2015年6月12日金曜日

いわゆる「心身問題」について

ask.fmで頂いた「心身問題についてどうお考えでしょうか」という質問に対する回答が長くなってしまったので、以下にまとめてみる。



哲学を勉強し始めた頃は憎たらしい物理主義者だったんですが、哲学を勉強しているうちに汎心論者になってしまいました。正確にはライプニッツのモナド論をパース的に(つまり実念論的に)修正した立場です。

「心身問題」と一口に言っても、他我問題や実在の問題といった様々な形而上学的問題が複雑に絡み合っています。この相互連関を無視して「心身問題」だけを取り出し、「精神」と「物質」の関係はどうなっているのか、と問うのは素朴過ぎます。問題の所在を明らかにするには、まず「精神」「物質」という言葉が一体何を指しているのかを考察する必要があります。その最良のアプローチと私が考えるのは、これらの概念がいかにして生じるかを理念的に再構築してみる、いわば発生論的アプローチです。考察の出発点となるのは、いかなる区別にも先行する原初的な意識、つまり赤ちゃんの世界です(この再構築が「理念的」であらざるを得ないのは、我々は赤ちゃんのときの記憶にアクセスできないからです。したがって考察の対象は無意識的な推論になります)。「意識」という言葉を使いましたが、これは「物質」と対置されるようなものとは捉えないで下さい。「精神/物質」という区別が生じる以前の意識です。また「我/非我」という区別もこの段階ではまだないので、「私」がぴったり「世界」とそのまま一致しているような、いわば「他者の否定以前」の独我論的な意識です。このような意識から、いかにして「精神」「物質」といった概念が生じ得るかを考えてみましょう。

まず、意識の内容のうち、容易にコントロールできる部分とコントロール出来ない部分があることに気づきます。つまり意志に従う部分と意志に反発する部分です。パースのカテゴリーで言えばこれは第二性の発見に相当します。ここから「我」と「非我」の区別が生じます。容易にコントロールできる部分が「私の身体」であり、コントロール出来ない部分がいわゆる「外部世界」です。「外部世界」といっても、あくまで意識の内容であることに注意して下さい。もちろん、現に(今・ここ)意識の内容である必要はありませんが、原理的に意識の内容になり得る(認識可能である)ものでない限り、私は「実在」とは認めません。これは一種の観念論ですが、実念論と対立するものではありません(むしろ後者は前者を必然的に含意します)。

次に、「外部世界」として認識される意識の内容のうち、「私の身体」に相当する部分と似たパターンが存在することに気づきます。これが同じ人間の「他者」です。これらのパターンが、「私の身体」と同様の振る舞いをすることから、これらのパターンも「私」と同様の世界を見ているのだ、という仮説的推論が自然に働きます。つまり、「私の世界」と同様の世界が複数あり、人間(あるいは人間に近い動物)の形をしたパターンが、それらの世界の起点になっているのだという仮説です。ライプニッツのモナドはこの「世界の起点」に相当します。「Xが世界の起点になっていること」を、我々は通常「Xには精神がある」と表現します。したがって「精神」とは何らかの実体のようなものではなく、現象ないし経験が生じていることそのものです(ついでに言えば、心身問題の文脈でよく話題になる「クオリア」とは、以上の観点から考えれば「頭の中」にあるものでは決してなく、ある視点から見た世界そのものであることが分かります。例えばある被験者に光を見せ、「光はどこに見えますか」と問いかければ、被験者は当然自分の頭を指すのではなく、光源を指さします。このことの意味を十分に考えていない哲学者があまりにも多いと思います)。

さて、ここで一種の捻じれ構造が生じていることに気付かれたでしょうか?我々の出発点は、「私」と「世界」がぴったり一致するような、独我論的な意識でした。いわば、「世界が私の中にある」と言えるような段階の意識です。しかし徐々に客観性の階段を昇っていき、「私」は決してユニークではなく同じような世界を見る視点が無数にあることに気付くと、次の自然な仮説的推論として、「それぞれの視点が見ている一つの共通の世界がある」という推論が働きます。他の視点が生きている世界を「私」は直接生きることはできないので、これはあくまで仮説です。ライプニッツの言う「予定調和」、つまり世界の唯一性の仮説です。ある視点から眺めた街と、別の視点から眺めた街が、なお同じ街であることを我々は知っているのと同様に、ある精神が見ている世界と、別の精神が見ている世界が、同一の世界であることを我々は通常疑いません。これがいわゆる「客観的世界」ですが、こうした客観的世界の存在を前提にして初めて「私は世界の中にある」と言えるわけです。しかし、この段階に至っても「世界が私の中にある」のをやめたわけではありません。客観的世界といえどもやはり、一切の視点から独立に存在するわけではないからです。これが先に言及した、「私が世界の中にある」と同時に、「世界が私の中にある」という捻じれ構造です。

この捻じれ構造を理解可能にするために考えないといけないのは、世界の基本的な構成要素についてです。つまり世界は何でできているか?という問題です。上で見たように、世界はそれを眺める視点の中にしか存在しません。しかし問題は、これらの視点が眺めている共通の世界はどこにあるか、です。ライプニッツの答えは、「視点の集まりこそが世界である」というものでした。つまりそれぞれの視点が、他のすべての視点を見ている、ということです。ただしそれぞれの視点には、その視点の固有性から来る知覚の混雑があるために、他の視点そのものを見ることはできず、一人称視点から見た現象に「翻訳」した形でしか認識できません。現象としてエンコードされた他の視点の集まりこそが「物質」です。同じ世界を、「私」の意識の変容として見ることができるし、無数の視点の集まりとして見ることもできる、というわけです。これがライプニッツのモナドロジーの本質的洞察だと私は考えています。

かなり駆け足の説明になってしまったので、以前執筆した"The Perspectivism of Leibniz's Monadology"という論文を貼っておきます。ライプニッツのモナド論を心身問題の観点から論じています(英語ですが)。興味がありましたらどうぞ。

さて、冒頭で私は「ライプニッツのモナド論をパース的に修正した立場」だと述べましたが、これについて少し説明します。「モナド」というのはギリシア語で「単位」を意味するμονάςに由来する言葉ですが、ライプニッツがモナド論を考えた動機には、物質には何らかの統一原理がないと、単なる集合体になってしまうという発想があります。例えば羊の群れには統一原理がないので、ただの物質の集まりです。しかし人間も同様に物質に分解できますし、しかも無限に細かく分析していくことができます(ライプニッツの考えでは)。これだと人間も羊の群れと同じような集合体になってしまうと彼は考え、それを防ぐための統一原理として「真なる一性」ないし「実体形相」としてのモナドを考えたわけです。「モナドには窓がない」と彼が言うのもこのためです。つまりモナド間に因果作用や情報のやり取りがあると仮定すると、モナドの統一原理としての性格が損なわれると彼は考えていたのです。

しかしこれは私から見れば二つの点において唯名論的過ぎます。一つは、究極的実在を「個物」として考えている点です。もう一つは、観念を「魂の中にある」ものとして考えている点です。モナドの窓を開くことによって、ライプニッツの体系を実念論的に再解釈することができるとともに、上で触れた「予定調和」の仮説も不要になります。というのも、「調和」は予定されている必要はなく、観念同士の相互作用によって徐々に生じることが可能だからです。これが私の言うライプニッツの「パース的修正」です。

では「調和が徐々に生じる」とはどういうことでしょうか。パースがA・C・フレイザー編『バークリー著作書』の書評で挙げている例に、盲人と聾者の例があります。
盲人と聾者の二人の男がいると想定してみよう。盲人の方は殺害の宣告を聞き、銃声を聞き、そして被害者の悲鳴を聞く。聾者の方はその現場を見ている。二人の感覚経験は、それぞれの固有性によってこれ以上ないほど左右されている。感覚から得られる最初の情報、つまり最初の推論は、もう少し似たものになるだろう。例えば一方は大声を上げる男の観念、そして他方は脅迫的な面相の男の観念を持つかもしれない。しかし二人の最終的な結論、つまり感覚から最も隔たった考えは同一であり、それぞれの特有性からくる一面性から独立である。したがって、すべての問題には真の解、最終的な結論があり、これへ向かってすべての人間の意見は常に収斂しているのである。(EP1: 89)
いわば、不整合ないし不完全な世界同士がぶつかると自己修正ないし補完のプロセスが生じるわけです。このプロセスが無限に続くと仮定すると、徐々に一つの極限へ収束していきます。この探究の理想的極限が我々が「真理」と呼んでいるものです。そして真なる思考の対象が客観的世界、つまり上のライプニッツの体系で言えば無数の視点からなる世界です。こうして、観念同士の相互作用から調和が徐々に生じる過程を説明できます。ここで言う「調和」とは論理的整合性のことです。宇宙には、論理的整合性が増大する方向へ向かおうとする原初的な傾向性が存在すると考えるべきです(これがパースの言う第三性です)。かくして、まず一つの世界があるのではなく、まず無数の不整合な世界があり、それらの世界同士がぶつかることによって、徐々に一つの世界になっていく、という構図が出来ます。

また精神ないし魂とは、ライプニッツが考えたような絶対的な統一ではなく、ある程度の整合性を有する観念の束と考えるべきです。つまり統一性の有無は程度の差であっていいわけです。しかし魂の要件として統一性を重視したライプニッツの考えにも、ある真理が含まれていると思います。というのも、もし観念に統一性がなければ、それが一つの世界を眺める視点としてそもそも成立し得ないからです。いわば、観念間の分裂に対応して世界も分裂してしまうわけです。そして逆に言えば、観念間に整合性があれば、二つの精神はその限りにおいて世界を文字通り共有していると考えるべきです。したがって「私」と「汝」の差もあくまで程度の差です。愛する者同士の魂は融け合っているというのは、単なる比喩的表現ではありません。

2015年5月10日日曜日

相互情報量と記号過程

定義:「AがBについて情報を持っている」というのは、あるエージェントCが、AをもとにBについて実現確率の高い予測を行うことができる、ということである。そのような予測が可能であるためには、AとBの間に何らかの相関がなければならない。

確率論や情報理論に、二つの変数間の相互依存の度合いを表す尺度として相互情報量(mutual information)という概念があるが、上の情報の定義は、二つの点において相互情報量の概念を拡張したものである。一つは、AとBを「変数」に限定しない点。一般に、Xが変数であるためには、Xの取り得る値が一つのクラスを形成している必要があるが、上の情報の定義ではA、Bともにsui generisであっても構わない。

二つ目は、相関関係を解釈するエージェントCが定義に含まれている点。明らかに、情報はそれを情報として解釈するmindが存在しなければ、そもそも情報として成り立たない。同じ記号列であっても、ある解釈者には情報として認識され、別の解釈者には単なるノイズとして処理され得る。したがって情報伝達が成立するための要件として、適切な背景知識を持った解釈者の概念が不可欠である。相互情報量の場合、解釈者はデータを解析する科学者自身であるからそれを定義に含める必要はない。しかし私が関心を持っているのは情報が解釈者に伝達される過程なので、私の情報の定義には解釈者を不可欠な要素として含める。

さて、ここでPeirceの記号の定義に沿って情報伝達の過程を見て行こう。Peirceによれば、記号には三つの要素がある。すなわち、記号そのもの(狭義の記号)、その対象、そして解釈項である。記号そのものは、目の前に現われている何か、何らかのmanifestationである。上の情報の定義ではAに相当するものとしよう。記号の対象とは、何らかの仕方でその記号と相関付けられた何かである。したがって上の情報の定義ではBに相当する。記号は、対象との相関の仕方に応じてイコン、インデックス、シンボルの三種類に分類されるが、ここでは記号一般を考察する。一般に、BがAの対象だからといってAがBの対象とは限らない。これはAとBが異なる存在論的身分を持ち得るからである。最後に、解釈項とはAとBの相関をestablishする何かである。つまり解釈項がAとBを相関付けるのであり、それがなければそもそもAとBの相関は成立せず、したがって情報伝達も起きない。なお、厳密に言えば「解釈項」(interpretant)とは主体としての「解釈者」(interpreter)ではなく、解釈者の精神の中にある、相関を成立させる概念である。

上で述べた記号の定義を、具体的な例で考えてみよう。ある登山者が動物の足跡を発見し、それをもとに、自分の近くに熊がいると考えたとしよう。ここで(狭義の)記号Aは足跡であり、Aの指示対象Bは熊であり、解釈項Cは登山者の背景知識である。登山者の背景知識により、足跡と熊が相関付けられ、その結果、(登山者の背景知識が適切であれば)足跡の指示対象たる熊について実現確率の高い予測(この方向に行けば、太く短い四肢を持った大型の哺乳類が出没するだろう、等々)を行うことができる。

この過程を次のように表現することもできる。すなわち、記号Aと対象Bの相関が、解釈項Cに伝染し、BとCの間にも相関が生まれた、と。例えば登山者が、一緒にいる人間に「熊がいるから気を付けろ」と言うかもしれない。この場合、AとBの相関が、Cを介してさらなる解釈項Dに伝えられている。ここで解釈項Dにとって、AとBの相関を成立させた概念C(の表現としての登山者の発話)が記号であり、Bがその指示対象である。つまり、先の記号作用において解釈項だったものが、新たな記号作用において記号となっているのであり、新たな解釈項Dが、CとBとの間に相関をestablishしている。無限に連鎖し得るこの作用を、Peirceは、おそらく紀元前1世紀のエピキュリアンであるフィロデモスの著作「推論の方法について」から語を借用して、「記号過程」(semiosis)と呼んだ。記号過程により、元の相関関係が次々と伝染していき、対象Bについての情報が流れていく

最後に、情報の「形相付与」としての側面について。英語のinformationの語源を遡れば、「形相を付与する」という意味のラテン語の動詞informareから来ていることが分かる(Capurro & Hjørland, 2003, "The Concept of Information"を参照)。未だ述語付けられていない目の前の何かに形相を付与する、つまり主語実体を述語付けることによって、その目の前の何かが、いわば相関関係のネットワークの一つのノードになる。こう考えることによって、私が本記事の冒頭で与えた情報の定義を、Peirceが1867年の論文"Upon Logical Comprehension and Extension"で与えている情報の定義と整合化させることができる。

2014年11月30日日曜日

Pancomputationalism in the Light of Peirce's Cosmogony

Warning: the following is highly speculative. Take with several grains of salt.

There is an idea gaining support among physicists recently called pancomputationalism (e.g. Gerard 't Hooft, Seth Lloyd, David Deutsch), according to which the universe is literally a giant quantum computer computing its own evolution. In this view, the laws of physics can be understood as algorithms which produce patterns, and these patterns in turn act as algorithms and produce further patterns, and so on ad infinitum. The initial algorithms are products of randomness, of quantum fluctuations in the early universe, which spread themselves via entanglement and reinforced themselves via the positive feedback feature of gravity. (Of course a theory of quantum gravity is here assumed to precede the beginning of the universe.) So physics is nothing but the study of information, of patterns of computation.

Now computation is only another word for the semiotic process. So we are led to Peirce's doctrine of pansemiosis, according to which the universe is an "argument, " inferring its own evolution through deduction, induction, and abduction. It need hardly be mentioned that the above description of pancomputationalism bears striking resemblances with Peirce's cosmogony. Quantum fluctuations are Firstness, the chaos form which the universe sprang, and the infectious nature of quantum entanglement corresponds to Thirdness. (Where Lloyd says that "information tends to spread, " Peirce writes that "ideas tend to spread". These are doubtless two expressions of the same fact). Secondness, the category of individuation, may be understood in terms of decoherence. In the near future, perhaps physics and semiotics will converge towards a single discipline, into a Physics conceived as Semiotics.

What is information?
Information is the anticipation of a certain outcome based on a correlation. A possesses information about B if an observer is able to make a prediction about B, with a probability higher than 1/2, on the basis of A. For example, a footprint in the snow (a sign) possesses information about the animal that made it (its object), if an observer is able to make a hypothetical judgment about the latter on the basis of the correlation that is assumed to exist between the sign and its object. The correlation is "assumed" only in the case that there is a real tendency for the hypothesis of the sort to be borne out in experience, and only in such a case will there be a flow of information, in which the observer is "infected" by the correlation. So information is essentially a Triadic concept, involving two correlated states and an interpreting agent.

2014年8月20日水曜日

【メモ】 Lawrence Sklar (1982) "Saving the Noumena"

以下、頁番号はすべてThe Philosophy of Science (Oxford Readings in Philosophy)のもの。

二つの理論があって、経験的帰結だけではどちらの理論が正しいかを決定できないとき、実証主義者はこう考える:同じ経験的帰結をもたらす二つの理論は等価である。(これを実証主義の等価原理と呼ぶ)

この考えは一見説得的だが、Sklarによると、理論的対象(原理的に観測不可能な対象)に対する反実在論的な態度を伴う。例えば電子に対して存在論的にコミットする理論と、単に道具主義的に扱う理論とが、「現象を救う」限りにおいて等価になってしまう。実在論者としては、これを回避したいが、そのためには実証主義の等価原理よりも強い何らかの理論の等価性の条件を案出しなければならない。

【構造的同型性】

Sklarが提案するのは、二つの理論の間に構造的な同型性があること。

Two theories might have all the same observational predictions but be so radically different in their structure at the theoretical level that one ought to take them as attributing (realistically) quite different explanatory structures to the world. (p.67)

Together, these two features of the theory, commonality of observational consequences and the existence of the appropriate structural mapping at the theoretical level, are taken to be enough to establish theoretical equivalence. (p.66)

しかし、この条件には難点があるとSklarは言う。デカルト流の、欺く悪霊の想定や、水槽の脳のような想定が、通常の実在論的な記述と等価になってしまうという点である。これだと実証主義に接近し過ぎだとSklarは指摘する。

For if the brain-in-a-vat account of the world is really equivalent to the ordinary material object world account, so long as the brain-in-a-vat account is suitably formally structured, then have we really gotten very far from merely saving the phenomena as sufficient for theoretical equivalence? (p.70)

→ これに対しては、次のように答えることができる。もし存在論的なコミットメントに関して異なる二つの理論が構造的に同型であるならば、その二つの理論は等価である。構造を離れた何らかの存在者を想定する必要はない、と。「欺く悪霊」の理論は、我々の通常の世界記述を、ミスリーディングな言い回しで言い換えたものに過ぎないのではないか。

【理論の決定】

経験的なレベルにおける等価性よりも強い等価性の条件を主張すると、理論選択の合理化の問題が再浮上する。

Taking equivalence to demand more than commonality of observational consequences, the realist is faced with the threat of skepticism which arises when he tolerates inequivalent theories having all their observational consequences in common. (p.73)

例えば理論の単純性や、過去の理論との連続性といった基準が考えられるが、実在論者は、その基準が合理的である理由を説明する必要がある。

→ 思うに、この点が問題になるのは、観察可能/観察不可能という区分を、Sklarが真に受け過ぎているから。彼は、観察可能性と検証可能性とを混同している。前者は後者を含意しない。というのも、観察不可能だが間接的に検証可能な事例は数多く存在するから。例えば、電場。電場は直接観察不可能だが、真空中の荷電粒子が加速されるのを観察できれば、荷電粒子に力を及ぼす空間の性質が存在すると結論できる。これを我々は電場と呼んでいるわけだ。要は、検証可能性は観察可能性よりも広い概念だということ。そして、Sklarの想定する実在論者に反して、この広い意味の検証によっても区別できない二つの理論があれば、その二つの理論は等価であると主張しても良いのではないか。今の私に擁護できるテーゼではないが、次のように主張したい:同じ経験的帰結を含意する二つの理論は、構造的にも同型である。つまり、構造が異なれば、その違いは必ず(間接的にであれ)検出可能だということ。

【説明】

理論の決定問題は、データから理論へ向かう「上向き」の問題であった。次は理論からデータへ「下向き」へ向かう説明の問題を考える。ある理論のCraigian還元、つまりその理論の観察可能な帰結をすべて述べる文への還元を考える。実在論者は、Craigian還元が、元の理論と等価、あるいは元の理論よりも単純で優れた定式化であるという結論を回避したい。そのために、実在論者は、Craigian還元には説明力がないと主張する。

Theoretical postulation, we are told, does not merely summarize observational generality nor accommodate it in a compact syntactical form. Theoretical postulation is taken to explain the observational generality. Hence the mere statement of that generality is, in a fundamental sense, totally devoid of any real explanatory power. (p.76)

しかし、「説明力」とは何であろうか。少なくとも、(経験的等価性に加えて)構造の同型性を理論の等価性の十分な条件と見なすような実在論者にとっては、このような観察可能な事実を超えた「説明力」の概念は収まりが悪い。

I want to argue that there is a fundamental tension between the realist's desire to posit a notion of explanation over and above that adopted by the positivist, and his desire to maintain a theory of the meaning of theoretical terms which allows for the notion of theoretical equivalence we have been discussing. (p.77)

理論的な対象や性質を措定することによって、現象に一体何が加わるのか?という問いに対する答えの一つの候補は、「統一」である。例えば、慣性運動が特権的な運動状態として観察されることから、時空構造そのものを、運動する物体から独立の実体として措定するケースを考える。物理的系と、その背後にあるこの時空構造との関係によって、慣性運動と非慣性運動の力学的・光学的な差異が説明される。実在論者によれば、かくして多様な現象が、一つの形式の元に統一される。

これに対する実証主義者の反論:
The appearance of additional explanatory value in the substantivalist spacetime account, over the purely relationist theory, is due to the fact that while the reference to spacetime itself is really introduced only in the holistic-place-in-the-theory manner of the realist we have been emphasizing, the naive picture of spacetime as a kind of "ghostly" substance, sort of like a thin "rigid" extended material thing, gives us the impression that we are getting an explanation like that which the other kind of realist would offer. (p.78)

これは全くその通りと思われる。結局、

[T]his notion of theoretical meaning [as holistic place in the theory] and of theoretical equivalence [as observational equivalence + structural isomorphism] ... suffers also from the difficulty of making it hard for us to see just what it is that is explanatory in a theory, or in any of its equivalents, which is not already there in the allegedly nonequivalent and non-explanatory Craigian reduction of the theory so beloved of positivists. (p.79)

Craigian還元でもなく、理論外からの意味の輸入に依存するような説明でもない、二つの極端の間を行く何らかの「統一」の概念が必要と考えられる。

2014年7月14日月曜日

感覚の秩序と物理的世界の秩序

感覚の秩序:
事物は、それらが生体に対して及ぼす効果に応じて分類され、感覚の秩序へ組み込まれる。ある事物がこの秩序内に占める位置は、生体に対してその事物が及ぼす効果を表現している。

物理的世界の秩序:
事物は、それらが互いに及ぼす効果に応じて分類され、物理的世界の秩序へ組み込まれる。事物がこの秩序内に占める位置は、それが他の諸事物と取り結ぶ相互的な関係を表現している。

科学の過程は、前者の感覚秩序による事物の分類を、徐々に、後者の物理的秩序による事物の分類に置き換えて行く過程と見なすことができる。これはすなわち、事物が生体に対して及ぼす効果を度外視していく過程に他ならない。

例えば、水と塩酸は、見た目は同じであるから、(少なくとも視覚刺激に限定すれば)感覚秩序においては同じ事物として分類される。しかし、水は鉄と反応しないが、塩酸は鉄を溶かす、という風に、他の事物との相互関係に基づいて、我々は水と塩酸を別の事物として分類できる。これはごく素朴な例であるが、感覚秩序を徐々に物理的秩序に置き換えて行く過程のエッセンスを捉えていると思われる。

ここで重要なのは、物理的世界の秩序はあくまで関係の秩序である、という点。物理的な事物は、物理的構造の中のノードとしてしか意味を持たず、その構造と無関係であるような如何なる性質も持たない。「塩酸」という概念の意味は、それが他の概念と取り結ぶ関係によって尽くされており、それを超えた「塩酸そのもの性」のようなものはない。

物理的構造の実在性

『実体概念と関数概念』においてCassirerは、変換に対する頑強性を以て構造の客観性(実在性)を定義した。しかし、これだけでは、少なくとも物理的構造の場合、客観性の基準として十分でないように思われる。というのも、同じデータを説明できる構造が、一意的に決まるとは限らないからである。変換に対する頑強性という客観性の捉え方の不十分さは、経験との結び付きが欠けていることに起因している。経験を考慮するには、ある構造の予測能力が、変換によってどの程度影響を蒙るかを考察する必要がある。

2014年7月3日木曜日

異なる次元を持つ物理量同士の乗除がよくて、加減がいけない理由

異なる次元を持つ物理量同士の掛け算や割り算はよくて、足し算や引き算がいけないのは、物理学を習った人なら誰もが知っているだろう。例えば長さ÷時間=速度だが、長さ+時間というのは意味を成さない。しかし、このルールは大概、直観的に正しいものとして提示されるだけで、その論拠が示されることは殆どない(少なくとも初等的な教育では)。長さ+時間が「意味を成さない」とは一体どういうことだろうか?

まず準備として、「単位」(unit)と「次元」(dimension)という二つの概念を区別しておきたい。例として、m、km、parsecなどはそれぞれ別の単位であり、これらはすべて同じ「長さ」という次元を持つ。次元が同じで単位が異なる二つの物理量は、スケールを変換する関係式を利用して単位を揃えることができる(例えば1km = 1000mという関係を利用すれば、1km+100mの単位を揃えて1100mと書くことができる)。

さて、「林檎と蜜柑の足し算」というシンプルな例から始める。「林檎」と「蜜柑」をそれぞれ別の次元の単位と見なし、それぞれの個数の合計を考える。異なる次元を持つ物理量同士の足し算はできないと思われるかもしれないが、何のことはない。「果物」という、「林檎+蜜柑」の次元を持つ新しい単位を導入して、数値同士を足した結果に付与すればいい。例えば1林檎+1蜜柑=2果物、という風に。この新しい単位は全く問題なく使えるし、現に我々は日常生活の中で使っている。この例を見れば、異なる次元を持つ物理量同士の加減を排除する理由はないように見える。確かに、アプリオリに排除する理由は全くないが、上の議論をあらゆる物理量に一般化できない理由がある。

上の林檎と蜜柑の例と全く同じように、

a [m] + b [s] = c [x] …… ①  (a、b、cは何らかの数値、mはメートル、sは秒)

と置いて、新しい単位xを導入する。このxがどのような単位であるかは分からないが、長さ+時間の次元を持つもの、という風に約束しておく。さて、c[x]で表される上の量を、b[s]のスケールをμsに変えて表すとすればどうなるか。このときb[s] = 106・b[μs]である。同様にa[m]もcmに変換する。すなわちa[m] = 100a[cm]である。スケール変換後の量c[x]をc'[x']と置く(x'はxと同じ次元を持つがxとは別の単位である)。すなわち

100a [cm] + 106・b [μs] = c' [x'] …… ②

これら二つの式を用いて、個々のケースにおいて、c[x]とc'[x']をそれぞれ求めることができる。例えばa = b = 1の場合、c = 2、c' = 102+106と求まる。[1] しかし、a、bが分からない状態で、cを直接c'に変換することはできない。時間と長さのスケールの変換の仕方によっては、写像f:c→c'を具体的に求めることができる場合もあるが(例えばa、bが一律に10倍であればcも10倍)、一般的には不可能である。a[m]、b[s]の値が分からないとc'[x']の値は求まらないわけだから、c'[x']は①式で定めたスケールに依存していることが見て取れる。

では乗除の場合はどうであろうか。

a [m] ・ b [s] = c [y] …… ③

という掛け算を考える(割り算の場合も同様)。 yは長さ・時間の次元を持つ単位である。上の足し算の場合と同じように、a[m]とb[s]のそれぞれのスケールをcm、μsに変換し、変換後の量c[y]をc'[y']と置く。すると

c' [y'] = 100a[cm] ・ 106・b [μs] = 108a・b [cm・μs] = 108c [cm・μs] …… ④

③④式より、c[y] (= c'[y']) = 108c[y'] という単位間の変換式が得られ、a、bの値が分からなくても、直接cをc'に、あるいはc'をcに変換できることが分かる(ここではc'=108c)。つまりc'[y']の値(およびc[y]の値)はスケールの取り方に依存していない。

以上まとめると、異なる次元を持つ物理量同士の加減の場合、新しい単位を導入して加減の結果を表すことは可能だが、この新しい単位における値は、最初のスケールの取り方に依存してしまい、そのスケールにおけるそれぞれの要素の値が分かっていないと、別のスケールにおける結果の値を求めることができない。対して乗除の場合、新しく導入された単位はスケールの取り方に依存せず、ある変換式によって異なるスケール間を簡単に往復できる。スケールの取り方に依存しない、というのは恣意性を排除する上で重要である。物理学の法則が、メートルや秒といった特定の単位の取り方に依存していてはまずい。F = maという関係は、どのような単位で測定しようが成り立たなければならない。物理学では、これを対象や法則のスケール不変性(scale invariance)という。そしてスケール不変性が成り立つためには、異なるスケール間を行き来できる変換式が存在しなければならないのだ。

なお、最初の林檎と蜜柑のケースでは、「果物」という新しい単位が、特定のスケールに依存しているが、これはさほど問題にならない。なぜなら、日常観察される離散的な個物の場合、1、2、3、という風に数える単位系が自然であり、あまり恣意性がないからである。


[1] 我々は異なる次元同士の加減に慣れていないので、この求め方は一見変に見えるかもしれないが、等式の両辺の次元が等しいことを念頭に置いて、a+b [m+s] = c [x]、という風に数値と単位を分けて考えれば良い。ただ単位を、通常の代数法則を満たし、数値と同等の身分を持つ記号として扱うならば、もちろんax+by = (a+b)(x+y)といったような関係は成り立たない。これを以て、異なる次元を持つ物理量同士の加減を禁止する論拠と見なすことも可能だろうが、ここでは約束として、単位を数値と同等の記号としては扱わない。というのも、単位を数値と同等の記号と見なすことを正当化するのは、以下において説明するスケール不変性の議論の結果であるように思われるからである。少なくとも、単位が数値と同等の記号と見なされるべきであることは、決して自明ではない。

2014年5月23日金曜日

一人称視点と三人称視点

一人称視点って何なのか、割と分かりやすいと思うんだけど、三人称視点って何なのか、って聞かれると答えに窮する。一人称視点から徐々に生じるのは間違いない。しかしどうやって生じるのか?そして精神と物体は、これら二つの視点とどう関係している?

まず一人称視点について考えてみる。ある被験者に光を見せ、どこに光が見えるかと問うと、彼らは自分の頭を指すのではなく、光源の位置を指す。つまりクオリアは、被験者の視点から見れば脳内にあるのではなく、対象の位置にある。というより、そもそもクオリアとは、一人称視点から見た物質的対象に他ならない。一人称視点から見れば、あらゆる経験は「私」の経験であるという意味で、「世界は私の中にある」と言える(このような反省的了解は必ずしもないにせよ)。ここではクオリア=物体である。

さて、発生論的に考えると、一人称視点に対して現われる様々な知覚経験の中から、相対的に永続的な要素と、相対的に流動的な要素とが区別され始める。主観と客観の区別の出現である。例えば、空間や時間の座標変換に対して不変に保たれる構造を見出すと、我々はその構造を一つの個物として同定する。実際の主観/客観区別の出現はもっと複雑な要素が色々絡み合っていると思われるので、ここでは割愛する。

いずれ、自分の身体とよく似た構造を知覚経験の中に見出すようになる。すなわち同胞の生命体である。そしてどうやら、これらの同胞たちも、自分と同じように世界を知覚しているらしい、ということを複雑なプロセスを経て学習する。ここに至って「一つの世界」と、それを眺める「複数の主観」という発想が生まれる。これが三人称視点に他ならない。「精神」とは、三人称視点から他者(同胞生命体)の振る舞いのパターンを観察し、それを手掛かりに、他者も自分と同じように世界を経験をしているに違いない、という類推の結果生じる概念。自分に対して「精神」の概念を適用することも可能だが、ここで言う「自分」とは、あくまで三人称視点から見た自分である。さて、問題は次の通りとなる:物体とは何か?

(暫定的回答:おそらく、錯覚や認知上の誤謬に遭遇し、主観と客観の分離が進行したのに伴って、思考によって改変したり破壊したりすることができず、かつ安定的、永続的に持続する経験の要素が「客観」の側に括られ、それ以外が「主観」の側に括られ、そして前者が「物体」と名付けられたうえで実体化された「精神」概念にjuxtaposeされたのだろう)。