knowledge of nature constantly discloses new realms of ignorance, the increasing complexity of the civilization which this knowledge enables us to build presents new obstacles to the intellectual comprehension of the world around us. The more men know, the smaller the share of all that knowledge becomes that any one mind can absorb. The more civilized we become, the more relatively ignorant must each individual be of the facts on which the working of his civilization depends. The very division of knowledge increases the necessary ignorance of the individual of most of this knowledge. (The Constitution of Liberty: The Definitive Edition p.78)

We have now reached the point at which the main contention of this chapter will be readily intelligible. It is that the case for individual freedom rests chiefly on the recognition of the inevitable ignorance of all of us concerning a great many of the factors on which the achievement of our ends and welfare depends. (The Constitution of Liberty: The Definitive Edition p.80) 
また、"The Epistemological Argument Against Socialism: A Wittgensteinian Critique of Hayek and Giddens"という研究の中で、Nigel Pleasantsがまさにこの点においてハイエクを誤解している(ハイエクの暗黙知概念をルールではなく個人が保有するものと考えている)ために、かえって非常に参考になります。私自身、この論文を読んで自分の解釈の誤りに気付かされました。お勧めしておきます。

最後に、第三のテーゼ「価格情報は、これら分散的・暗黙的な知識を集約的に表現する『指標』である。価格情報は知識の集約の結果であると同時に、新たな知識を形成する原因でもある」について。これも大分杜撰な書き方をしてしまいました。私は経済学の知識に乏しいので、残念ながら大して有意義なことは述べられないです。これを書いたとき私の念頭にあったのは、塩沢由典氏の「ミクロ・マクロ・ループ」という概念だったと思います。つまり、経済現象のミクロなレベルにおける振る舞い(行為主体の経済活動)と、マクロなレベルにおける振る舞い(様々な慣習的・制度的構造の出現)は因果的にループしている、という考えです。価格システムも大局的なレベルにおける制度構造の一つということで、「価格情報は知識の集約の結果であると同時に、新たな知識を形成する原因でもある」という風に書いたんだと思います。このミクロ・マクロ・ループの考えが、新古典派経済学の方法論的個人主義(ただしオーストリア学派の方法論的個人主義とは異なる、狭い意味でのそれ)に対する批判の基礎になります。しかし、これはかなり大雑把な物言いです。私の見解に耳を傾けるより、塩沢由典『複雑さの帰結』(ミクロ・マクロ・ループが出てくるのは確か第三章だったと思います)を読まれた方が遥かに有益と思われます。

2012年5月7日月曜日

オートポイエーシスは何を解明するのか

以下の文章は、河本英夫『オートポイエーシス―第三世代システム』に対する雑感をまとめたものであり、私の一連のツイートを再構成し、大幅に加筆修正したものである。



『オートポイエーシス』を読んで私が抱いた一番の疑問は、「オートポイエーシスは一体何を解明するのか?」というものである。河本はオートポイエーシスは経験科学だと言う(p.298)が、私には、オートポイエーシスはあらゆるシステムのある特殊な側面を扱う哲学であって、経験科学ではないように思える。哲学はしばしば世界を見る新しい見方を我々に提示してくれるが、何かを解明することはない。これが哲学と科学の間の最も大きな違いであるように私は思う(もちろん両者の間に明確な境界線が引けるとは考えていない)。河本はオートポイエーシスはたんなる視点の転換ではないと言う(p.10)が、本書を読んだ限り私はこれに説得力を感じない。

「オートポイエーシスはあらゆるシステムのある特殊な側面を扱う哲学」であると私は述べたが、このことの意味をもう少し詳しく説明する。河本はオートポイエーシスを「行為‐存在論」と呼んでいる(p.195)。「システムにとって産出的作動という行為を行うことが、そのまま現実に存在することである。」(ibid.) つまり、オートポイエーシスは、「行為することがすなわち存在することであるような」(ibid.)存在を扱う行為存在論だと言うのである。このような「存在」という言葉の使い方は、私には正直言ってピンと来ない。むしろ、「システムそのものにとっての視点」を強調するオートポイエーシスは、存在論ではなく知覚論であるように思える。

 【物理的極と心的極】

私は、あらゆるシステム(オートポイエーシス・システムに限らずアロポイエーシス・システムも)には「物理的極」と「心的極」があると考えている(A. N. Whiteheadの語彙を勝手に借用してきた。本来の用法と合致していないなどの苦情は受け付けておりません)。物理的極と心的極を、ここでは具体的な例で説明しよう。Graham Harmanが挙げている例で、火が綿を燃やすというのがある。彼が言うには、火が綿を燃やすとき、火は綿の全ての性質と作用していない。それに対して、Steven Shaviroはこう修正する。火が綿を燃やすとき、火は綿とその全体において作用するが、綿のすべての性質を「知らない」、と。この「知らない」というのは単なる比喩表現ではない。文字通り、火は綿のすべての性質を「知覚できていない」のである。オートポイエーシスの言葉を使えば、「火にとっての視点」から見れば、綿の全体は位相学的外部なのである。

要するに、システムの心的極とは、システム独自の生態学的地位、J. von Uexküllの言う環世界(Umwelt)である。あらゆるシステムは、環境の中から、そのシステムの維持にとって有用な部分だけを選択的に知覚する(例えば人間には紫外線や赤外線は見えない)。そしてオートポイエーシスが強調する「システム自体の視点」とはまさにこの心的極であるように思う。それはシステムの物理的極、つまりその存在のあり方全体を問題にするのではなく、システム独自の知覚のあり方だけを扱うのである。

この点に関して、N. Katherine Haylesによるオートポイエーシスの定式化が分かりやすい。

In the autopoietic view, no information crosses the boundary separating a system from its environment. We do not see a world "out there" that exists apart from us. Rather, we see only what our systemic organization allows us to see. The environment merely triggers changes determined by the system's own structural properties (N. Katherine Hayles, How We Became Posthuman: Virtual Bodies in Cybernetics, Literature and Informatics, pp.10-1)

システムの心的極の境界は閉じていて、システムみずからの作動によって産出される。対してシステムの物理的極の境界は開いていて、外部の観察者によって識別される。ゆえに物理的極の境界は常に不定で、継続的なパターンとしてしか同定されえない。しかしパターン識別が観察者依存的だからといって、パターン自体に固有の実在性がないという意味ではない。要素をすべて列挙するより少ない情報量で対象の振る舞いを予測できるとき(つまり情報の圧縮可能性が存在するとき)何らかのパターンは紛れなく存在する(それが具体的にどのようなパターンであるかは観察者に依存するというわけである)。(cf. Daniel Dennett, "Real Patterns")

【オートポイエーシスと独在論】

オートポイエーシスの議論の仕方は、永井均の「独在論」と非常に似ているところがある。例えば以下の引用を見て頂きたい。

ユクスキュルの議論によれば、生物はそれぞれ固有の世界にしか生きられない以上、人間もみずからの世界に閉ざされてしか生きることができない。これに対してポルトマンやシェーラは異を唱える。人間は開かれた世界に生き、動物は閉ざされた世界に生きるというのである。このことの論拠になっているのは、人間はみずからを反省的に対象化し、それと同時にみずからの世界を対象化することによって、みずからの外に出うるということである。そして技術を介して環境そのものを変えることができる。[原文改行]だが意識の反省によって自己を対象化しようと、どこまでも意識の枠内に閉ざされた自己と他なるものの対象化された区別でしかない。意識は確かに異なる世界を知りうる。だがそれとて人間の意識によって構成されたものにすぎなくなる。意識の反省を通じて、自己や世界を対象化し、別様でありうるものを認識しようとも、それもやはり意識によって構成されたものにすぎない。意識の自己反省によっては、どこまでも自己意識の圏域を出ることはできないというのは、すでに身近かな事実である。とすればいったいどのようにして人間は開かれた世界に生きていることになるのか。(p.245)

これは、この比類ない〈私〉を、他の大勢の人間と対称な地位へ連れ出そうとする「相対化」の運動に対して、〈私〉と他者の非対称性を絶えず更新し続ける「独在化」の運動にそっくりだ。「〈私〉とは世界を開闢する場であり、そこから世界が開けている唯一の原点である」(永井均『『〈魂〉に対する態度』p.187)以上、独在性はこの世界の端的な事実である。この議論はごもっともだと思う。しかし、独在性の方だけに執拗にこだわり続けるのは、事態の片側面しか捉えていないのではないか。私が思うには、独在化の運動と相対化の運動のどちらかに特権を付与するのではなく、両者を等価的に捉えなければならない(cf. 入不二基義『相対主義の極北』)。

オートポイエーシスに即して言えば、一人称視点からは可視光しか知覚できない人間が、どうして紫外線や赤外線の存在を知ることができたのか、考えなければならない。それぞれのシステムに固有の世界とは独立に、三人称視点からの観察によってしか捉えられない客観的な「世界自体」が存在するのではないか。ポルトマンやシェーラの主張が一見伴うように見える人間中心主義はともかく、「人間は開かれた世界に生きている」ということの意味をもう少し真剣に受け止める必要があるように思う。したがって、

[心的システムの位相学的外部は]見ることそのものの媒体のように心的システムに浸透している。したがって環境はどのような意味でも主観に対置されるような客観ではない。(p.244)

という記述には同意できない。

【オートポイエーシスは何を解明するのか】

オートポイエーシスはシステムの物理的極ではなく、心的極を扱うと述べた。より正確に言えば、システムの心的極だけを取りだし、物理的極を「位相学的外部」として捨象する。私に疑問なのは、このような方法によって一体何が明らかになるのか、ということである。世界に対する新しい見方を提示する哲学としてのオートポイエーシスの側面を否定するつもりはない。実際、「世界」と「心」のあり方について非常に面白い考え方を提供していると思う。しかし、オートポイエーシスを何らかの「研究プロジェクト」として推し進めたり、個別科学の領域に「適用」しようとしている論者には疑念を持たざるを得ない。

オートポイエーシス独自の「位相空間」を描くという手法も、あまりピンと来ない。河本は、今後残された探究課題として「システムの数学的定式化」(p.337)を挙げているが、果たしてそんなことが可能なのか、あるいは可能だとしても果たして意味があるのか。まず第一に、「思考」や「コミュニケーション」といった曖昧な構成素を同定できないという問題がある。まさか位相空間に「思考」や「コミュニケーション」に対応する状態点を取ってその挙動を微分方程式で記述するわけではあるまい。そして第二に、仮に無理やり位相空間を視覚化できたとしても、そこに何らかの法則性があるとは思えない。先に述べた通り、オートポイエーシスが抽出する位相空間は、物理世界とはもはや(曖昧な「浸透」を除いて)何ら関係を持たない。つまりこの位相空間では自然の斉一性が生きていないと考えられる。自然の斉一性がないところにシステムの「コード」を探そうとしても無駄である。

2012年4月18日水曜日

金子邦彦、『生命とは何か : 複雑系生命科学へ』

以下の文章は、金子邦彦『生命とは何か―複雑系生命科学へ』の個人用まとめ書きである。



【第5章 複製系における情報の起源】

「まず、遺伝情報とは何かということをDNAやRNAなどの特定の分子にこだわらずに定義しなければならない。情報は当然ながら、いくつかの可能性のなかからの選択を意味する。……その意味で、とりうる細胞状態の選択を与えるのが、「情報を担う」分子の役割である。さらに「遺伝」情報であることを考えると、それは次世代に伝わっていかなければならない。」 (p.147) つまり、ある化学成分が遺伝情報を担うためには

(1) 細胞内のある成分が他の成分の振る舞いに強い影響を与えるというコントロール特性
(2) 分裂後の次世代の細胞に成分が伝わり、保持されるという保存特性

が要請されるが、これらがどうやって出現するのかというのが本章の問いになる。

少数コントロール

合成速度の異なる相互触媒系からなるプロト細胞を考える。速く増殖する分子Xとゆっくり増殖する分子Yという、触媒活性をもった二種類の分子種が互いに触媒するネットワークを形成しているとする。この両分子を含むプロト細胞が分裂するごとに分子Yの数が減っていくが、0になってしまうとプロト細胞は増殖能を失う。そこで、こうしたプロト細胞が増えていき、競合して淘汰されていく状況を考えると、残った細胞は、最低でも1個は分子Yを含んでいるはずである。こういう状態は分子数の時間発展から言えば稀な状態であるが、ゆらぎによって一旦そうした初期状態が達成されると、そのまれな初期状態が選択され維持される。こうして遺伝情報の要件である「状態の選択」と「その保持」が生まれる。

さて、 分子Yが構造変化を起こしてその活性を変化させたとする。すると、Yの活性の変化はプロト細胞の増殖に大きな影響を与える。他方、Xのようにたくさんある分子が構造変化を起こした場合を考える。細胞内にあるすべてのX分子が同じように活性を変える確率はほとんど0であろう。この構造変化はゆらぎからくるランダム事象であるから、ある分子は活性を高める方向に、別のものは低める方向に、という形で、平均としては活性の変化は小さくなるであろう。こうして、互いに触媒し合う分子では、数の少ない方がそのプロト細胞の性質に対して支配的な影響を持つ。このような「少数コントロール」の構造により、数の少ない方の分子が「遺伝情報」のためのコントロール特性を持つに至る。

力学系の言葉で言えば、変化の時間スケールが長い(つまりリャプノフ指数が0に近い)変数は、その初期の変化が長く残るので、その変数が他の変数に影響を与えている限り、それは他の変数に対するコントロールパラメータの役割を果たすようになる、という風に言える。

進化可能性について

このような、少数の部分が他をコントロールするという構図は、その少数の部分の変異が大きく影響するので、「進化可能性」をもたらす。少数分子が変異したプロト細胞の増殖速度はもとのとは異なってくるが、細胞のレベルの競合により、あまり増えられないプロト細胞は淘汰されるから、増殖能が高いものが残っていく。要するに少数分子が(良い方向に)変化したものは、その活性を維持し、さらには進化していく可能性がある。このメカニズムを利用して、この少数分子を保存する機構が進化してくるだろう。いったんこの少数分子が保持されるようになれば、今度はその分子に関係して作られる分子も残りやすくなるから、多くの反応がその少数分子に関係していくことになる。つまり、その少数分子に情報がコードされるようになる。そして今度は、その情報を利用してますます少数分子の保護機構が進化し、少数分子の保護と少数分子への情報コード化の共進化が起こる。かくして、今日的な意味での「遺伝情報」が実現し、代謝と遺伝情報の分離が完成する。

「細胞などの複製単位のなかでDNAが少数であるからこそ、自然選択が働き、遺伝情報が統計法則から守 られ、その細胞は進化可能性を持つ。」 (p.172) もし多数の情報分子が存在すれば、独立の変異が大数の法則によって均され、自然選択があまりかからなくなる。有害変異が集団に溜まってしまい、自己複製能は減衰するだろう。

一般的に生命の起源を考える場合、遺伝情報が先か複雑な代謝が先かという問題がある(本書で挙げられている例で言えば、M・アイゲン(Eigen)のハイパーサイクル理論が前者の代表であり、F・ダイソン(Dyson)のいいかげんな複製系(loose reproduction system) が後者の代表である)。金子氏によれば、前者の立場には安定性に関して問題があり、後者の立場では情報が明示できないという問題点があるが、本書で展開されている少数コントロールの原理はその両者の問題点を克服する解を提唱している。



【第7章 細胞分化と発生過程の安定性】

同一多様化理論」(Isologous Diversification Theory):同じ状態を持った細胞が、細胞内部の状態のダイナミクスによって、小さなゆらぎを増幅させ、異なった状態にいたり、その一方で細胞間の相互作用により互いの状態を安定化し、いくつかの離散的なタイプを形成する。

本章の主題は細胞分化であるが、この理論は細胞の分化に限られるものではない。一般に、その内部に非線形のダイナミクス(細胞の場合は触媒反応系)を持った複数のユニットがあれば、そのダイナミックスとユニット間の相互作用によって、各ユニットが同じ状態を維持するのが不安定になる(細胞の場合は、栄養の競合などによって)。その結果、各ユニットが分化して、異なる状態を持つようになる。

力学系の研究では、同一のユニットが互いに影響を及ぼし合うだけで、そこにカオスのように小さな差を増幅する運動があると、そのユニットは異なった位相で振動するグループに分かれる場合があることが、すでに明らかにされている。この現象をクラスター化と呼ぶ。



【第10章 表現型と遺伝子型の進化】

第7章で取り上げられた同一多様化理論が、本章では細胞ではなく個体に適用され、種分化の理論として展開される。さらに、長い時間スケールの増殖と淘汰、つまり進化に対して、この分化の意義を考える。

(1) 通常の種では、遺伝子型も表現型もある(比較的狭い)範囲で分布している。この種がある状況で強く相互作用するようになったとする(この原因は環境変動でも個体数密度の増加でも栄養の不足でもいい)。そこで第7章の機構で、表現型の分化が生じる。この段階では(ほぼ)同じ遺伝子型を持った個体が異なるタイプの表現型の2グループに分離している(この段階では各グループの子孫は親と同じグループになるわけではなく、表現型はあくまで相互作用によって分かれている。一方で、この段階ですでに2グループの表現型は十分離れており、互いの存在で互いを安定化するという「共生」関係にある)。

(2) 次に、遺伝子に変異が入っていき、淘汰がかかっていくとどうなるかを考える。遺伝子は表現型の変化の仕方を与えているので、それぞれのグループに応じて遺伝子がどう変化した方が増殖しやすいかというのは変わってくるであろう。例えば、グループAはある方向に、グループBは逆の方向に変異を起こした方が子孫を残しやすくなる。すると遺伝子にはランダムな変異が起こってもグループAその方向に、グループBは逆の方向に、ますますシフトしていくだろう。つまり、突然変異と淘汰を経て、表現型の違いが遺伝子型の差異に固定されていく。

(3) この結果、遺伝子型と表現型の1対1の対応関係が回復して、遺伝子型でも表現型でも異なる2種が分離する。

雑種不稔性

有性生殖を行う生物で、分離した種の定義は、2つのグループが交配してできる「雑種」が子孫を残せなくなる、というものである(これを雑種不稔性という)。2つのグループができ始めると、それぞれのグループは互いの作るニッチに特化して成長できる。この両者はその成長を行うように遺伝子型と表現型が適合している。これに対して中間のパラメータを持った個体はどちらの表現型をとってもこの両者に適わず、成熟条件に到達できなくなってしまう。つまり、この理論では交配のえり好みを仮定しなくても自然に 雑種は子孫を残せなくなる。ゆえに、この分化の過程を種分化と呼ぶことができるのである(なお、本章の理論は無性生殖にもあてはまる。このとき「種」と呼ばれるのは、表現型の状態が離散的に区別され、子孫はそれぞれの範囲で再帰的に生まれるような集団である)。

えり好みの進化

各グループは同じグループ内で交配していれば不稔でない子孫を作れるのだから、でたらめに交配しているのは明らかに無駄である。そこで、この段階で相手の表現型を見て交配するかどうかを決めるえり好みが進化してくるのは必然のなりゆきであろう。こうして、2種の分化はますます安定する。

異所的種分化について

しばしば種分化では場所が違うから分かれたという異所的種分化説明がなされる。確かに、異なる種が異なる場所に住んでいる例は非常に多いが、しかし場所が違うというのが種分化の「原因」かどうかはよくわからない。本章の理論では、2グループの空間的分離は、種分化の原因ではなく帰結である。子孫は親と同じ位置で生まれるから同じグループの個体は近くにいるケースが多いだろう。一方で交配は近くの個体とまず起こりやすいから、2グループの空間的分離に拍車がかかる。これは、環境条件が場所に対して全く一様な場合でも起こる空間的な分化である。

断続均衡進化説

本章の理論では、いったん相互作用が強くなって表現型の分化を起こす条件が満たされれば、そのあとは非常に速く種分化は進行する。相互作用の条件である環境や個体数の変化自体は連続的であって激変しなくても、それがある値になって条件を満たすと種分化は開始し急速に進む(あるパラメータになると分岐する力学系を想起されたい)。これは、S・J・グールド(Gould)とN・エルドリッジ(Eldredge)の断続均衡進化説の見方と一致する。

動的共固定化

本書で金子氏は、あるレベルでの違いが別のレベルでの違いに変換され、互いに強化され、固定される現象を動的共固定化(dynamic consolidation)と呼んでいる。これは本章の、表現型の分化が遺伝子の違いに固定されるケースだけでなく、第9章で説明された、細胞状態の分化の空間的パターンへの変換にも当てはまる。状態の分化が空間的なパターン(化学物質の濃度勾配)を作り、そのパターンがさらに状態の分化を強めるという正の相互フィードバックが働き、分化も形態形成も安定された。それによって各細胞は位置情報を持ち、安定したパターン形成が可能になった。また、第5章の遺伝機能を担う分子と代謝機能を担う分子の分離と固定化も動的共固定化のケースである。

最後に、表現型の可塑性と相互作用が遺伝的進化を促すという本章のような主張は、しばしばラマルク的な進化を導入しているようにみられがちであるが、本章で提案されている理論は、遺伝子型から表現型への1方向の流れを仮定した正統的ダーウィニズムの範囲内にある。



【第11章2節 ゆらぎによる応答】

一般に、生物は様々な環境に適応して生き延びる。細胞に関して言えば、外部の情報がシグナル伝達系を通して遺伝子発現系へと影響を与え、その発現パターンをスイッチさせてその環境で必要なタンパク質を作るようになる、と通常考えられている。しかし、バクテリアや微生物の実験において、生物はめったに起こらない環境や、これまで遭遇したことのないような環境条件に対してもそこそこ適応できることが見出されてきた。これほど多様な環境条件のすべてに対して、シグナル伝達系を用意しているとはなかなか想定しがたい(これは人工知能におけるフレーム問題と全く同じ問題だろう)。

細胞の化学変化は分子的なゆらぎから逃れられないが、遺伝子発現もその例外ではない。そこで、このノイズによって細胞の状態はアトラクターからずらされるが、それぞれのアトラクターごとに細胞の成長速度が異なるとすれば、成長速度の低いアトラクターからはノイズで容易に飛び出し、いったん成長速度の高いアトラクターに到達すれば、そのままそこに留まると予想される。言い換えれば、ノイズによって成長速度の大きいアトラクター、つまり環境に適応した遺伝子発現状態が選択される。シグナル伝達系がなくても適応が生じると予想されるのである(実際、本節で紹介されているように、大腸菌を用いた実験によって、細胞分裂以前に、つまり淘汰を経ることなく、適応したアトラクターの選択が起きることが確認されている)。

まとめると、まず細胞は、多くの環境に対しては成長とノイズ(いずれも細胞ならば常に成り立つ)によるアトラクター選択で対応し、そのうちしばしば出会う環境に対しては進化を通してその環境に即応できるようにシグナル伝達系を発展させてきた、と考えることができる。

「進化はすでにあるものをチューンアップさせるのには長けているけれど、そもそも生存できないものをよくしていくことはできない。」 (p.374)

これは本書の議論全体に当てはまる考え方だと思う。

2012年3月28日水曜日

【メモ】 津田一郎、『カオス的脳観 : 脳の新しいモデルをめざして』

「局所的な整合性と大局的な整合性の間に不整合が生じるときにフラストレートしたパターンが出現する。現在までの物理学で研究されてきた自己組織化過程は それを解消し論理階型を上げていく論理をその内部に持ってはいない。それに対して、生物のような情報系はそのような論理を自らの内部に構築しなければならないことが頻繁に起こる。」 (p.9)

「漸近的に3次元体積がゼロになり、2次元面上の運動より圧倒的に複雑になる運動は、2次元面がカントール集合のように重なった多様体の上の運動としてのみ理解される。多様体の厚み方向は無限個の面の断面が複雑なフラクタル構造を持つように埋め込まれ、0と1の間の次元を生み出す。」 (p.34)

「力学系のカオスは……圧縮できない無限列と圧縮可能な無限列との集合体である、ということができる。特に圧縮可能で周期的な無限列は、力学的に不安定であるので観測にはかからない。観測されるのは、圧縮できない非周期的な無限列と圧縮できる非周期的な無限列の有限部分である。」 (p.43)

「一般に2^n周期解と2^n+1周期解の近傍の様子は、見る尺度を変えてみれば等価であることがわかる。それぞれの周期解の近傍の様子を再帰的に決定する写像の関数が得られる。ちょうどカオスがでるところは、この繰り込みの操作の不動点に対応する。富田[和久]によれば、この操作はゲーデルの不完全性定理の証明の手続きとメタレベルで同型である。」 (p.44)

「アルゴリズム情報理論を使えば、不完全性、非決定性、ランダムネスはみな等価な概念としてとらえることができる。」 (p.47)

「知識体系に貯蔵されたなんらかのテンプレート(記憶の中に固定された知識やルール)との一致をみいだしたとき、我々は少なくとも問題の一部に秩序を発見したという。」 (p.52)

「初期状態の精度⊿Xと[力学系の]内的時間Tの間には、⊿XTAの不確定性関係が存在する。この不確定性関係が、初期条件と力学法則の従属関係を規定しているのである。このようにして、カオス力学系においては、初期条件を力学法則と独立には決めることができないのである。」 (p.57)

軌道に関する情報とは、二つの接近した軌道を分離して認識できるかどうかということである。このとき、
力学系の定常解が不動点や極限周期解(リミットサイクル)のような安定解である場合、情報は時間の進む方向に圧縮されていくことになる。観測者の間の情報の流れは位相空間の体積が縮む方向である。カオスのような軌道不安定性をもつものの場合、時間の進む方向と逆方向に情報は圧縮される。このことはカオスは情報を生み出すということの別の表現である。 (p.153)

「膨張宇宙の中では、時間の後に位置する世界にいる住人が常により分離された世界にいることになる。このことは、宇宙定数を我々は未来になればなるほど、細かい桁まで知るようになるということを意味する。これは観測技術の向上とは関係ないレベルの話である。むしろ宇宙定数自身の時間発展に関係する。観測技術が全く同じだとして、過去の宇宙に住んでいた人は、我々よりも粗っぽい数値しか認識できなかったであろう。これと関連して、現在、無理数と考えられている数は過去の宇宙においては、有理数であった可能性がある。もっと過去には整数であったろう。現在、計算不可能であると考えられている数も過去の宇宙では計算可能であったであろう。実数の存在は宇宙の膨張によって認識可能になったのだと考えることができるように思われる。すると、計算不可能性であるカオスは、遠い過去の宇宙では存在しなかったことになるのではないか。カオスは宇宙の進化と共に我々の前に現れたのではないだろうか。」 (pp.153-4)

「自己の確立は、反応拡散系で表現されるような自己組織過程を通じてなされるのではなく、情報的な自己言及過程を通じてなされる。」 (p.163)

「“解釈”ということが[脳の]研究プロセスにおいて、、物理学にみられるような第二義的な問題ではなく、まさに必須の第一義的な作業になるのである。この解釈の作業において、先行的理解になるのが[デビッド・]マーの言う計算論のレベルの考察である。つまり、“脳は何をしているのか”である。」 (p.194)

“動的脳観”の力学系の言葉による表現:
「自由度の大きな力学系がある。あるときは、ある部分的な自由度が活性化されそれが支配的になるが、またあるときは別の部分的な自由度が活性化されそれが支配的になる。このようなことが時空間の様々なスケールで起こりうる。そして、支配的になる自由度の再編成は、系(システム)の過去の全履歴に依存する。」 (p.202)

2012年2月12日日曜日

脳の研究における解釈学について

『ダイナミックな脳』での津田一郎氏の解釈学的行為の考え方について、ツイッターで、「相手が自分と類似した生命である場合とそうでない場合の違い(程度の差なのか、本質的な差なのか)についってもっと敷衍して欲しかった」と述べたが、再度読み込んでみて、彼が言わんとしていることをある程度汲み取れた気がするので、ここにまとめておきたい。

まず、「動物の知覚は解釈過程であらざるを得ない」ということについて。新しい感覚情報の知覚は必然的に何らかの先行的理解を要請する。これはハイエクが『感覚秩序』において展開している知覚論とそっくり重なる。すなわち、我々が何らかの対象を知覚するとき、我々が知覚しているのは自己同一的な実体としての対象そのものではなく、常にその対象が位置づけられる関係の構造(類似性、差異性)である。そして、こうした新しい情報を位置づけるための既存の文脈として先行的理解が要請される。そういう意味で、知覚とは常に解釈過程である。津田氏はハイデガーを引いて、次のように言う。すなわち、「何かを理解するために解釈が必要なのではなく、逆説的だが、解釈を行うために理解が必要なのである。」(p.20) ある神経細胞あるいは神経細胞集成体の果たす機能はシステム全体の文脈に依存してしか決定されないという津田氏の指摘は、この事態の生理学的レベルでの表現であろう。

ただ、津田氏の言う解釈学的行為はディルタイが定義したような解釈学とは異なる。ディルタイは自然科学的な方法に対抗して、生きていくものが従わなければならない歴史性を扱う人文社会科学の規範を与えようしたが、津田氏の言う解釈は、意味の共有といった次元の話ではなく、単にある状況へのコミットメントである。「解釈とは、コミットメントのことだ。なにかの状況にコミットする(参画する)ことそのものだといってよい。」(p.26) それは認知主体が環境に勝手に付与してかまわないし、またコミットメントの過程でそれが別段収束しなくてもいい。このコミットメントのためにこそ先行的理解が必要なのである。

さらに、この状況へのコミットメントの中にこそ、我々は何らかの意志、つまり生命の存在を見出すのではなかろうか。「意味の共有に向かって努力することが解釈学的行為ではない。むしろ、意志の存在の確認作業が解釈学的行為なのだ。」(p.29) しかしここに一つ問題が現れる。すなわち、知覚が物としての世界を扱う場合と、認知主体と類似した生命を扱う場合との間に、何らかの本質的な違いはあるのかという問題である。これが冒頭に掲げた問題である。この問題に関して津田氏は「不完全な情報」と「不定な情報」を区別している。不完全な情報は、解釈学的行為による補完によって完全な情報になり得る。つまりこの場合、知覚世界を客観的実在の世界と見なすことによって、解釈者の外に置かれている。静的な世界像を扱う限りこれで問題にならない。他方の不定な情報は、相手が生命であって、その行為を解釈しなければならないときに問題になる。つまり、この場合相手の行為に対する解釈に一意的な解は実在の側にそもそも存在しない(このような解釈はおそらくハイエクの言うような心的構造の類似性に基づいていて、したがって一人称的な内観を不可避にする。その意味で、解釈対象が生命である場合とそうでない場合の差は本質的であると言える。ただこれは明確な境界が存在するという意味ではない)。この事実を以て、郡司ペギオ幸夫氏らはあらゆる観測行為を「暗闇の中の跳躍」として徹底的な懐疑に付す。かくしてウィトゲンシュタインやクリプキの言う言語ゲームにすべての解釈が回収されてしまう。それに対して津田氏は、認知主体の外に客観的な世界が存在するという「先行的理解の第一原理」を、認知のための一種のア・プリオリな形式として設定する。「この第一原理に行為論のある種の本質を押し込めたつもりでいる」(p.22) 津田氏のこの態度は、世界の実在を内側からプラグマティックに肯定する私のプラグマティック実在論の態度に似ている。

蛇足になるが、物体の空間移動に対する連続性の概念およびその普遍性が、「先行的理解の第二原理」として保障される。「空間における物体の身体を使った変換に対して、視覚情報の中から不変な構造を抜き出す能力を脳は備えている。……この先行的理解が物理学の基礎になっているのかもしれないというポアンカレ氏の意見に賛同する。」(p.17) それ以外にも「自己中心座標と物体中心座標の間に変換が存在する」や「世界の境界は内部から見れば正曲率を持つ」といった、いくつかの基本先行的理解が要請される。これらの先行的理解は認知のための一種のア・プリオリな形式であるが、絶対的なものでは決してなく、あくまで幼児期の体験によって形成されるものと考えられる(それを引き起こすコードが遺伝子に組み込まれているということはあるだろうが)。

最後に、解釈の二重性について。これまで、「知覚は常に解釈過程であらざるを得ない」という事態を見てきた。これに加えて、脳研究の方法自体も解釈学を援用しなければらないと津田氏は主張する。つまり、研究対象に内在する解釈学的行為と、研究自体の方法としての解釈学的アプローチという二重性が主張される。しかし津田氏の著作を読む限り、この両者の関係(両者は独立なのか繋がっているのか)はあまり明らかではない。ただ、「全体、システムとして働くものものの機構を理解していく方法は解釈学的にならざるをえない」(p.54)、「相互作用する相手との関係の中でなければそのものの性質、表現、行為は決まらない……その関係の構築の裏打ちをしていると思われるのがカオスなのだ。関係的にダイナミックということだ。その関係性の境界は決定不能だという意味でもある。しかも、オットー・レスラー氏、松野孝一郎氏、郡司幸夫氏や池上高志氏に従えば、われわれはインターフェイスにおいてのみリアリティー、いや木村敏氏の言葉を使って、アクチュアリティーを感じることができる。これは、複雑なシステムの中でなにかをしなければならないもの全てが出会う必然だ。[原文改行]脳という複雑システムを研究する脳科学者は、こういう意味でまさに内在的な立場でしか研究を進めることができない。だから、脳研究は解釈学的にならざるをえないのだよ。」(p.54-55)という記述を見れば、解釈の二重性における両者は結びついているように見える。

2011年6月12日日曜日

【書評】 新しい自然学 : 非線形科学の可能性 (蔵本由紀)

本書は複雑系の入門書である。「現代における科学的な知のあり方は相当にいびつなのではないか」という疑念を持つ著者は、「非線形科学」(nonlinear science)という分野にそのいびつさを是正する契機を求める。

従来の理論物理学はほとんど例外なく「孤立系」(isolated system)の記述に徹してきた。孤立系では外部とのエネルギーのやりとりがなく、それゆえ比較的単純な微分方程式によってその振る舞いを記述することができる。しかし、現実の現象に目を向ければ、そのような完全な「孤立系」を探す方がむしろ困難である。現実の力学系のほとんどは外部に開かれており、それゆえ複雑で予測困難なパターンを生じさせる。このような複雑な力学系を我々は「非平衡開放系」(nonequilibrium open system)ないし「非線形系」(nonlinear system)と呼ぶことが出来る。

非線形系とは、一言で言えばフィードバック制御機能を内在させたシステムである。フィードバックには正と負の二種類がある。外部から得られたフィードバック情報を頼りに、システム全体は絶えず自己修正していく。正のフィードバックによって変化が促進され、負のフィードバックによって変化にブレーキがかかる。これはシステム論で言うところの「サイバネティク・システム」(cybernetic system)にそのまま相当するだろう。このフィードバック機能が、現象を記述する微分方程式の中で「非線形項」(nonlinear term)として現れるのが、「非線形系」という呼称の由来である。(非線形項については、私もまだ完璧に理解していないので、今後も勉強して参りたいと思う)。

このような系はまた同時に、「散逸系」(dissipative system) でもある。システムが散逸的であるというのは、その振る舞いが時間に関して非可逆的であることを意味する。エントロピー増大則(これは熱力学第二法則と同値である)が示すように、自然(世界)は常にエントロピー(無秩序さの尺度)が小さい方向から大きい方向へ進む。つまり、秩序から無秩序へ、構造から無構造へ、攪乱から静寂へ至る流れは非可逆的である(例えば、一回割れたコップを元に戻すことは出来ないし、混ぜたミルクとコーヒーをそれぞれ分離して抽出することもできない)。ただし、エントロピー増大則が成立するのは「孤立系」のみという条件がある。つまり、エネルギーが外部に散逸する「散逸系」では、エントロピーがむしろ減少し、混沌から秩序が生成することが可能なのである。そこでは、微小な「ゆらぎ」(fluctuation)が正のフィードバックによって増幅され、構造の「自己組織化」(self-organization)が発生するのである。

【孤立分断的記述】

しからば、このような複雑な振る舞いをするシステムを記述するには、どのような科学描写が望ましいだろうか。しばしば反還元論者からなさられる主張として、「全体は部分の単純な総和ではない」というものがある。システムに全体として現れるパターンは、システムを構成する要素をいくら詳しく調べても見出すことが出来ないという主張である。それを無視した科学は「要素還元主義」的科学として批判される。しかし、と蔵本氏は言う。

しかし、私はこの種の議論に対しては次のことにたえず注意を払っておく必要があると思う。それは、科学における「孤立分断的記述」が「全体的記述」に安易に対比されてしまうということである。多少挑発的な言い方をすれば、科学描写であるかぎり創発的性質もまた孤立分断的に記述される以外にない。創発とは部分と全体との関係に関わる概念では必ずしもなくて、対象の切り出し方に関わる概念であると私は考えたいのである。つまり、対象を通常の意味での構成要素に分解して要素記述に集中することだけが分断的記述なのではない。(pp.35)

単なる「全体論」を唱えるだけでは、第二のオカルトに陥る危険性は免れ得ない。科学というものは本質的に「同一不変の構造」を見つけ出し、これを鋭利な刃物で切り出すものである。言い換えれば、科学という営みは、同一不変なもの以外の影響(これを「境界条件」(boundary condition)という)を無視(=制御)することによって、明晰判明さを手に入れる。制御される境界条件の程度によって、科学理論に階層性が現れる。例えば、最も単純な同一不変の構造以外のすべての境界条件を捨象するのが理論物理学であり、これに段階的に境界条件を付与していく(この作業は、下位レベルの法則=不変部分における「ブランク」=可変部分にデータを入力することによって行われる)ことによって、化学、生物学、という風に複雑性のレベルが上がっていく。このとき、記述・予測の精度がある程度犠牲になるのは避けられないが、いずれにせよ「孤立分断的記述」であることは科学であるための必要条件と言えよう。

【主語的統一と述語的統一】

蔵本氏によれば、科学が見つけ出す同一不変性には、二つの基本的カテゴリーがある。すなわち、「主語的統一」と「述語的統一」である。人間が物事を理解する時、その基本的なパターンは「何」が「どのように」あるかという形であろう。科学の言語に即して言えば、「原子」や「素粒子」などの個物の概念が主語であり、それらの関係性を記述する「微分方程式」や「法則」が述語に当たるだろう。蔵本氏は、近代西欧の科学的自然認識はあまりにも主語的統一を偏重していて、その側面だけ肥大化していると言う。日本は伝統的に述語的統一が優位な文化で、西欧文明は主語的統一が優位な文化を発達させてきたとしばしば言われるが、西欧世界に起源を持つ自然科学が、必然的に主語的統一を基軸としてきたのも十分頷ける。しかし、今や非線形科学の分野では、もっと豊かな述語的統一の契機が求められている、と蔵本氏は指摘する。それは、従来のように現象を「横」から切り取る(これが自然の階層秩序を作る)のではなく、「縦」に切り取ることを意味する。

自然の様々な異なる階層において、同一の普遍構造(関係性)が見られる、というのは珍しいことではない。その重要な一例は「対称性の自発的破れ」という概念である。対称性の破れは、物質科学のレベルでも、一分子のレベルでも、超微視的な量子論のレベルでも見られる普遍的な現象である。さらに、同じ物質科学のレベルでも、物質が液体から固体に変化する際の相転移である構造相転移から、磁気相転移や超伝導転移まで、すべて対象性の破れ現象である。これらは互いに縁が薄いと思われてきたものであるが、実はすべて共通の数学的構造を持っている。このような、共通の数学的構造(=関係性)に注目して同一不変性を切り出すのが、述語的統一による自然描写である。蔵本氏の言葉を借りれば、従来の主語的統一による自然描写が、顕在的な性質の近さに基づいているという点で「喚喩的」であるのに対して、述語的統一による自然描写は、物への密着性が弱く、それらに伏在する共通構造を探る点において「隠喩的」である。そして非線形科学は、「要素的同一不変性」から「関係的同一不変性」への重心の移動を要求しているのである。

以上が、本書の第Ⅰ章「科学描写の構造」までの議論の要約である。蔵本氏の文章はとにかく分かりやすい上に、「述語的統一」の重要性を説くその議論にも大いに納得させられた。また、創発を「境界条件」の制御に関わる概念と捉える考え方も、非常に面白いと思った。

続く第Ⅱ章「非線形科学から見る自然」では、具体的な自然現象をいくつか取り上げ、実際に非線形科学の知見から解説していくのであるが、ここでは割愛する。興味のある方は是非本書を手に取ってみて欲しい。

【言葉の魔術】

本書の第Ⅲ章「知の不在と現代」において、蔵本氏は科学哲学的な議論に足を踏み入れる。理論物理学の教授ということで、蔵本氏自身は科学哲学の知見に疎いと前置きしているが、はっきり言って彼の議論からは非凡なる哲学のセンスを感じる。

例えば「物理学と心」の問題について、蔵本氏は以下のように述べている。

日常の議論において、用語の定義をしつこく問う人はいやみである。しかしながら、意識とか実在とかのわけのわからない話ともなれば、「そのような問いでもってあなたは一体何を意味しようとしているのですか」と問い返すのが一番だと思う。これによって問題が180度方向転換し、あるいは問題の虚構性が明らかとなり、不毛な哲学的議論の多くが氷解する。素人考えだが、20世紀哲学における言語論的転回と大仰によばれることの主旨は、平たく言えばこのようなことではないかと想像する。要するに、「これまで無邪気に用いてきた言葉によって、何が意味されるかをまずじっくり反省しよう。よくよく考えてみれば、言葉の意味は言葉によって言い尽くすことはできないのではないか。最終的には、その言葉の無数の使用経験に支えられた暗黙の公共的理解しか残らないのではないか」ということである。ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」はこの事情を鮮やかに示すものではないかと思う。ともかく、心・意識というきわどい領域に接近しようとする科学者は、ありもしない問題にはまり込んでしまわないよう、十分な警戒心が必要だと思う。(pp.172-173)

全くその通りだよ。「クオリア」とか「実在」といった胡散臭い哲学的議論に対しては、常に眉に唾をつけまくってかかるべし。これが、ヴィトゲンシュタインが我々に与えてくれたはずの教訓であるが、残念ながら未だに多くの哲学者がその意味を理解できていないように思う。

あるいはこれを見よ。

科学の世界においても日常世界においても、「客観的存在」とよばれるものは、譬えていえばクロスワードパズルのマスに入るべき文字に似ている。縦のヒントから予想された文字の正しさが、横のヒントによって飛躍的に強化される。縦横に加えて、それらに直交するもう一つの次元を加えた三次元のクロスワードパズルを想像すれば、第三方向のヒントもまた、確認作業をおこなうまでもなく、きっとこの答えと整合するに違いない。自然現象の総体は、三次元ならぬ超高次元クロスワードパズルにおいて、さまざまな場所におけるさまざまな方向へのヒントの集団に譬えられるだろう。フロギストン(燃素)のように、科学史上で一時期はその存在を信じられながら、やがて捨てられる運命をたどったはかない存在も、上のモデルで解釈できるだろう。多数の独立なヒントと見事に整合する、マス中の文字に相当するものを、これまではあえて同一不変性をよび、客観的実在とはよばなかった。その理由の一つは、主観・客観の形而上学からできるだけ身を遠ざけておきかったからである。しかし、物心二元論の虚構性に捕捉される心配がなくなれば、これを客観的実在とよんでも差し支えない。それは単に、すでに述べたような意味で同一不変な事象のクラスを、約束事として客観的実在とよんだまでであって、それ以上の超越的意味をこの言葉にあたえているわけではない。科学としては、もちろんそれで十分である。(pp.177-178)

これは私の「プラグマティック実在論」を彷彿とさせる。主客二元論が虚構とまでは言わないものの、「客観的実在」には超越的な意味を付与せず、あくまで「もっともらしい」限りにおいてその実在を信じる、という私の立場に非常に近いものを感じる。

【自律分散システム:市場秩序の分析へ】

最後に蛇足として、私が特に興味のある分野へ話を繋げてみたい。すなわち、自律分散システムとしての市場秩序の分析である。例えば、以下の文章は興味深い。

最近、「自律分散システム」の工学、「創発システム」の工学などというものが注目されている。そこでは自然的になさられる境界条件の制御が、しばしば人為的な制御をはるかに凌駕する見事さを示すという事実にまず注目する。生命過程を彷彿とさせるような、柔軟性に富んだ高度な機能をもつ人工システムを設計するためには、境界条件の制御における人為性の度合いを減らし、むしろ自然的制御に任せる部分を多く取り入れることが有効であり、大きな可能性をもつという思想がそこにある。(pp.52)

これはまさに、ハイエクが市場秩序について言い続けたことそのものである。市場は、複雑なパターンを生成させる非平衡開放系であり、また我々の設計能力を遥かに凌駕する見事さを示す自律分散システムである。これからは、市場を複雑系として分析する研究がますます重要になってくるだろう。私も手始めに、複雑系経済学の日本における権威である塩沢由典の著書『市場の秩序学』に挑んでみたいと思う。

2011年5月28日土曜日

【書評】 ハイエクと現代リベラリズム : 「アンチ合理主義リベラリズム」の諸相 (渡辺幹雄)

本書は渡辺幹雄の処女作『ハイエクと現代自由主義 : 「反合理主義的自由主義」の諸相』を改訂・増補・改題したものである。本書を読んで、渡辺幹雄という男はやはり天才以外の何者でもないという以前からの確信がさらに強まった。否、その独特の軽やかな語り口、捻くれたユーモアのセンス、そして何よりもハイエクらアンチ合理主義リベラリストたちの錯綜する議論を分かりやすく整理し、見事に調理していく手腕を見れば、むしろ「鬼才」という呼称が相応しいかもしれない。特に、新たに増補された付章一「複雑さと社会科学――ハイエクの方法論に関する試論」は貴重な知見に溢れていて、この章だけのために本書を読む価値はある。

【序論「リベラリズムとは何か」】

まず序論「リベラリズムとは何か」において渡辺氏はこう啖呵を切る。

リベラリズムは本来「反自然的」なのである。それがhuman natureの開花であろうはずがない。前期ロールズに受け継がれた啓蒙主義のリベラリズムは、その実human natureの神話に立脚した詭弁なのである。我々にリベラルであることを要求(強要)するのはそのhuman natureではなく、我々の直面する客観的境涯である。誰も好きこのんでリベラルになどなりはしない。ウォーリンが言うような悲観的境涯を生き抜くために、人は仕方なく、やむをえずリベラルになるのである。(p.13)

リベラリズムに人間の幸福を問うのはお門違いである。リベラリズムは幸福のためのガイドラインではなく、破滅を避けるための政治的知恵である。幸せになりたい人は、別のところに相談に行くべきであろう。リベラリズムにそれを求めても、期待は裏切られるだけである。(p.14)

渡辺氏のこのリベラリズム観には満腔の賛意を表したい。このリベラリズムは、前期ロールズに代表されるような、包括的な哲学や人間の普遍的道徳性に立脚したアメリカン・ハッピー・リベラリズムではない(このリベラリズムでは、リベラルな社会は「定義によって」幸福なのである)。否、ハイエク、ポパー、オークショット、M・ポランニー、バーリンに代表されるこのリベラリズムは、「敗北のリベラリズム」、「絶望のリベラリズム」なのである。

その通り、彼らは暗い。少なくとも、彼らの著作に(ときに笑えても)明るい夢や希望を見出すことはできない。いな、よく言えば老獪で、悪しく言えば嫌味な加齢臭の漂う「年寄りの説教」というのが妥当なところだろう。彼らのメッセージの最大公約数は、私にはこう響く。「鼻息の荒いお若いの、おまえの理想は高邁で、その原理原則は高潔だ。だが残念なことに、人間もこの世界も、おまえの言うようにはできていない。もしおまえの夢が現実になったら、この世は地獄になるだろう」。(p.7)

渡辺氏は彼らのリベラリズムを「アンチ合理主義リベラリズム」と呼び、本書ではハイエクを主軸に彼らの思想を一人ひとり読み解いていく。ハイエクを取り巻く重要思想家たちと対比させながら、ハイエク自身の思想に周縁から徐々に迫っていくという、本書のこの構成は間断を許さない。以下では、特に興味深かった論点をいくつか抽出してみたい。


【<P=O図式>の呪縛】

ハイエクに対するありがちな批判の一つに、彼が悪しき「経済主義」ないし「物質主義」の旗振り役だと言うものがある。例えばオークショット研究者ポール・フランコは、ハイエクがリベラルな政治社会を、それが生産性を向上させ、広く経済活動の効率を高める(経済主義・物質主義)がゆえに支持している、つまりハイエクのリベラリズム擁護は、経済的動機によってなされており、これが政治理論としてのリベラリズムを汚している、という旨の主張をしている。しかし、渡辺氏も指摘しているように、これはフランコが、ハイエクの経済思想に対して無理解であることを自ら露呈している。そこで渡辺氏は、ハイエクの経済観を説明するために、<P=O図式>という概念を導入する。

アリストテレスの学問分類によれば、経済(economy)はオイコス(家政)としてつねに政治(ポリス)に服従するべきものとされる。オイコスは人間の動物としての必要を満たす領域、換言すれば、必然性に拘束された不自由な私的空間――プライベート、すなわち人間の人間たる意味を「奪われた」(privatus)空間――であり、それに従事すべきは存在論的に未完成とされた女、子供そして奴隷であると言われた。これに対して、政治は人間(正しくは成人男子)の本質が開花する自由な公的空間であり、そこにおいてこそ人間が完全な人間として形成される(人格陶冶の)場であると考えられた。したがって女は男に、オイコスはポリスに、そして経済は政治に服するべきなのだ。今この図式を<ポリス=オイコス図式>(以下<P=O図式>とする)と呼ぶとすれば、この図式は――その冒頭の性差別的存在論を除いて――現代にいたっても数多の政治哲学者の共通図式になっている(彼らは妙に政治にプライドを持っている)。(p.131-132)

このアリストテレス以来の<P=O図式>を、civic humanism(人間は市民すなわち政治的人格であることに宿る)という形で現代にもっとも強力に復活させたのはハンナ・アーレントであろう。彼女にとって近代とは、本来私的空間であるはずのオイコス(経済)が、人間性の発現の場である公的空間ポリス(政治)を浸食し、それに取って代わる時代であった。オイコスの論理の拡大としての経済主義こそ、近代のリベラリズムを束縛し続け、政治社会のあるべき姿を歪めている元凶である、と彼女は考えたのである。そして、未だに多くの政治哲学者(渡辺氏は彼らを「アリストテレスの末裔」と呼ぶ)がこの図式を共有しており、また彼らにとって、ハイエクこそまさにこの悪しきオイコス主義の旗振り役なのである。

しかしハイエクにオイコス主義の名を着せるのは、単に彼の思想に対する無理解を露呈させるに過ぎない。というのも、ハイエクが一貫して批判し続けたのが、まさにこのオイコス主義だったからだ。ハイエクは「経済」という概念が、その語源に遡ってみればオイコス(家政)であること、もっと形式的に言えば、限られた資源を最大限効率的に活用することについての周到な計画であること――家計、経営、そして財政がみなこれに該当する――を承知している。

しかし、後期スコラ哲学者たちが公正な価格をめぐって逡巡し、ついにそれが市場の決める「自然価格」(natural price)であると悟ったとき、またアダム・スミスが「政治経済学」(political economy)なる(新奇な)ことばを使い始めたとき、経済の概念は歴史的な地殻変動を経験していたのであり、ハイエクもまたそのことに無頓着ではなかった。そこで生じていたのはまさしく経済概念のパラダイム・シフトであり、それはアリストテレス以来のオイコスを離れ、徐々に別の意味と次元に転移しつつあったのである。

そもそも上述の<P=O図式>からすれば、「政治経済学」なるタームは端的にカテゴリー・ミステイクないし定義矛盾である。なぜなら、それはまさに「ポリス的オイコス」と言ってるに等しく、哲学的にまったく不可能な概念だからである。しかしスミスがそこに見ていたのは、経済がもはや従来のアリストテレスの伝統、すなわち<P=O図式>では論じられないという、重大な歴史的転換であった。(p.133)

そしてこの歴史気転換を可能にしたのが、公的空間としての、そしてオイコスとポリスを包摂する「コスモス」としての「市場秩序」(market order)の出現であった。この秩序はいわばオイコスとポリスの母胎であり、その主体(個人、結社、企業、そして政府)の活動の「場」を提供するのである。ハイエクは言う。

市場という自生的秩序の重大な利点は、それが単に手段を介して結び付いている(means-connected)に過ぎないということ、それゆえ、目的についての合意を不必要にし、様々な目的の和解を可能にすることである。広く経済的関係と呼ばれるものは、実は、それら多くの様々な目的を追求する努力が、あらゆる手段の使用に影響を与える、という事実によって決定される関係なのである。<大いなる社会>(Great Society; アダム・スミス)の諸部分の相互依存や調和が純粋に経済的であるのは、まさしくこの「経済的」ということばの広い意味においてなのである。この広い意味で、<大いなる社会>の全体をまとめ上げる唯一の絆は純粋に経済的(もっと正確には「カタラクティック」)である、ということが示されると、大きな情緒的反発が生じた。(『法と立法と自由Ⅱ――社会正義の幻想』、p.112)

エコノミー(=オイコスの経済)と、カタラクシー(=コスモスの経済)を隔てるメルクマールは、「メンバーが目的を共有しているか否か」である。家計や結社や企業や政府などのメンバーはそれぞれ目的を共有しているが、それらが活動する「場」である市場秩序は何ら特定の「目的」を持たない。市場秩序では、行為主体の目的ベクトルは全方向に向いているのである。彼らを辛うじて繋ぎ留めているのは、彼らが「手段」を介して結び付いているという事実に過ぎない。そこにcivic humanism(アーレント)や公共性(ハーバーマス)を持ち込むのは、能天気なお花畑思考と言わざるを得ない。

アーレントをはじめ、ハーバーマスからロールズに至るまで、多くの政治哲学者たちは、市場秩序をオイコスと切り離して考えることが出来ない。彼らは未だに、市場秩序をオイコスの延長として捉えているのである。それはいまや、様々なオイコス(そしてポリス)の主体が活動する基盤であるにも関わらず、である。市場の政治的管理を主張することは、依然それが可能であると考える点で、未だ<P=O図式>の呪縛から抜け出せていないことの証左なのである。後期のスコラ哲学者が市場価格について見たもの、スミスが政治経済学ということばで意味したもの、これらのついての洞察が、ほとんどの政治哲学者には欠落している。また、ハイエクにとって経済という概念は二つの意味を持っており、第一義的にはそれがコスモスとしての市場秩序を意味すると言うことを、彼を「経済主義」「物質主義」の名の下で批判する論者たちは理解していないのである。

しかし、コスモスである市場秩序をオイコスの延長として捉えるこの錯誤の責を、すべて政治哲学に負わせるのは公平ではないだろう。というのも実は、この錯誤を助長していたのが当の経済学自身――より正確に言えば近代経済学の主流となった「一般均衡理論」――であるからだ。そこでは、すべての人が同一の客観的価格体系を目の当たりにし、同じ資源の賦存状態に直面し、さらに一定不変の技術を備え、固定的な趣向を示す。要するに「一般均衡理論」では、社会全体が一つのオイコス(家)になるのである。この理論の応用として、社会全体を「一つの工場」と捉え、それを合理的かつ意識的に設計・管理しようとする「市場社会主義」のような考え方が登場しても何ら不思議ではなかろう。


【不確実性の縮減】

ハイエクの「市場の哲学」を支える支柱は二つある。一つは「秩序論」であり、その大まかな概観は上の節にて描けたと思う。もう一つは「知識論」であり、これを「不確実性の縮減」という観点から読み解いていきたい。

社会は複雑系である。

すなわちそれは、諸要素の部分的・局所的な相互作用――この相互作用は比較的単純な法則に支配されている――によって、予期しえぬ仕方で大域的・大局的に創発(emerge)する秩序や構造のことである。相互作用が局所的であることは、一般均衡理論の場合とは違って、各要素が緩やかに結びついていること、その作用は無媒介的・無時間的に遠方に及ぶのではなく、近傍から徐々に波及していくことを示している。また、予期しえぬのは、ただ相互作用(系の発展)の法則だけを眺めていたのでは、系全体が示す統一的な振る舞いを予測できないことを表す。(p.399)

複雑系のイメージを掴むために、S・ウォルフラムの(一次元)セル・オートマトンをご覧頂きたい。セル・オートマトンは必ずと言っていいほど複雑系の入門書に登場する。

一次元のセル・オートマトンではセルが横一列に並んでいる。セルには「0」と「1」の二つの状態があり、それぞれ「白」と「黒」の色に対応している。任意の初期状態から、各セルは与えられた一定の論理規則に従って、現在の自分の状態(0か1か)と隣接する2つのセルの状態(それぞれ0か1か)の情報だけを頼りに、次世代の自分の状態を決定し、一段下のセルへ移行していく。したがって系の発展は決定論的である。さてウォルフラムは、セル・オートマトンが示す様々な振る舞いを調べていくうちに、論理規則の選び方によってそのパターンが四つのクラスに分類できることを発見した。このうちクラスⅠ~Ⅲは従来の古典力学のアトラクター(ある力学系が時間発展に従って収束していく集合)に対応している。しかし、クラスⅣのパターンは、従来の古典力学のアトラクターでは説明できない。従来の古典力学では、三つのアトラクターが知られている。ボールの落下のように、運動が停止してしまうもの(リミット・ポイント)。これが上の図におけるクラスⅠである。時計の振り子のように一定の周期運動に入るもの(リミット・サイクル)。これが上の図におけるクラスⅡである。そして、ローレンツの気象モデルのようにカオス・アトラクターに吸い込まれるもの。これが上の図におけるクラスⅢである。セル・オートマトンで言えば、ある規則群の下では、過度カオスを経たあと系は死滅してしまう。別の規則群では、過度的なカオスを経験したあと、系は完全な周期パターンを示すようになる。また別の規則群では、広域的なカオスが発生する。ところが上のモデルで興味深いのは、このいずれにも該当しない第四のパターンが出現したことである。それは運動を停止しないし、周期運動を示さないし、またカオスでもない。言ってみれば、そこでは明らかに一定の組織性を伴った過度的な状態が、延々と続いていくのである。このような構造を、我々はイリヤ・プリゴジンとともに、「散逸構造」(dissipative structure)と呼ぶことができる。散逸系は一定の定常性・構造性を維持しつつも、その時間に関して不可逆的な変化は、一刻も平衡・均衡を許さない。このようなメカニズムは雪の結晶から雲の形成、さらには細胞の自己組織化に至るまで、自然界のあらゆるパターン形成に深く関わっており、またプリゴジン自身も示唆しているように、市場秩序も散逸系である可能性が非常に高い。

セル・オートマトンで重要なのは、各セル(固体)は近傍の限られた情報にしか応答していないという事実である。これは複雑系に置かれた我々の境遇を忠実に反映している。つまり、複雑な環境においては、我々が処理できる情報には超え難い限界がある、という当たり前の事実である。言うまでもなくこの人間像は、「完全情報」(=全知全能)を前提とする主流経済学の一般均衡理論とは異なる。一般均衡理論の世界では、各行為主体はあらゆる情報を予め入手しており、その中から毎回最適な行動(利益を最大化し、損失を最小化する)を選択するが、現実の我々にそんなことはできない。

例えばチェス・ゲームを考えてみよう。チェスの勝負で取りうる手は有限であり、明らかに必勝のアルゴリズムが存在する。したがってコンピュータは、このアルゴリズムに則って計算し、毎回最適な戦略を選択する。一方、人間には(名人と言えども)、このような芸当は不可能である。あり得る選択の数はあまりにも膨大過ぎるからである。代わりに、我々人間は「暗黙的統覚」に依存する。チェスでは、我々は「定石」(=代表的なパターン)というものを学習しそれを利用する。

ここで重要なのは、まず第一に、このプロセスは明らかに最適化行為ではないということである。我々は敢えて遠回りをすることによって、処理しなければならない情報量を縮減するのである。そして第二に、いったん定石に落とし込むことで、ほぼ確実に期待したパフォーマンスが得られるという確信が存在するということである。言い換えれば、我々は規則に対して、それに従えば高い蓋然性で目標に到達できるという信頼を寄せているのである。

これはあらゆる法・規則・習慣・伝統に共通する性質である。「殺すなかれ」「盗むなかれ」(我々はバレ得る全てのルートを確実に把握することはできない)、「赤信号を渡るな」(流れていく車の物理的位置を計算しながら最適に道を渡ることはできない)、「自転車のこぎ方」(我々は、出くわす場面に応じて最適にハンドルを切りアクセルを踏むことはできない)、などなど。こうしたルール群は、暗黙知(=知恵)として先人や他人から伝達される。したがって、それは大抵の場合明文化不可能な知であり、学習することによってしか体得できない。またこれらのルールは全て、我々が処理しなければならない情報量を大幅に減殺し、我々の乏しい情報処理能力の作業範囲内に収めてくれるのである。

そして市場秩序における私有財産制も、このような暗黙的ルールの一例である。

この制度ほど毀誉褒貶に晒されてきたものはないが、その趣旨はきわめて明瞭、すなわち、無限大の情報エントロピーを、我々の処理能力の範囲内に縮減することである。すべての財産が共有の場合、その利用をめぐって我々はあらゆる情報を考慮しなければならない。しかるに、一定の財産管理を個人の専権事項とすることによって、我々は情報処理にともなう不確実性を大幅に削ぎ落とし、一定のパフォーマンスを確保することができる。一定範囲外の情報に、我々は目を向ける必要がなくなるのである。複雑で大規模な社会では、我々の処理能力は局所的な情報に限定されざるをえないから、私有財産制は複雑系の必要条件とも言えるであろう。(p.435)

私有財産制に基づく市場秩序では、我々は遠い出来事について知らなくても、ひとえに価格情報にだけ注目していればいい。これが、ハイエクが価格のことを「価格シグナル」(price signals)と呼ぶ所以である。市場秩序が優れているのは、時と場所によって変化する断片的な情報(例えば森林資源が稀少になっている、など)を、価格シグナルを通じて活用できる点にある。森林資源を購入する業者は、森林資源が少なくなった経緯や、その事実すら知らずして、ただ価格シグナルだけを見て、代替的な生産手段の模索や、生産工程の改良を図るようになる。このように市場は、価格シグナルを通じて人々に最適な行為をとるように促す。そして社会全体として、誰も意図しなくても、自生的な秩序が生成するというわけである。

しかし、未だに市場秩序に対して反旗を翻す人は後を絶たない。ハイエクも言うように、この人たちのメンタリティは、小規模の、何もかもが透明だった古きよきコミュニティ(部族社会)を志向しているのである。あらゆる不確実性から解放された古きよきコミュニティ(=低エントロピー社会)にもう一度帰りたい、不確実で理解できない諸力に晒される現代社会(=高エントロピー社会)から逃げ出したい。こうした部族社会への郷愁こそが、社会主義者からハーバーマスまでの人々に共通するメンタリティである。「労働者」であれ「民族」であれ「市民」であれ、透明なコミュニケーションの媒体がどこかに得られれば市場社会は乗り換えられる、と彼らは共通して信じているのである。しかし、それは全く非科学的な空想に過ぎない。


【「創発」の論理について】

本書における渡辺氏の見解にはほとんど賛成で、終始「ふむふむ」と頷きながら読み進めていったけれど、一部不満点もある。その一つが、渡辺氏の、決定論的な世界観に対するルサンチマンの痕が各所に散見される、という事実である。

渡辺氏自身も正しく論じているように、創発はあくまで認識論上・言語論上の現象であって、存在論上の現象ではない。

端的に言って、創発とは我々が対象を捉えるための言語にかかわるものであって、存在論的な実体にかかわるものではない。この点を押さえておかないと、ニューロンの相互作用から心が創発することをもって、脳と心を二つの異なる実体と見なす古典的な二元論が生じる。この誤謬は、リチャード・ローティが「言語の物象化」(reification of language)と呼んだ、哲学者たちの習慣的な性癖を表している。……ときとして、全体は部分と存在論的位相を異にするなどと言われたりもするが、それは結局、複数の異なるミクロな状態が同一のマクロな状態を実現しているとき、我々はもはや、個々の要素の実体的な性質に目を向けても埒があかず、むしろ、要素間の関係性にこそ気を配るべきだ、ということを意味している。……存在論的差異云々は、実は実体と関係性のオーバーな表現にすぎない。そして複雑系科学では、従来の実体中心主義から関係中心主義への重心の移行がポイントなのである。(p.399-402)

また、渡辺氏が、ハイエクとともに「複雑現象と単純現象の間にはなんら存在論的差異はなく、あるのはただ程度問題に過ぎない」と述べる時(p.386)、彼はまったく正しい。

しかし、「人工知能が意識を持ち得るか」という人工知能問題に言及するとき、渡辺氏は、ポランニーの暗黙知の概念に依拠することによって、J・サールらとともに「強い人工知能」論者――彼らは人工知能が「意識」を持ち得ること、そして最終的には人間たり得ることを主張する――を「近代合理主義」「科学主義」の名の下で批判しているが、私はこれには賛同できない。というのも、我々はD・デネットとともに、「人工知能は本当に暗黙的統覚を持ち得ないのだろうか?」という疑問を呈することができるからだ。実際にそこまで人工知能が発達するかどうかはともかく、原理的には、「複雑現象と単純現象の間にはなんら存在論的差異はなく、あるのはただ程度問題に過ぎない」というテーゼを真面目に受け止めるならば、人工知能が暗黙的統覚を持つことは十分可能なはずである。

複雑系の母胎であるカオスが全て決定論的な法則に従っていることが示唆しているように、我々の「心」を創発させるニューロンの相互作用のメカニズムも、同じく決定論的な法則に従っていることが十分考えられる。渡辺氏は各所で決定論的な世界観を「過てる合理主義」「科学主義」の仲間としてまとめて葬っているが、もう少し真面目にデネットの著作を読んでいれば、そういうことにはならなかったと思う。


【「科学者」であって「哲学者」ではない】

最後に、あとがきにおける渡辺氏の印象的な言葉で締めたい。

しみじみ感じたのは、ハイエクは「科学者」なのだなぁ、ということである。「市場の哲学」なる小洒落た言い方はしたものの、ハイエクは本来「哲学者」ではない、そんな印象をもった。私のイメージでは、哲学者たるものは大上段に第一原理(アプリオリな総合命題と思しき)を振りかざし、他の一切を論理的にブルドーズしてゆく人(あとは野となれ山となれ)である。彼らは現象の救済に興味はない。人間性についての、合理性についての、その他諸々についての第一原理は、現象についての説明力、その実行可能性とは無関係に正当性を付与される。その帰結としての哲学政治、哲学経済がいかなる現象的悲劇をもたらそうとも、それは哲学的原理の誤謬を示すどころか、糾弾すべき現象の不合理の証しにすぎない。マルクス主義とポル・ポトの惨劇は、その典型なのだろう。科学者ハイエクにとって、これは忍耐を欠く(そして往々にして自分の知性に酔う)哲学者特有の悪弊にほかならない。複雑な現象を丹念に、たゆまず、一つひとつ分析してゆく地味な作業に堪えられない人々が、おのれの知性を頼みにいわゆる「心的ショートカット」(少数の概念、カテゴリー、原理)に訴えて、現象の背後にある本質を見切ったなどと嘯くのである。現象の分析は少数の原理によって裁断できるほど容易ではない。ハイエクの叙述がしばしばまだるっこしく不明瞭であるのは、むしろ彼が現象に忠実であろうとするためである。この科学者と哲学者の対照は、人間の道徳性に関する哲学的考察をもって始まる初期のロールズと、現象の不可避的多元性から共生の原理を引く後期のロールズとの対照によく現れている。

また、ハイエクは「倫理」の教師でもない。我々の根深いところにある原始的な倫理感は、ときに我々の社会を破滅に導く。資本主義の不道徳さに対する倫理的義憤は、社会主義という名のディストピアをもたらした。それでいてなお、少なからぬ人々が、その動機の純粋さ(良心の声)をもって、その悲劇を免罪しようとしている。保守的なおじさんたちの嘆きとは逆に、人々の倫理感・道徳心はこれほどまでに強いのである。「私悪は公益」、ハイエクのヒーローの一人、バーナード・マンデヴィルの含蓄あるアフォリズムを理解できるほど、多くの人間は現象に忠実になれない。多くの場合、彼らは強すぎる倫理感に訴えて、我々の成し遂げてきたものを破壊してしまうのである。科学者たることは、ある意味、人間の本質に反するのかもしれない。(p.565-566)

2011年2月17日木曜日

サイバネティクスと「創発」

1990年代、アメリカの科学者の間で「知的設計論(インテリジェント・デザイン)」という考え方が広まった。その内容はというと、「知性ある設計者によって生命や宇宙の精妙なシステムが設計された」とする説で、従来のダーウィン的な進化論を否定するものだった。この説は、「原始的な動物が次第に進化して人間になった」という進化論の世界観と、「全ての人間の祖であるアダムは神によって創造され、その妻イヴはアダムの肋骨から生まれた」という聖書の記述を巡る論争から生まれたもので、創造論を信じるキリスト教徒やユダヤ教徒にとってはうってつけの理論だった。ブッシュ大統領をはじめ知的設計論を信じる一部の人たちは、公立学校の理科のカリキュラムに(進化論の代わりに)知的設計論を導入しようとする運動を展開し、社会問題になった。結局この試みは「政教分離の原則に反する」として、ペンシルベニア州裁判所によって知的設計論を教育することを禁止する判決が下され、問題は一応の解決をみた。

さて、この騒動のおかげで「知的設計論」 の世評は大きく損なわれる結果となったが、 果たしてその主張は本当にバカバカしいものだったのだろうか?果たして知的設計論は本当に科学的価値のない、単なる宗教的信条として処理してしまっていいのだろうか?私は「否」だと思う。というのも、生命や宇宙を設計したという「知性」は、必ずしも「神」である必要はないからだ。

サイバネティクス論などで有名なグレゴリー・ベイトソンは、生命と宇宙の法則性を司る大いなる「マインド」の存在を主張した。彼はその代表的著書『精神の生態学』(Steps to an Ecology of Mind)において、世界をシステムの連関・集積として捉え、それぞれのシステム内の諸要素が競争と相互依存を繰り返すことによってシステム全体の秩序が保たれていると述べている。これらのシステムはすべてフィードバックによって環境の変化に適応し、絶えず自己修正していく。(このようなシステムをサイバネティクス・システムと言う)。そしてすべてのシステムを秩序付ける大いなる法則性こそが「マインド」なのである。ベイトソンにとっては細胞も、人間の精神も、 動物の生態系も、高度な人間社会も、すべてサイバネティクス・システムであり、そこには常に「マインド」が遍在している。

例えばシロアリを想像してみて欲しい。シロアリは巨大で複雑な蟻塚を作ることで知られているが、それぞれのシロアリは驚くほど単純ないくつかの機械的な「行為ルール」に基づいて振舞っているに過ぎず、「意識」を持たない。(E.O. Wilson, The Insect Societies) しかも、「蟻塚の作り方」というもの自体は遺伝子に組み込まれておらず、それぞれのシロアリの行動は単独では意味を成さない。しかし、そのようなシロアリが何万匹と集まると、彼らの行動の集積の「意図せざる結果」として巨大で複雑な蟻塚が出現する。固体単位でみれば「知能」があるようにはとても思えないが、系全体としてみれば「知的」な生命体にみえるのである。

このような現象は「創発」(emergence)と呼ばれている。「創発」とは、要素の単純な相互作用や連関から、複雑なシステムやパターンが現れる現象のことだ。ただ、ここで注意しなければならないのは、「創発」には二種類――「弱い創発」と「強い創発」――があるということである。「弱い創発」は、「部分からは予測できない何か」が出現することを言うのに対して、「強い創発」は、「部分の総和以上の何か」が出現することを主張する。両者には明らかに違いがある。前者は、部分の単純な振る舞い以上の「何か」を想定しておらず、あくまでわれわれ人間には「予測できない」全体の性質に言及しているに過ぎないが、後者は部分の振る舞い以上の「何か」が実際に現象として生じることを想定している。言い換えれば、前者は観察する人間の主観に依存する認識論上の「創発」であり、後者は人間の主観からは独立した存在論上の「創発」である。

Mark Bedauは、「強い創発」が必然的に伴う「呪術的」な含意を、以下のように不安げに述べている。

強い創発は理論上は可能だが、不気味な「呪術的」要素を伴わざるを得ない。部分に還元できない付随的(スーパーヴィーニエント)な下方因果の力が出現し得るとすれば、それは定義上部分の性質の総和によるものではあり得ないのだから、どのようにしてあり得るというのだろうか?そのような因果力が本当にあるとすれば、それは我々の科学的知見からはおよそかけ離れたものである。したがって、そのような力の存在は、通常の唯物論的な世界観とは噛み合わない。そればかりではなく、そのような怪しい力を想定することは、創発が「無から有を得る」という非論理的な意味合いを孕んでいるのではないか、という以前からの憂慮が増すことになる。(Bedau, "Weak Emergence")

私もBedauと同様、「強い創発」には「オカルト的な薄気味悪さ」を感ぜざるを得ない。後の論文でBedeauが指摘しているように、「強い創発」の存在を想定することはおそらく科学的に誤りだろう。

さて、上の蟻塚の例に戻ろう。私が言いたいのは、「複雑な人間社会もシロアリの蟻塚と全く同じような現象なのではないか」ということである。自然界のすべての複雑現象――生命、精神、社会、生態系――も蟻塚の例と全く同じように、部分の機械的・法則的な振る舞いから、必然的帰結として「創発」している(ように見える)だけなのではないだろうか?

このことを示唆する面白い実験がある。トーマス・レイが開発した「Tierra」という人工生命システムだ。Tierraでは、自己複製する一個のプログラム(遺伝子コード)を「仮想生命」に見立て、コンピュータのメモリ空間内で「飼育」する。仮想生命に与えられたエネルギーは、割り当てられたCPU時間である。また、メモリ空間が一杯になってしまうと仮想生命は「子孫」を残すことができなくなってしまうので、メモリが80%以上になると「死神」が現れ、古い仮想生命から消去していく。さらに、自然界における「突然変異」に等しいものとして、自己増殖時に一定確率で遺伝子コード(CPUへの命令コード)のビットを反転させる。この三つの機械的な命令――「自己増殖」、「死」、「突然変異」――を与え、コンピュータを起動したまま長時間放置しただけで、本人ですら予想できなかった驚くべき仮想生命が次々と誕生したのである。別の仮想生命に寄生してCPU時間を奪う「寄生種」や、お互いに集団を形成して助け合いながら複製する「社会的パラサイト」や、「セックス」をして遺伝子同士を混ぜ合わせる仮想生命まで現れた。(詳しくは→http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/jinkou.html)。これは、いくつかの単純な「行為ルール」に基づく部分(遺伝子コード)の機械的な振る舞いから、予想できなかった全体が「創発」した例と言えるだろう。ならば、自然界の複雑現象も同様のメカニズムに基づいている可能性も十分あり得るのではなかろうか?

これがまさにベイトソンの世界観である。デカルトは「我思うゆえに我あり」と論じたが、本当に「我思う」と「我あり」の間のロジックは確かなのだろうか?我々が通常「意識」とみなしている現象は、実は我々の無知と人間中心的な推論による錯覚でない保証は、どこにあるのだろうか?はっきり言ってないと思う。このようにして、知的設計論は別の意味で復活してくるのである。この「新しい」知的設計論では、生命と宇宙を設計した「知性」 は「マインド」であり、「マインド」は我々を含むすべてのシステムに遍在していることになる。

しかし、このような議論は「強い創発」とは別の意味で薄気味悪い想像を孕んでいるように思える。つまり、我々が「没精神的」な存在であるならば、我々にとって自由意志の余地が無くなってしまうのではないだろうか、という想像である。果たして我々はシロアリと何ら変わりないのだろうか?私はそんなことはないと思う。確かに、(このような世界観を採用する限り)大きな視点で俯瞰すれば人間には自由意志がないと言えるかもしれない。しかし、我々は無知だ。シロアリが自らの作る蟻塚を予測できないのと同様に、我々は我々自身の未来を予測することはできない。我々にとって、自らの運命が既に決定されているのかどうかを論じることは意味を成さない――仮に決定されていたとしてもそれを知る術はないのだから。未来を知る術がない以上、我々は全力で大いなる自然(=マインド)にぶつかっていき、失敗してもまたぶつかっていくしかないだろう。それが自由意志を行使するということだ。